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どっちでもいいのだけれど

久々に実母と連絡を取った。
あまりにも連絡不精だったが為に、泣かせてしまうという親不孝者、それが私だ。なんならいつもの事なのではないかとすら思えてしまう。(ひどく嫌なやつだな、と書いていて実感)

ただ、確かに母と私の間には目に見えない心理的な溝があったが為に、このような事態になっている。

どちらかが謝るまでは、という意識が互いの意識の中に存在するのだろう。論点をそこに持っていった時にはやはりまた衝突が起きるのかもしれない。
それはもう誰にも分からない。なぜなら何に怒っていたのかが互いに曖昧だからだ(不毛)。


そんな関係の母からここ最近何度か連絡があり、私の(心理的負荷の少ない)タイミングで久々に会話した。電話口で、近況を問う母の声は泣いて震えていたけれど、淡々と返すうちにだんだんと落ち着いていったように思う。
私もはじめは緊張していたからか、ぽつぽつと話していたが、最終的にはぐさりと矢が刺さることはなかった。


ただひとつだけ、少し驚くことがあった。


自他共に認める親不孝者な私には、たびたび「親の気持ちを知れ!」だの「親の気持ちも考えろ!」などの言葉が浴びせられる。

例によって「親が考えていることは子供には伝わらないのね。あなたも子供を持ったら分かるだろうに。」という言葉があった。

親不孝者歴も長くなると、「私子供いないから、この先もずっと分からないかもしれないが、」と息を吐き出すかの如く言葉が出てきた。


ハッとしたかのように「聞いてもいいのか分からないけど、どちらでもいいけれども、あなたは、子どもをもちたいと考えているのかしら」と母が問うてきた。

それが、私にとって驚きだった。
母にとってこれまで私は親不孝者でありながらも自らの子供であり、状況を知っていないと不安、という存在であった。
そして、何よりこれまでパートナーと私との関係について素直に聞かれたことなど一度もなかった。付き合う男性について母が話すとき、殆どが否定系の文章であった。
だからこそ、そうした男女の事にシンプルに尋ねてきたことに面食らったのだ。


そして絞り出したのは、
「まぁ、どちらでもいいけれどね」だ。
母を刺激しない為のフレーズ。
伝わらないかもしれないが、子供だって親を慮っているのだ、ということをやんわりでいいから認めていただけると嬉しい。


本当は子供は2人くらい欲しい。
でも、現在の夫婦の時間だって貴重だということも分かっている。

周りの友達は続々と子持ちになっていったけれど、私がまだそうでないのは、ライフイベントの優先順位がその子達と違っただけ。羨ましくないと言えば嘘になる、けれど、身は一つ。身の振り方を決めるには、まだまだ私は子供すぎるのかもしれない。

どっちでもいいんだけどね。

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