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ゲルニカ


9月、『ゲルニカ』という舞台を見ました。
ミュージカルではなく、久々の演劇です。

ゲルニカ。

このワードで誰もがイメージするとおり、ピカソの絵画をテーマとした作品です。
そして、そのピカソのゲルニカは何をテーマにしているか?
・・・ゲルニカ爆撃です。

1937年に起きた「史上初の無差別空爆」で
このゲルニカ以外での無差別空爆は広島、長崎のみ。
この時代はまだTVも無く写真も普及していないので、当時は無かったことにされそうになったそうです。

「戦争の話か~」
そう思っていました。
でも、悲惨さを描いたいわゆる戦争系の作品とはちがいました。

少しずつ社会が変化し、戦争の色が日常を蝕んでいくなかで
当たり前を続けようとする人々の日常がメインで描かれています。
なので、笑いやほっこりしたシーンが多い。
それと対比するように、戦場を取材する記者も描かれるので、まだ登場人物たちは知る由も無いこの後の悲劇を感じながら、日常の尊さを体験することができます。


私が観たのは千秋楽前日ということもあって
作品が一番熟したとき。そしてキムラ緑子さんが本当に圧巻でした。
私は普段ミュージカルを見るので、長台詞はあまり無いし、感情が高ぶると歌いだす。
でも演劇は本当に・・・憑依っていうのかな、そんな瞬間を目の当たりにするから、目の前で起きている演劇に飲み込まれる。久々に体感しました。

ここからが私が一番書きたかったことなのですが
プログラムに記載の、演出家の栗山民也さんの言葉が、刺さりに刺さったので、紹介します。

この国では、誰が提示したかもわからない標準値に、誰もが必死でしがみつこうとしているでしょう、それぞれ自らの安全のために。
だから反応がみんな似てくるし、感情が高まると自らを抑え込んで、、、
要は他者とぶつからないということなんですね。
だから、誰もが「出会わなくなる」。「喧嘩」も「恋」も必要以上に求めない。


議論や対話と、会話とには大きな違いがある。
会話は自由にするけれど、議論や対話はある責任を持って二人の人間が話すこと。
だから自分の間違いに気づいたら、それを謙虚に認めることで階段を一つ上がることができるし、そこに、なにかが必ず生まれるはず。


僕らの会話も、当たり障りのないものだけ。互いに傷つけ合わないこと。いけないことをいけないとも言わない。そういう曖昧で無意味な社会になってしまった。
間違っていることに「それ、間違っているんじゃない!」と、当たり前のことをみんなでぶつけ合うことの必要性。
そこからしか、人間は一歩も前に進めないと思う。
演劇を続けるということは、それを繰り返し、見つめ直すことだと思う。

読みましたか?
飛ばしてませんか?

ここからの私の文章読まなくていいから、お願いだから読んでください。

本当にこれ耳が痛すぎて死にます。

私、自分のことを「普通」とかって表現することが多いんです。そして、人からは「人当たりが良い」とか言われることも多い。
でも思い返すと、10代まではかなり怒りの感情もあったはずだった。
なのに、自分が怒りをぶつけられた不快感で「こんな人にはなりたくない」と思ったり、感情を高ぶらせることへの疲れで、変なところで大人になってしまって、感情の起伏というものを求めなくなってしまいました。


あと、我慢。
我慢ができるようになるんですよ大人って。
でもね、我慢というのは絶対に自分の中に溜まっていて、どこかで必ずコップが溢れるということも体感しました。

それに、大人になると嫌な人からはぶつからずに離れるということもできるようになるので、余計に傷つけあわないようにするのかもしれない。
でも、ぶつかってみると分かり合ってお互いに視野が広がることも事実。

でも、感情が動くことの体験こそ
生きてるなあって感じるんですよね。

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