【掌編】絵本の国

 「絵本の国」と呼ばれる国がある。
 あった、といった方が正しい。かつて東欧に存在していた小さな国、ルビオという国のことだ。ルビオは約三百年前に建国され、約百年前に隣国との戦争で敗北し統合されてしまった歴史を持つ悲しい国だ。短命なこの国はあらゆる文献や資料といったものが残されておらず、子孫たちの口伝でのみ語り継がれて存在が残っている稀有な国である。不思議なことにその国の歴史や文化、いわゆるデータといわれるものが何一つ現存していないのだ。歴史学者も首をかしげるほどルビオの存在は謎に包まれている。
 しかしながら、唯一残ったものもある。絵本だ。
 鉱物や植物から抽出したと思われる絵具の鮮やかな色彩と、縁まで細やかに彩られた筆致がルビオ特有のものだと評価されている。児童文学から風刺と多岐にわたる語り口で綴られているその絵本は、数は決して多くないものの現存している。絵本以外の記録が失われた国。故にその国を絵本の国と呼ぶのだ。
 ジャーナリストである私はとある村でその存在を知り、それから興味が湧いて独自に調べていた。ある日、友人からの便りがあり、ルビオの最後の子孫と呼ばれる人物がいると教えてくれた。私はすぐに荷物をまとめ、その子孫の元へと旅立ったのだ。

 空港から車で約五時間、山を二つほど超えると遠くに霊峰と呼ばれる山脈が連なる絶景が私を出迎えてくれた。まだ雪が刺々しい山頂に残るその頂きに、その人物がいるという。麓からぶっきらぼうなガイドに案内されつつ山を登ること数時間。私はとうとうそこへ辿り着いた。
 村というより集落に近い場所であった。未だ石造りの簡素な家が立ち並び、老若男女合わせても十数人といったほどであった。私のことを当然ながら警戒しているようで、奇特なものを見るように私を見つめている。ガイドがなにやら現地の言葉で集団へ呼びかけると、その中から少年が一人私の前にやってきた。どうやら道案内をしてくれるらしい。私は彼の後ろを着いていく。集落のすぐ近くに坂があり、その上には小さな石造りの家があった。周りの家々とは異なり、塀や壁といったあらゆる箇所が鮮やかな色彩で塗られていた。少年はその家の前まで私を連れていくと、すぐにその坂を走るように下りて行った。私はありがとうと彼の背に声をかけた後、意を決してその家の門戸を叩いた。
『……入りなさい』
 戸の奥から低い声でそう言われた。私は戸を開き、家の中へ入っていく。中は非常に簡素な作りであった。床にはござが敷かれており、蝋燭が数本小さな光を揺らしていた。その光に囲まれるように、老人が座っていた。齢百歳はゆうに超えているように見えるその老人は私に座るよう促した。私はあぐらをかき、ござに座り込んだ。
「はじめまして。日本という国から来ました。ジャーナリストで、名前はアライです」
『アライ、よく来てくれた。儂の名前はタオだ』
 その声は低くしゃがれていた。私は手帳とレコーダーを取り出しながら、彼の顔をじっくりと見た。シワが深く彫りこまれ、頬は少したるみを帯びている。この人物自体が神聖なもののように思えた。私は失礼に当たらないように、慎重に言葉を切り出す。
「タオ、会えて非常に光栄です。貴方はずっとここで暮らしているのですか?」
『いかにも。物心ついた時からこの家で生活をし、一歩も外へ出ていない』
「一歩も?」
『そうだ。それが子孫に与えられた掟だ』
 まるで仙人のような人物の前で、私は思わず唾を飲み込んだ。姿勢を正して言葉を続けた。
「早速ですが、いくつか質問させていただいても宜しいですか?」
『もちろんだ』
「ありがとうございます。私はルビオを独自に調べています。貴方はルビオにおける最後の子孫だと伺いましたが」
『いかにも』
「まさに生き証人だ。タオ、ぜひ教えてください。なぜルビオは絵本の国と呼ばれているのですか?」
 そう訊くと、彼は少し驚いた表情をして私の顔を見つめてきた。その反応を不思議に思っていると、タオから質問を返された。
『……ルビオが絵本の国? なぜだ?』
「ルビオに関する歴史的な資料が絵本しか残っていないのです。その絵本が非常に美しく、きっとルビオは美術的な文化に重きをおいていた国だと――」
 そこまで話すと、タオは突然険しい表情を見せてきた。思わず話すのを止め彼の様子を伺うことにした。タオは眉間にしわを寄せながらしばらく考え込んでいたが、不意に笑みを浮かべ始めた。奇妙だと思いつつ、私は彼に恐る恐るどうしたのかと尋ねた。
『いや、合点がいったのだ。どうして絵本の国などと真逆のようなことを言われてるのかをな』
「真逆? どういうことです?」
 次は私が険しい表情になってしまった。
『簡単な話だ――ルビオでは絵本は禁書扱いだったのだよ』
「禁書……ですって?」
 そうだ、と彼は答えてから目を閉じ、長い独白を始めた。

