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「思い」と「実行動」が分離した時から、その文化の寿命の終わりが始まります

ネットを徘徊していたら、有名な紬織りの工房への取材のブログ記事があって、ちょっと立ち寄って読んでみました。

「昔は(昭和30年代)織った先からどんどん売れた時代があり、毎月18本織る腕の良い職人もいた。織ったら織った分だけ全て売れた」らしいです。スゴイですね。

しかし「現状は(2010年の記事でした)沢山織っても売れないので工房をどうにか回せる程度の仕事をどうにか得ている」との事。

そのブログ主さんの感想として

【〜呉服業界では「幻の〇〇」といった具合に、いかにもそれが貴重なものかのように宣伝して高価に売ろうとするが、しかし実際には、産地ではモノを作っても売れないので生産しておらず、作る人もいなくなった、というだけの話である〜】

・・・というような事が書いてあって、ああ、全くその通りだ、と私は思いました。

社会の需要が無くなった物や人、それを取り巻く文化は淘汰されます。

今まであった美しいものが無くなるのは悲しい事ですが、それが消えないように社会の人、業界の人のどちらも、具体的に行動を起こしたわけではないのです。「思い」だけでは、現実的に社会の何かを変える力を持っていません。

「追慕の念」は人々のこころの中にしか無いのです。それが行動に結びつくとは限りません。

正確に言うと

「思いと実行動が分離した時から」その文化の寿命の終わりが始まります。

業界人と、社会の人々、どちらかの分離が始まれば、終わりが始まります。

真の需要がまだあれば、環境的な問題でその文化が衰退して来たとしても「残したいという思いと、現実的に残すための行動に分離が無い」のです。また、その文化を取りまく色々が本当に悪くなってしまう前にその行動が起こるので、間に合うのです。

もうそれが間に合わなくなると「思い」だけが残ってしまい、それが無くなる事についてどんなに悲しく思っていても、実生活で必要無くなったものは、しかも高額なものであれば、人々はそこに「本当の意味での現実的価値を認めない」のですから、消え行くのは当たり前なのです。その「思い」の中身は最早「追慕の念」だけであって、その文化が人々に与える心理的価値も無くなっているからです。

そういう背景のなかにある「消えゆくもの」を、ただ貴重なもの、伝統工芸だ、として売ろうとしても、売れないですよね。

これは工芸に限らず、どの業界にもある事ですね。


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