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受験生、猫になる。

こんにちは、ゆきふるです。

10月ももうすぐ終わります。
そう、ハロウィンの季節です。

私には、ハロウィンの特別な記憶があります。
今日はそのお話を少し。

今の私の中にある、1つの大事な価値観にもつながるお話です。
最後まで読んでいただけたら、嬉しいです。

◻︎◻︎◻︎

高校3年生の10月31日。

受験勉強に追われる日々の中、私は友人に誘われて初めて渋ハロに参戦することになった。

埼玉の田舎高校に通う私たちにとって、渋谷のハロウィンはまるで異次元のような場所だった。

私たちは黒猫の仮装を選んだ。
しかし、お金のない私は100円均一で猫耳を手に入れ、家にあった服でなんとか仮装を完成させた。
今思えば、もっと頑張れただろ、とも思うのだが、これもご愛嬌というやつだ。

その日、授業中も心はすでに渋谷に飛んでいた。

親には内緒での参加だった。
親は一度も「勉強しろ」とは言わなかったが、渋ハロに行くことを知ったら、きっと驚くだろうと思った。

夜になり、私たちは渋谷に降り立った。
その光景は今でも鮮明に覚えている。

渋谷はお祭り騒ぎで、人で溢れていた。
仮装した人たちと写真を撮ったり、ハイタッチを交わしたり。
この無秩序な空間は、青春そのものだった。

最初はパリピの群れに気圧されていた私たちだったが、次第にこのお祭り騒ぎの一員として積極的に参加し出す。
自ら仮装する人々に話しかけて写真を撮った。
無秩序の一部になった実感があった。

そして、渋ハロに参加したその日は、私の人生の中で特別な瞬間となった。
新しい経験と感情の波に飲み込まれ、その非日常は私の心に深く刻まれた。

◻︎◻︎◻︎

人は新しい経験を通じて、自分自身を再発見することができる。

その日、私は受験生としての自分を一時忘れ、ただの高校生として楽しむことができた。

その自由な時間は、受験勉強のプレッシャーからの一時的な解放感をもたらし、その感情が記憶として鮮明に残った。

受験勉強を盛大にフリに使った贅沢なエンタメだったのだ。

人は強い感情や印象的な経験をしたとき、それが記憶に深く刻まれるものだと思う。
渋ハロでの経験は、私にとって非常に印象的で、感情的なものであったため、その記憶が鮮明に残っている。

そして、人は時に日常から逃れ、非日常を求めることがある。
その非日常を経験することで、日常の中の小さな幸せや価値を再認識することができる。
渋ハロでの経験は、私にとってそのような特別な瞬間であり、その感動や高揚感が記憶として残ったのだ。

私はよく「不自由の中の自由」という言葉を使う。
気に入っている言葉だ。

不自由があるから、束の間の自由は輝く。
日常があるから、非日常が輝く。


では、また。

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