 ルビオは非常に内向的な国だった。小国ではあったが資源が豊富な国で、それ故に他国との争いを避けて平和に暮らそうといった趣が強かった。生活や文化は全て自国内で生まれ発展していく形であった。しかし、他国の刺激が無ければ文化は大きく発展しない。ルビオの民はいつしか無意識的な不満を持つようになっていった。
 あるとき、ルビオで絵を描いていた人物が不思議な絵を生み出した。それは観る者を魅了し、感動や歓喜といったある種の錯乱を引き起こすものであったと言われている。娯楽も少ないルビオの民にとっては非常に刺激的で、その人物の作品はすぐに国中に広まった。作品が生み出されるたびにルビオの民は皆夢中になって絵を眺めていたという。
 噂は他国にもいつしか伝わるようになり、一部の民がこっそりとその絵を他国に流すようになった――それがいけなかった。
 この行為はまさに貿易そのものとなり、ルビオはだんだんと他国と交流を持ち始めた。それに伴い発展もしたが、それを良く思わない旧い者たちが存在していた。当然だ、ルビオは他国との関わりを避けて生きてきたのだから。そうしてある日、反対派の王が統治することになった。王はすぐさま絵を全て燃やすように民へ指示をした。他国との貿易や交流を絶やそうとしたのだ。
 民衆は娯楽を奪われまいとしたが命令には歯向かえず、絵はほとんど処分されてしまった。だがこれを不服と思った絵描きとその弟子は、絵ではなく本として残すことにした。書物であれば疑われることはないと考え、表向きにはバレないよう裏でルビオに広めた。だがこれもほどなくして王に見つかってしまった。王は絵描きと弟子たちを見つけ処刑を行った。そうして絵本は禁書扱いとされ、他国との交流も避け続けた結果、侵略戦争に負けルビオは滅んだのだ。

『――今現存している本は、恐らく他国に流していたものがたまたま残っていたのだろうな』
 タオはそこまで喋り終わると長い息をついた。私は手帳に書き込む手を止め、彼に水を薦めた。水を飲み干すのを待ってから、私は気になっていたことを聞いた。
「ありがとうございます。禁書の理由も分かりました。しかしなぜ、その絵はそんなにも人々を魅了、いや、狂乱とさせたのでしょうか?」
『……お前もあの絵を見たんだろう?』
「ええ、絵本を見ました。それからルビオへの興味が尽きなくなりましたが、狂乱というほどでは――」
 すると突然、タオは長いこと黙り込んでしまった。逡巡しているようにも見える。しばらくして決意を固めたように、彼は私の目をじっと覗き込みながら答えた。
『……問題なのは絵ではない。その絵具だ』
「絵具?」
『あの絵具はルビオにしかない植物と鉱物から採取した色だ。その成分には麻薬のように人を狂わせる物質が含まれていると崩壊したあとに知らされた。成分は空気に混じって観る者に取り込まれる。よって普通では得られない倒錯感を生み出しているのだ。それと絵の模様にも特徴があり、潜在意識に直接作用するような模様になっているのだ。なぜ絵描きが知っていたかは分からないが、少なくともその力を利用していたのは間違いない』
 麻薬、特殊模様。気づけば額に嫌な汗をかいているのを感じた。額だけではない、体中にじっとりとした湿り気を感じる。
「ち、力……? その絵を使って、絵描きは何を企んでいたんですか……?」
『簡単だ。復讐だよ。旧い考えに取り殺され、芸術も失った。そんな絵描きが復讐心を抱くのはおかしな話ではない。絵描きは考えたのだ、この力を利用して絵を観た者を洗脳すれば復讐を果たせると。だから絵描きは絵本に込めたのだ――ルビオを抹消するという願いを』
 変に動悸が早くなっている。心臓の辺りが熱くなっていくのを感じる。
「だからルビオは国も、国に関する情報が一つも残っていない……」
『それだけではない。ルビオに残る子孫は何人かいたが、わし以外は皆死んだ。いや、殺されたのだ』
「殺された……?」
『そうだ。そしてわしも今からお前に殺されるのだ。そうして、ルビオは本当の意味で抹消されるのだからな』
 タオの言葉が遠く感じ、耳鳴りが強くなっていくのが分かった。私の脳裏にあらゆる出来事がフラッシュバックする。
 初めに見たルビオの絵本。不思議なくらい夢中になって調べたルビオという国。最後の子孫の元へ向かう自分。
 ――そして家の外側に描かれていた鮮やかな色。
「が……ァ………」
『聞こえるかアライ。絵描きの願望は今もなお残っていた。それにわしは恐れていないよ。それが子孫の掟であり宿命だったのだから』
 そういってタオは目を閉じた。
「わたしは……わた……シ…………ハ…………」

 どこかで誰かが嗤う声が聴こえた。


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