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意地っ張りな母と甘えベタな私が、泣いた日のこと

毎年3月になると思い出すエピソードがある。
また今年も春が来るなあ、そんなときに思い返してはひとり笑ってしまう、そんなお話。

いまから遡ること、うん十年前。
大学受験をなめていた私は、第一志望校の推薦にわずか1点差で落ちてしまう。
推薦に受かった後は、京都での新生活に向けてのんびり準備しようと思っていたのに。
住む部屋だって早くおさえなきゃ、いい所とられちゃうかもしれないのに。

「やばい……山口を出れんかもしれん……」

あの頃の私はとにかく、生まれ故郷の山口から出たくて出たくて仕方がなかった。
そんな私に、無情にも突きつけられた不合格通知。

もともと、母は私が山口を出ることに反対だった。
理由は「お金がかかるから」。
私の下には妹が2人いて、実家は自営業。
出ていくお金は最小限に抑えたい、それが母の言い分で。

これをしたらダメ、あれをしたらダメ。
私にはダメダメばっかり言うのに、妹たちには甘い。
そんなふうに思っていたときもある。

「浪人は許さへんから。もう山口の大学、受けとき!」
大阪育ちの母は、山口での生活のほうが長くなったいまも大阪弁。
推薦に落ちて凹んでいる私の傷口に、塩を塗り込むかのようなこの発言よ。

「もう京都に行くって決めてるから!!」と私が母に強く言い放ち、結局最後はいつも口論に。
父が「まあまあ、落ち着き」となだめるも、私たち母娘は終始気が立っていたので完全にスルー。
お父さんごめん(笑)

あの頃の私は全然知らなかった。
母がどんな思いで、山口の大学を受けろって言ったかを。
自分のことに必死で、知らない世界をのぞきたい一心で、私は母をたくさん傷つけたのかもしれない。

推薦に落ちたあの日から、私は生まれてはじめて必死になって勉強した。
部活三昧で塾に行っていなかったので、効率のよい勉強法など全くわからず、とにかく寝ないで勉強するしか方法がなく。
志望校1本だけをターゲットにして、ひたすら机に向かった。
この勉強法がおもしろい結果につながったのだけれど、またそれはいつか別の機会に。

結局、国公立を受けることを条件に、関西の大学をいくつか受けられることになり。
大阪の叔父の家に母と行って泊めてもらって、入試会場に向かう日が何日か続いた。

最後の試験を終え、叔父の家に帰宅。
「これでダメやったら、諦めてうちの会社で働き!」
とか、母が冗談なんだか本気なんだかわからない軽口をたたき、もう、そんなん言わんでよ……とか私が拗ねたりしながらみんなで晩ごはんを食べ。
受験が終わって気が抜けた私は、隣で布団に入っている母をおいてすぐに寝入ってしまった。

あれは何時くらいだったんだろう。
普段から眠りが浅い私は、なにか気配を感じてぼんやり目を覚ました。
それと同時に、少し離れて寝ていたはずの母が、いつも絶対そんなことしないはずの母が、私の背中側からギューっと、ちょっと痛いくらいに私を抱きしめて、静かに泣いていた。

甘え上手な妹たちは、母や父に抱きついてよく甘えていて。
でも私にはそんなことはできなくて。
しっかりしなきゃっていつも思ってたし。
早く家を出て、なんか夢? みたいなものつかまなきゃとか。
妹たちのお手本にならなきゃとか。

そんないろんな思いがグルグル回るなか、もうわかっているはずなのに、なんでお母さん私に抱きついてるんだろうとか考えて。
寝ているフリしながら、必死で涙をこらえた。

翌朝、何事もなかったかのように母は起きていて、はよ帰るから忘れもんないように準備しなさいとかってせわしなく動いていて。
甘え上手な妹だったら、あのときクルッと後ろを向いて「お母さん~」って言って一緒に泣いてたんだろなあとふと思った。

ほんとは、母は私を手放したくなかったのだ。
娘を持ついまならわかる。
とくに最初の子は、いろんなことに悩みながら、手探りで育てて。
いつかこの家からいなくなるなんて考えてもみないことで。
ずっと一緒にいたい。離れたくない。
憎まれ口の裏には、母のそんな必死な思いがずっとずっと隠れていたのに。
私はなんて身勝手で、甘えベタだったんだろう。

結局、志望校に受かり、その年の4月から私は京都で暮らすことに。
「もう、お金ばっかりかかる!!」って母に怒られながら必要なものを揃えていき。
そのくせ、電話はFAX機能つきの最新型で。
FAXいらんやろと思っていたのだけれど、ひとり暮らしをはじめた初日から長文のFAXが実家から送られてきて、読んでいる暇なく電話がかかってきて、FAXは届いているのか、ごはんは何食べた、洗濯はしたのかなど質問攻めされる。

その必死な様子をみて一番下の妹が不安になったようで、「私がひとり暮らししたときもちゃんとFAXと電話をしてくれるのか」と聞いてきたと、ずいぶん後になって父が話してくれた。

なんだかんだ理由をつけては、しょっちゅう京都にやってくる母。
耳にピアスの穴を開けたときは、帰るまで口をきいてくれなかった。
口をきかないのに、帰らないという(笑)

いま、母は60代。私は40代。
長い年月が経っても、あいかわらず母は意地っ張りで、私は甘えベタ。
人間、そうそう変わるもんじゃない。

実は、京都に行かせてもらえる条件はまだあって、それは「家業を継げる婿を見つけてくること」だった。
大学4年間を楽しんだら山口に帰ることが前提だったのに、言うことをきかない私はバイトに明け暮れ、編集者になるという夢をかなえるため、100万円を持ってなんのあてもなく東京に出てしまう。
なんちゅう娘だ。

東京の出版社に運よく拾ってもらえたときは、お世話になるからと会社にリンゴを送ってきたり、私がはじめて関わった雑誌をまだ大切に持っていたり、私が「情」を大切にするのは母譲りかもしれないなと最近よく思う。

結局、私は山口に帰らず、大阪で結婚していまに至る。
なんも親孝行できていないのだけれど、唯一、毎年3月に母と一緒に海外旅行をすると決めていて。
親孝行のためとか言うとアレなので(アレってなんだ?)、子どもと3人やと飛行機の座席が離れちゃうかもしらんから一緒に行ってくれないかと誘っている。
もっとうまい誘い方があるとは思うけれど、私と母はこんな感じが多分ちょうどいい。

母はかなり楽しみにしているみたいで、「飛行機の時間いつやった?」「パスポートのコピーいる?」とか、ちょこちょこ連絡してくる。
前にも言ったけどなあとか思いつつ、私も母とのんびりできる日がいまから楽しみ。

さて、また来年も母と一緒に旅行できるように、今日もがんばってお仕事しますか!

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