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Nuclear



僕は今年の2月に、一人で広島へ旅行に行った。

宮島や呉といった、広島の魅力を余すところなく堪能した観光だったが、その旅行の中で、僕には絶対に足を運ぶと心に決めていた箇所があった。

それは原爆ドームだ。

日本に住む僕たちにとって、その言葉が持つ重みが如何ほどのものかは、説明をせずとも周知しているだろう。

8月6日には、テレビが原爆ドームの前の記念公園で行われる平和式典の様子を中継し、世界各国からの要人がそこに介し、その日の意味と、起きた悲劇に向き合う……その負の歴史は日本に住む私たちにとっては、正に切っても切り離せない代物だ。

1945年の8月に、太平洋戦争にて交戦国だったアメリカが開発した原子爆弾が広島と長崎の2か所に投下され、全体で15万~25万にもの尊い命が失われた……それが、僕が知っていた原爆に対する漠然とした知識。

宮島にいったその足で、路面電車で原爆ドームに向かう。広島市では至る所に路面電車が展開され、市民や観光客の移動の基盤になっているインフラだ。

移動時間は確か40、50分くらいだったと記憶している。最寄りの駅を降りて、鉄骨がむき出しになり、吹き抜けとなっているその建築物が見えてくると、その光景はあまりにも、その場所で起きた悲劇を雄弁に物語っていた……熱線によって崩れ、溶けた原爆ドームそのものが、その町の歴史となって。

この建築物は、元々は物産館だったそうだ。

1945年8月6日、アメリカ軍のB29爆撃機から投下された原子爆弾は、建物の150メートル離れた地点で炸裂。地表は3000℃もの熱で覆われ、建物は中央のドーム部分を残して全壊した。

この建物は、そこで起きた全ての痛みや哀しみを見てきた。その事実は脚を向けた僕を閉口させるには十分すぎる代物だった。ここで起きた悲劇を風化させないように。そんな人々の願いがひしひしとその建築物から伝わってきたのを、鮮明に覚えている。

悲劇が起きてから、既に80年を迎えようとしている……それなのに、この世界ではそんな恐ろしい兵器が無くなるどころか、威力と数を増して世界中に存在している。

正直なところ、「原爆」を無くそうと言うのは至極簡単だ。それは当たり前に人類が目指すべき課題であり、今爆弾がどこかの国から発射されれば、あっという間に数えきれない人々の命は奪われ、世界は終わりを迎える。

現在核保有国は9か国にも及ぶ。お互いがお互いに、国一つなど容易く滅ぼす武器を向け合い、一度その発射ボタンが押されれば、瞬く間に世界は終わりを迎える。お互いに身を滅ぼすことが決まり切っている代物を抱え合っているというわけだ…それはある意味、無意味と呼べる状況であり、そんな状況を端からみれば、正に滑稽である、その一言に尽きるだろう。

それでは、どうしてそんな末恐ろしい兵器である原爆がこの世界から無くならないのだろうか?その答えは言ってしまえば、「国」というものが、そして「人間」がこの地球に存在しているから、そう言える。

政治というものは、私たちが思っているよりもずっと綿密に、複雑に絡み合って展開される。核を持っている国が「いっせーのでみんなで武器を捨てましょう」と言って、それに従うなんてことは、果たしてあり得るのだろうか?

彼らのやっていることは、アメリカの市民が「銃を持った強盗に入られた時に対応できるように、銃を枕元に置いておこう」と、自身の枕元に銃を置いておくことに何も変わらない。

例えそれを使う機会が無くとも、もしも本当に強盗が押し入って、対抗する手段がなければなす術なく強盗の思いのままに金品は奪われ、命も奪われることもある。


互いが互いに、自身の家族(国民)を守るために必要だと感じているものを用意しているのだ。そんな中で「銃は危ないから、今すぐ捨てよう」と声を高々に叫んだところで、哀れな夢想家だと、笑われても可笑しくない。

ただここで言っておきたいのは、他の国々とは違う、日本に住む私たちの特異性だ。私たちは国家で唯一、原子爆弾の投下による被害を受けたのだ。私たちの遺伝子には、その恐ろしさと虚しさ、それがもたらす痛みや哀しみが染みついている。

原爆ドームを見たあと、平和記念資料館にも足を向けた。原子爆弾によって溶けた子供用のヘルメットや、後遺症によって苦しむ人々の写真、焼け野原になった街と……数えればきりがないが、筆舌尽くしがたい……しかし確実にそこで起きた事実を、展示物は語っていた。

特に記憶に残っているのは、現地にて被爆し、後遺症によって苦しむ人たちが残した手記だ。その当時の地獄と化した光景や自身の体に訪れている後遺症の痛みが克明に記入されていた。

そんな哀しみが起きた国で生まれ、育った私たちができるのは、やはり夢想家と笑われても、その愚かさと、核を持った国々が地面に投げ捨てることを訴え続けることだ。もう2度と私たちと同じ痛みを持った人々を生まないように。

過ちが去って、初めて過去になるのだ……まだこの疵は、過去にはなっていない。確かな今として、僕たちの目のまえに存在しているのだ。

夢想家だと笑われても仕方ない…しかし、それを心の底から思い、訴えていく気持ちは今後僕の中で変わることはないだろう。

そんな想いにかられ、広島でノートとペンを購入し、ホテルで言葉を綴った。この痛みと哀しみを、そして過ちを。それを一人でも多くの人々の心に届けるために、曲を作った。それは確かな想いとなって、そして芸術となったと自負している。


少しでも皆さんの心に届きますように。


JC HOPPER Jr. Nuclear

https://m.youtube.com/watch?v=A-5A3n52RzI&pp=ygUMamMgaG9wcGVyIGpy

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