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火事なのに火を消そうとすると殺される

家が燃えているのに、今日の晩ご飯の材料の買い物を、どこでどのようにしたか?なんて内容で夫婦喧嘩しているかのような、日本のメディアや意識高い人たちの、無責任な批判のための批判・・その他、その他、意識高い方々のおっしゃる事は、私には良く分かりません・・・

今、家が燃えているのだから、火を消す事が一番優先されるべき事なのに、手続きの不備の揚げ足を過剰に取ったり、それどころか火を消し止めた英雄が、自分の気に入らない人であれば、火をいち早く消すために何かしらの手続きを省いた事を取り上げ犯罪者扱いしたり、学歴や産まれを揶揄したり・・・・・

あ・・・でもそういう傾向は、別に意識高い人でなくても、一般社会ではありがちなのかな、とも思います

問題意識の上滑り感というか・・・そういう感じです

例えば日本の伝統工芸が消える、どうにかしないと!と騒ぎながら身内同士で瑣末な揚げ足を取り合ったり、いつまでも揉めて何もしないよりも悪い事態に陥ったり、まるで無関心で荒れ放題のまま放置になったりするのは良くある事です。それこそ、そのための会議の席順が、伝統工芸の維持存続問題よりも重要な案件だったり・・・笑

日本の職人仕事が無くなってしまう・・・高度な事が出来るのは75歳ぐらいの人ばかりだ・・あと5年10年でもう途絶えてしまう・・後継者を・・・なんて今言われておりますが、しかし後継者問題は60年以上言われているのではないでしょうか?具体的な方策と行動を起こさずに、やらなきゃやらなきゃと言っている間に、もう弟子に教えるような体力気力を持つ人はいなくなってしまうのです。そして、プロがプロの現場で弟子を育成するのではなく「学校ビジネス」が盛んになって行きます。送り出す先の世界は瀕死の状態なのに・・・

「職人衆昔ばなし 斉藤隆介著 文藝春秋刊」

という1967年に出版された本でも、既に職人は食えない、とおっしゃる職人さんがいらっしゃいます。ちなみにこの本は、最近電子書籍になったようですね。オススメですよ

それでも現在に比べれば、この本が出版された時代はいろいろな意味で職人にとっては良い時代でしたが・・・

例えば、業界の流通やシステムを変えなければ、モノ作りの人達が疲弊して終わってしまう!エンドユーザーが、不当に高額なものを買わされている!改善しなければ!なんて事はいつも言われている事ですが、そのような「職人を救え!」「顧客第一主義!」系のものは「商売用の美言」として使われる事があっても実際の永続的で具体的な運動になる事は殆どありません。具体的な活動をすると業界から潰されてしまうからです

それは「商売用の美言」を超えてはならないのです

どこにでも良くある話ですが、

「このままでは業界の未来は破滅に向かうだけだ!このような構造は変えなければならない!」

「では、早速、このように変えてみたらどうでしょう?」

「キミは、どうしてそんな事を言うんだ!怒」

「え・・・?今、我々は未来のため変わらなければならない、とおっしゃったのでは・・・?」

「そういう話ではない!」

なんてオチになるのは、個人的にあらゆるバリエーションで、何度も経験しております

「濡れ手に粟的に楽に儲けられる仕組み」を持っている人にとっては、業界の未来なんて知ったことでは無いのです。その仕組を自ら手放すわけはないのです。そのような人たちは、表向きは業界の未来を良くするための意見に賛同するものの、裏から手を回して未来のための行動をする人々の妨害をしたりします。余計な事をするヤツは始末しておかなければなりませんからね

そもそも経済に関わらず、人は普段の慣習を簡単に変えたりはしません

飲酒が原因の肝硬変の患者が、呑むのはいけないと分かっていても「今までの慣習」を変えられず、早死にするようなものです。今の快に流れていく方を選びます。分かっていても変えられないのです

街が火事だ、火を消すには、あなたの家の屋根に乗って水を撒かなければならない、あなたの家の屋根や庭に少し損害が出るかも知れない、なんて事になると、火を消そうとする人は引きずり降ろされ殺されてしまう。そんな余計な事をするな、火なんて勝手に消える!

街の人々は、火事だ火事だと騒いでいるけども、自分の家には火は来ない、今までウチは火事になった事がないから。これからも火事なんて起こらないに決まっている!燃えるのは他所だけだ、ウチには関係ない!どうせそのうち火は消えるさ、そんな事より今日は毎週観ているテレビ番組の放映日だ、アレは絶対に観なければならん・・・

(火事という現実・観たくない現実よりも、毎週観ているテレビ番組の方がずっと現実感がある重要事項になってしまっているのです)

そんな事をしているうちに、火が自分の家に迫り、燃え始めると、とたんに「早く俺の家の火を消せ!どうして今まで街の火を消さなかったんだ!お陰で俺の家が燃えてしまったではないか!」と火を消そうと尽力した人たちを罵倒する・・・

「今まで通りで良いのだ。自分が行動して損するのはイヤだ」と家のなかにいて、火を消そうとする人々に協力する事もせずにいた結果、街は燃え、自分の家が燃え、自分自身も灰になってしまう・・・

あ、こっちのパターンもありますね。

仮に、その人の家がどうにか燃えずに済んだとして・・・

まるで街全体の事など考えない、非協力的な家主の妨害を乗り越え、火を消し止めてくれた人たちを、こんな風に罵倒するのです

「おい!お前らが火を消すために水を撒いたから、ウチが水びたしになったではないか!お前らが火を消そうとしなければこんな事にはならなかったんだ!どうしてくれるんだ!」

・・・燃えるよりはマシだったとしても、そういう人はそういう態度です・・・

本当に、こういう人たちがいるのが、面白いです。いや面白くはないですが・・・

まあ、そういうのが「文化的寿命が尽きる」という事です

何かしらのモノや形式は、それ自体は単なるモノや形式に過ぎませんから、人々がそれらに関する興味を失うという事が、その文化の終わりという事になります

実際、世の中には新しく面白い、かつ役に立つものが次から次へと産まれ、そのような新しい分野にも高度な職人芸は存在します

そのような時代の激流に晒され、それでも人々の興味を引きつけ続けるものが、伝統の芯の部分とつながり、新しく伝統のひとつになって行くわけですから、その淘汰は起こらなければならないものです

ただ、いつも言う通り、何も抵抗しないで消えてしまうのは違うと思うので、私は自分なりに試行錯誤し、抵抗をし続けるというわけです

無駄なのかも知れませんが、無駄こそ文化、無駄こそ人生・・です。笑


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