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「ないもの」を収納しておく

 こんにちは、ゆきちかです。児童養護施設で心理職、家では父&夫をしています。“児童養護施設"の検索結果をよりグラデーション豊かにするnote作りをしています。今日もどうぞお付き合いください。

どうしたら余裕を用意できるのか

 決まった枠組みに「在るもの」を納めていく仕事と、「在るもの」が納まるように枠組みを作る仕事、というものがあって、それぞれ必要な時に仕事として活きると良いと思っています。

 以前も「たもつ」ことと「つくる」ことについて書きましたが、バランスの問題というか、バランスを保つことに割ける余裕の有無の問題をどうにかしたいと思っています。

 で、今日考えたのは、枠組みを作り直す仕事が難しいならば、「ないもの」を積極的に納めていくのはどうか、ということです。

 今来ている服や洗濯中の衣類が入る隙間がない引き出しだったなら、部屋にはいつまでもハンガーにかかった衣類が片付きません。パソコンは作業用のデータ容量の空きがないと素早い処理ができません。物の機能を活かすために必要なもの(=ないもの)を積極的に置こう、という感じでしょうか。

 まあ具体的な作業としては、いらないものをどんどん捨てよう、って話なんでしょうけどね。「要るか要らないかわからないもの」はさておき、「確実に要らないもの」を捨てるのが第一歩だと思います。物やデータに限らず、業務、仕組み、思考、生活習慣、対人関係など、どのジャンルにも適用して良いと思います。

目に見えないものに目を凝らすにも余裕、か

 「確実に要らないもの」を捨て切ったなら、もう「確実に要らないもの」がないわけですので、「要るか要らないかわからないもの」に手をつけることができるようになります。「要るか要らないかわからないもの」の量が減って来たならば、徐々に「ないもの」に目を凝らすことに近づいていきます。目には見えないけど、重要な意味を持っているもの、たくさんあると思います。形がないけど、持っている。そんな感覚を持って生きられると豊かなんだと思います。

 児童養護施設で働いてみて、子どもにその感覚を感じてほしいと思っています。ただ、人生の大半がサバイバルだった子どもの場合、今この瞬間の生存を確保するような「目に見えるもの」がとにかく重要に捉えられるわけです。「目に見えないもの」を見るためには、「目に見えるもの」によってもたらされる安全が必要なんだと思います。

本当の余裕というのは「余裕を作るかどうか」の選択に自由があること

 こう書いていくと、「児童養護施設の子ども」という主語が大きくなり、「児童養護施設の子ども」には余裕をもたらそう!という動きを生むと思います。

 確かに余裕を生み出せたら素晴らしい、そう思う一方で、大きい主語に当てはまらない人からは「自分には当てはまらない」「ありがた迷惑」という反論が飛んでくると思います。

 それだけじゃなくて、同じ人でも「今日は余裕が欲しい」という日と「今日は余裕を全て放棄して自分を追い込みたい」という日があると思うのです。

 安全な暮らしを手に取ってもいいし、危険に身を投げ込むような暮らしを選んでもいい。お金があってもいいし、なくてもいい。一緒にいてもいいし、離れていてもいい。学校に行ってても、行かなくてもいい。働いていてもいいし、働かなくてもいい。自分を大切にしても、雑に扱ってもいい。どの選択をしても、その人が自分の存在を許容できる場。社会の余白。そんな場を作りたいと思います。

 ということで、今は自分が働く施設から要らない物や事を投げ捨てる仕事を頑張りたいと思います。意味のある「ないもの」探し。(裏を返せば、そういうことに意味を見出さないと余裕なさすぎてヤバい状況なんだろうなあ…)今日もありがとうございました。

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!