死んで欲しいと願ってしまった夜に
先月のことだ。
深夜1時に、父が救急車で運ばれたと母からLINEがきた。別居して半年が経ち、離婚調停が間も無く開始されようとしていたその月に、父が倒れた。真っ先に父は母に電話したのだという。「呻き声しか聞こえなくてとにかく救急車を呼んだ」と母が後から教えてくれた。
大動脈剥離という、一歩間違ったら命に関わる病気だった。
その時私の隣にはパートナーが寝ていて、間接照明が優しくパートナーの髪を照らす、そんな穏やかな夜だった。愛してくれる人が隣にいてくれる。私がずっとずっと欲しかった、そんな愛おしいくらい大切な「ふつう」の1日の最後、その知らせで私の心は一気に過去に引きずられた。
またあいつのせいで、と思わずにはいられなかった。
幻滅されたり、軽蔑されることもわかっていてあえて書く。私がその時真っ先に浮かんだ言葉は、
「そのまま死んでくれたらいいのに」
というものだった。
あまりにシンプルに浮かんだその気持ちを、絶対に思っちゃいけないとわかっているのに、どう処理していいかわからず、こうやって私は言葉に落とすことで、今少しずつ向き合おうと思う。
・・・・・
父親は4年ほど企業で働き、両親の家業を継ぐために実家に戻った。工業地帯にある小さな個人商店(コンビニ)だった。引き継いだすぐはよかったらしい。でも、時代とともにチェーン店やフランチャイズ店が台頭し、ついに実家の目の前の道路を挟んでちょうど正面に、チェーン店が出店された。私はその頃小学校入学の年だった。
その辺りからずっと経営は厳しい。
チェーンに比べて品数は少ないし新商品だってない。メーカーもチェーンに下ろすために個人商店との取引は徐々に減っている。何か特別なものもなく、ただただ過去を踏襲しただけの商売を無愛想な父親が引き継いだ。無愛想なだけならまだいいが、お客さんと喧嘩したり、営業さんにグチグチと嫌味を言ったり、訳のわからない自慢をしているのを何度も見てきた。売り場だって子供の私が見ても特に工夫もなかった。父の個人的な趣味で熱帯魚を飾ったりしていたが、どう考えても寂れた店内に一か所だけ水槽がキラキラ飾ってあるのはアンバランスすぎた。
経営が傾く理由はそこら中にあった。
経営が厳しくなるにつれ、どんどん父は傲慢で他責になったし、母との喧嘩は絶えなかった。何かにつけてうまくいかないことはお前のせいだと母に怒鳴りつけ、物を投げつけていた。何度も机がひっくり返り、母のご飯はゴミ箱へと消えた。
その上当時は祖母が同居しており、「私の時代は良かったのに、経営が傾いたのは商売の基礎を知らないお前のせいだ」と姑としての鬱憤が母に向けられた。溜まりに溜まった母のイライラは子供である私と妹に向けられた。特に妹より言語理解ができる私に。
寝る前になると「こんなところに嫁(とつ)がなければ」「あの人(父ではない人)と一緒になっていれば」と、叶わなかった「もしも」が語られた。
そんな数々の母からの言葉で、今でも忘れられないものが2つある。
「私はお父さんと血が繋がってないからいつでも別れられる。でもあなたたちは血が繋がっているから離れられないのよ。」
「別にお父さんが好きで結婚したわけじゃないからね。私にはお父さんじゃない人との大切な思い出がある。だから、思い出だけで生きていける。」
すごくショックだった。
でも、それでも母を恨めなかった。
私にしかその発散先がないことがわかっていたから。
私も孤独だったけれど、母だって孤独だったから。
そんな夜を過ごすたび、誰も自分を守ってくれないし、いつかいなくなるかもしれない、という恐怖と孤独が続いた。
夜な夜な響く父と母の怒号に、泣き続ける妹を抱き抱えながら、「大丈夫だよ」と何かにすがる思いで唱え続けた。
妹を抱き抱えながら「強くならないと」と本能的に思った。
大丈夫じゃないのに発した大丈夫は、どこに発したらいいかわからない不安や孤独は、やがて「恨み」として昇華されてしまった。
私は絶対にこんな場所を抜け出して、しっかり自立した自分であるんだ、「ふつう」のしあわせを目指すんだと信じることだけが、希望でもあった。
「こうありたい」という希望じゃなくて「こうはなりたくない」という希望がずっとずっとあり続けた。
それは、希望ではなくて、願いだったのに。
・・・・・
今ならわかる。
誰も悪くなかったことも、誰のせいでもないことも。
物事がうまくいかない時は誰かのせいにしたくなるのが人だし、そうでもしないと自分が折れてしまいそうだから、他責にするのだ。
父や母や祖母や、それぞれが抱えていた「しんどさ」が運悪く循環してしまい、お互いを傷つけて、でもそうでもしないとやってられなかったんだと。
頭ではわかっている。
わかっている。
何度今父に嫌味を言っても、あの時の苦しみや悲しみが減るわけではないことも。
父親を何度恨んだって、私の人生は変わらないし、好転しないことも。
でも、父に接するたび、どうにかしてあの時の恨みを少しでも味わってくれと願わずにいられない自分がいる。どうにかして苦しんで欲しいと願わずにはいられない。
だって。
あの時の傷はじゃあどうしたらいいんだろう。
置いてけぼりになってしまった恐怖や悲しさや、1人で絶え続けた孤独な夜はどうやって取り戻せるのだろう。
だからいつだって願ってしまう、もうそんな父親がいなくなってほしいと。
少なくとも私が一生恨み続けることで少しでも罪悪感を長く感じて欲しいと。
「許さない」と強く願うことだけが、今できる最大限の仕返しなのだと。
・・・・・
そんな「わかっているのに許せない」という思いは今日も、私の中にある。
きっとこれはずっと向き合わないといけないし、すぐには昇華できないんだと思う。
でも、それでも。
家族の中に、怒りや恨みのコミュニケーションしか見てこなかった私だけれど、私が作っていく家族にはそうじゃないコミュニケーションを紡げるようでありたいと思う。
彼に怒りをぶつけてしまう時、彼への申し訳なさと同時に、母から言われた「血」という言葉がどうしても頭を過ぎる。私も父のようになっているのではないかととても怖くなるし、自己嫌悪になる。
だけどそんな時「はじめから怒るんじゃなくて、まずはふつうに言ったらいいよ」と穏やかなコミュニケーションを紡いでくれる彼に、そんな彼を育ててくれた家族に、ありがとうの気持ちでいっぱいになる。
「父の日に何あげようかなあ」と真剣にプレゼントを選ぶパートナーを横目に、少なくとも彼の思い出には優しいおとうさんがいてくれることをありがたいと思う。
そして、彼の描く「あたりまえ」の家族像が、私にとっては奇跡みたいに思えるけれど、彼となら描けそうだと感じるのである。
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