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引っ越しと言葉

家族の転職にともない瀬戸内へ引っ越してきて一ヶ月になる。

親戚も古くからの知り合いもいない、見知らぬ町での暮らしがどうなるのか、期待と不安に満ちた一ヶ月間だったが、生活も次第に落ち着き、日常が始まった。


話に聞いていたとおり、うどん屋が多い。しかも格安だ。小腹がすいたなと思うと、視界の範囲に必ずうどん屋がある。


新旧が絶妙に共存しているのも魅力だ。

商店街を歩いていると、東京でも見掛けるチェーン店や流行りのタピオカドリンク屋、高級食パン店がある。

一方で、全面喫煙可、ふかふかのワインレッドのソファー、薄暗い中にアンティークランプが灯る、いわゆる「レトロ」な昭和の老舗喫茶店も多いし、商店街の大通りを一歩脇道にはいれば、それぞれの通りにネオン街が続き、レコードショップや小売店などもある。

洋式トイレに慣れた身には和式トイレ率の高さが辛いけれど。


人の違いも感じる。

町の店員さんたちはあまり笑顔を見せないように思う。しかし愛想が悪いというわけではなく、話しをすれば笑顔も見える。

なので、こちらも必要以上にニコニコすることはないのかもしれないと思えてきた。いつも朗らかでいると表情筋も疲れるし、余計な力は使いたくない。


最も大きな変化は言葉だろう。


この地域の言葉は、大雑把なくくりをすると「関西弁」である。ただし大阪とは違うものだ。


電車で乗り合わせた女子高生、スーパーのレジの人、電話の向こうの店員さん、外の世界から聞こえてくる言葉の調子には、まだあまり親しみがない。


ある公共機関の窓口で「こちらに記入しとって貰ってよろしいですか」と言われた時は、敬語と方言の共存を知った。

市役所の若い職員さんが、お年寄りに土地の言葉で説明しながら寄り添っているのを見たときは、あれは私にはできないかもしれないと思った。


言葉は親近感も、距離感も表す。


以前、全国チェーンのスポーツクラブに通っていた。

ある時お世話になったインストラクターの先生が人事異動で地元に帰っていった。

異動の数ヶ月後、是非もう一度お会いしたいと思い、飛行機に乗ってレッスンを受けにいったことがある。

久々に会った先生は、イントネーションや話し方が地元の人のそれになっていた

再会を喜ぶ一方で、先生がどんどん遠くなっていくような気がして少しだけ寂しかったのを覚えている。


寂しさ。


私が日常的に使う言葉は、ニュースから聞こえてくる所謂「標準語」だ。

東京にいた頃は何も考えることなく、買い物や仕事で普通に使っていた言葉である。

地元の方言は出るが、実家の家族との電話や、夫と二人でいる時、焦った時などにしか使わない。


Google検索に「標準語」と入れたら「標準語 気持ち悪い」という予測変換が出てきてショックだった。

標準語。

実はそんなものは存在せず、誰しも様々な要素を取り入れた自分の言葉を話しているものだ、となんとなく分かってはいるけれど、心の奥には割りきれないモヤモヤとしたものがある。

自分がつまらない言葉を話しているような気がしてくる。


そこで、地域の言葉やイントネーションを真似しようとすることがある。

「関西弁を話さない人が無理矢理話す関西弁は気持ち悪い」という言い方をよく聞くが、少し真似するくらいなら、土地への親しみとして許されるのではないか、という思いがある。


しかし、言葉を完全に変えてしまうことは難しいだろう。地元の人間でないことは言動や話の内容からすぐ見破られる。


自分の地元の方言を使おうかなとも思う。会話のきっかけになるし、「話題性のない人間ではないアピール」をしたいという思いもある。

ただ、地元の方言はプライベートな環境でしか使わないので、家の外で話すには意識して無理に話さなければならない。


今後仕事を始めたり知り合いができたりすれば言葉も変わっていくかもしれない。

自分の言葉がどう変わるのか、それとも変わらないのか。

少し楽しみなような、怖いような。

🍩食べたい‼️