見出し画像

なんか、自由になりたくなった

忙殺され、今の働き方や生き方に対して漠然としたモヤモヤが募る日々。

月曜が来ると思った瞬間「KPI追い続けて、競合と競り続けて、鬼のようにPDCAを回す自分」に切り替えるのがどうにもしんどいと思った。

「自分」という乗り物に、別の自分が乗って操縦してるような、そんな乖離感。

なんか、唐突にすべてを手放したくなった。自由になりたい、と思った。

全然心が喜ばないKPIを追い続けて達成して、達成してるはずなのに消耗して、「会社や事業がなってほしい人材としてうまく育っていってしまっている自分」を客観視しながら、「こうなりたい」はあるのに「でも〜〜」という自分がいて。

「私、どうなりたかったんだっけ?」と迷子になった。

だから、私はわたしを取り戻すために、もう一度自分に向き合うことにした。これから書くのは、等身大の自分。いろんなことに格闘しながら、模索して迷子になって、わからくなっているリアルな自分。

最後に少しの希望を。

1. はじめに

自分について振り返る時、自分が書いてきたnoteはとても参考になる。まずはそんな自分の綴った文字を振り返ることにした。

まず初めに読み返したのがこの記事だった。何とこの記事で「次にやりたいことがある!」と発信してからもう10ヶ月が経とうとしている。

私は、何をしているんだろうか。

やりたいことはどこにいったんだろう。

自分のリミッターを外すといいながら、外せてたのだろうか。

今、わたしは、自分に嘘をつかずに生きているのだろうか?

もちろん、現状に文句を言わず、「仕方ないか」と受け止めつつ、自分にある程度落胆しつつも「日常が穏やかに過ぎていくこと」は悪いことじゃない。それに慣れれば慣れるほど、感性はほどよく麻痺していくし、相応の幸せが手に入りやすくなることだってわかってる。

それはいわゆる「当たり前の幸せ」という最も気づきづらい幸せに包まれているという可能性だってある。

たしかに、健康体で、衣食住すべての安心が守られていて、ごはんがおいしくて、よく眠れて、優しいパートナーがいる。

何をそれ以上に望んでいるんだろうと思ってしまいそうになる。

世界には、日本には、もしかするとすぐ隣には、その「当たり前」すら手に入れにくい誰かがたくさんいる。

でも、もう一歩踏み込んで自分に問いたい。

限りある命を、その「なんとなくの日々」に使ってしまっていいのだろうかと。

これは自分に向けての問いかけと回顧録と、次のステップへ進むための戒めとして残したい。

ここから先は

5,304字 / 3画像

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?