ぽんコツ子の成長
私は今でも偶に、自分自身のことを「ぽんコツ子」と呼ぶことがある。ドン小西さん的なイントネーションで、「ぽん•コツ子」である。
この呼称を使うようになったのは、1年半ほど前だろうか。定かではないが、休職期間中であったことは確かだ。
何をやってもダメなことが続き、「私は、ポンコツです。」と布団にくるまって泣きながら休んでいた頃だったと記憶している。
例えば、張り切って買い物に出かけたのに、スーパーの棚の前で何を選べばいいか分からなくなって、撃沈、よく分からないチョイスで買ったもの達をボーッと見つめながらスーパー内のソファで、「帰れなくなりました、迎えにきてください」と旦那さんに連絡したり。
意気揚々と洗濯物を乾燥機にかけるべくコインランドリーに向かったのに、帰りには何故かヘトヘトでベッドに沈んでいたり。
「もう帰りたい。」「どこへ?」「子宮!」と訳の分からない問答をしたり。(こんなどデカい大人が子宮に戻ってきたんじゃたまったもんじゃない)
「私はポンコツです。」を繰り返して泣く私を宥める猫と旦那の図は、人に見せられたものではなかった。
頻発するポンコツっぷりが徐々に減ってくると、漸く「今、私、ぽんコツ子なので」と言うことが出来るようになった。
最近では、「ぽんコツ子」という言葉自体忘れていたけれど、今日の私は久々に「ぽんコツ子」だった。朝起きた瞬間から、(あぁ、コレは今日は使い物にならないぞ)と直感した。以前なら、ぽんこつを実感していても押して参る!と謎の意気込みで出かけていたと思う。
しかし、最近の「ぽんコツ子」は一味ちがう。ぽんこつだったら、ぽんこつであることをカミングアウトし、休むという選択肢を取る。ぽんこつの片鱗が見えたら、早めにしっかり休むが吉!という考えが身体に染み込んでいるのだ。
ジェーン•スーさんの「お疲れ、今日の私」を読みながら、新米をゆっくり噛んで味わうように、滋養のあるスープを飲んでプハーとするように、「ぽんコツ子」今日も頑張ったな、成長したよ、と労うのであった。