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小説『正欲』を読み、映画『正欲』を観て思ったことをつらつらと

先日、遂に映画「正欲」が公開されましたね。わたしはたまたま空いていたので公開初日に観てきました。原作である朝井リョウさんの「正欲」も既に読んでいたため内容自体に目新しさはないかなと思っていたのですが、映像と文章は感じられ方が大きく異なると思っているので観ることは決めていました。今回は特に区別することはなく、小説と映画両方を体験して感じたことを記録します。自分用のだらだら長文です。ネタバレする可能性があるので読んでいただけるならばご注意ください。


『正欲』


なんか最近「多様性」をテーマにした作品が多いような気がする。世間的にニーズがあるから仕方ないのだろうけど。その流れ自体は特に嫌でもなんでもないんだけど、「多様性を認める世の中にしよう!」っていうメッセージが強いと「多様性を認めない」って人も多様性の一部なんじゃないの?って屁理屈が思いついてしまうので辛い。なにが辛いってそんなひねくれた考え方をしてしまう自分への自己嫌悪が理由になっている。

でもそんな面倒くさい一面があるのは自分だけじゃないって「正欲」を観たときは思えた。ベクトルは違うけど、自分でも嫌になる自分の面倒な一面だったり自分の中にある自己矛盾の渦だったりは、自分だけのことじゃないんだって思えるだけでだいぶ楽になれると思う(感想クリシェだけど)。

「正欲」は水フェチ(水に性的な感情とよく似た感情を抱く)の人に注目して話は進む。わたしは水フェチではないからその感情自体はわからないけど、世間一般の「普通」と違うことへの不安感、疎外感のようなものは近いものを感じたことがある。この文章での「普通」はマジョリティに属するものと定義している。マイノリティである人たちが生きにくさを感じることは、今後どんなに世界が良い方向に向かっていったって避けられないものであると思う。もちろん少数派であることで生きにくさを感じなければならないこの世間はおかしいという意見もあるだろうが、人はそういう生き物なのだとわたしは諦めている。

でも決してこの諦めは必ずしも悪い意味ではない。自分が感じる生きにくさを上手く昇華できるきっかけにできているような気がする。だってマイノリティであること=悪、ではないのだから、生きにくさを感じるごとに落ち込んでしまうのは時間の無駄な気がする(無駄は過言だが適切に言語化できなかったのと、無駄と思いたいという願望込み)。

そういう意味で、作中で水フェチの人たち同士がつながりを求めたことは有意義なことである(羨ましい)と感じた。と同時に、結局ずっと独りで生きていくことは難しいのかもしれない、とも感じた。つながりが見つけられればそれに越したことはないが誰しもが簡単にそんなつながりを見つけられるとも思えない。趣味嗜好だって無数にあるだろうし、身の回りにそんな都合よく意気投合できる人がいるとも限らない。

登場人物たちの、つながりを見つけた後の生き生きとした表情は脳裏に残った。その瞬間にずっと独りで生きることは難しい、というより無理なのかもしれないと思ってしまった。わたしは今のところ結婚に興味がないし、1人で行動することの方が圧倒的に多い。それでも仲良くしてくれる友達もいるが、そのつながりは今後も長く続いていくのかと不安になる。

「どこにもいかないで」と言えるほどのつながりを得られた、桐生夏月と佐々木佳道はきっと自分たちも「普通」(に近い形)になれるかもしれないという希望を抱いたと思う。そんな時に佳道が自分のつながりが起因となっての逮捕というなんとも皮肉な形で希望が絶たれた(その後がわからないがあえて絶たれたと書く)。限りなく細い救われる道を見つけたのにそれが塞がれる様子は、あくまで映像作品といえど苦しいものがあった。

原作小説と違い、諸橋や神戸といった大学生側のストーリーはかなり縮小されていたような気がする。結果的には神戸によって諸橋が最後に少し心を開くという展開だけど、個人的に神戸は好きになれなかった。ウジウジしてる感じとか、諸橋に対する過剰な接近が無理だった。ごめん。サークル長(?)の高見もなかなか嫌なキャラで身近には居てほしくないと思った。原作の方が嫌なシーンが長いから映画の方がまだマシだったけど。

なんで人は他人を理解したがるのだろう。理解するためには過度ともとれる干渉だって厭わない。高見に関しては諸橋のことを理解したつもりになって、「私だけが理解者なんだ」とすら思ってるんじゃないかと解釈できる行動、言動をする。これが一番たちが悪い。

「他人は他人だし」って良い意味でも悪い意味でもとれる言葉だけど、個人的に結構大事にしている。こんな記事を書いている今もタイムリーに、人気お笑い芸人が年の差婚をしたことがネット上で話題になっている。ロリコンだとか、ほぼ犯罪(他の有名人の例がある影響があって)だという投稿も散見される。結局若い子か~って意見もあった。結局ってなんだ、結局って。

他人の結婚に口出すのってよく考えたら結構ヤバい。「お幸せに!」でよくないか。自分の正義は他人の正義でもある、みたいに勘違いしてる人が意外と多いのかもしれない。そういうのをネット上でも見ると結構気持ち悪くなってしまう。精神衛生上、Twitterでは即ブロックしている。やっぱブロックとミュートは必要だな、消すなよイーロンマスク。

でも結局は「多様性」という言葉に戻ってきてしまう。そうやって自分の中の正義の剣を振り回して秩序を整えた気になっている人達も多様性を構成する一部なのだから、こうやって嫌悪感を抱く自分に対しての自戒の文章になってしまっている。

多様性は大事だけど、多様性を認めようという世間とか、理解した気になっている人達は正直かなり嫌いだ。でもそんな風に考える自分も好きではない。
『正欲』を読んで、観て、自分の想像できる範疇を大きく超える世界があること、自分がその範疇の中で完結する形で多様性を理解したつもりにならないようにすることを自身に釘を刺した。

自分が嫌いな自分にならないために精一杯生きていきたい。

さようなら。小説は長いけど是非読んでみてください。


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