私の音楽のルーツと軌跡 ~ 演歌と東方で育った人間の回顧録
どうも。日本紀行サークル「針の音楽」の白鷺ゆっきーです。
最近なんでかよく知らないけど急に遠い昔のことを思い出しました。
セルフ懐古マンです。この記事はこの1~2年間で自分を表現する方法を失ったクソザコ人間の回顧録です。ちなみに東方要素は後半にならないと出てきません。
私は漠然と日本的な音楽が好きなんですが、その理由は自分自身でもあんまりよく分かっていませんでした。もしかしたら音楽的・文化的にも右寄りなのかなという自身への疑いもあり、事実それを否定することも出来ないのですが、とつぜん昔のことを思い出したので、この機会に自分探しの足跡としてここに残しておこうと思います。
1.氷川きよしと演歌
もうタイトルでネタバレしてますが、私はかつて「演歌」が好きだったんですね。
今はあんまり聴かなくなりましたけど、それでも富士そばとかに行って店内に演歌が流れているのを聴くと、今でもめちゃめちゃ心の底から安心します。そばを食べることが許される空間という意味でなく、演歌が流れている空間という意味で、
「あぁ自分はここにいていいんだ、ここが自分の居場所なんだ」
と思うぐらいに謎の安心感を感じます。まあ10分も経たないうちにそばかうどんを頂いて出ていってしまうのですけれど。余談ですが多分同じ理論で、中華料理屋とかで日本の演歌っぽい中華ソングとか流れても同じ感覚になります。
ではなぜ「演歌」が好きなのか?
という話ですが、今に残る私の記憶の最も古い部分、私が生まれて初めてハマったと自覚・記憶しているアーティストは「氷川きよし」で、そして初めてハマった楽曲は彼のデビュー作品『箱根八里の半次郎』なんですね。これが私の最古の音楽記憶であり、これが演歌好きの要因だと思います。
氷川きよしは2000年2月に『箱根八里の半次郎』でデビュー。当初と違って最近の彼はだいぶイメージが変わったみたいですけれど、デビュー当時は23歳だそうで、デビュー時の若さを知ったたったいま両目がぶち抜かれました。もうとっくに氷川きよしのデビュー年齢超えちゃったよ…………………。というか顔が良いな氷川きよし。私は1996年の2月生まれなのでちょうど私が4歳になった頃にデビューしたということになります。4歳といえばギリッギリ物心ついてて記憶があるかないかという年齢でしょうか。
2.祖母と演歌
「演歌」が好きな理由が「氷川きよし」由来だとして、
じゃあなんで4~5歳ごろにハマったのが「氷川きよし」なのか?
というと、私の祖母由来なんですね。年代的におそらく演歌流行期世代の人でした。
祖母は氷川きよしの他にも、美川憲一、香西かおりといった演歌歌手、他にフォークソングや歌謡曲のジャンルと被りますが、堀内孝雄、南こうせつ、谷村新司といったアーティストのカセットテープやCDを持っていました。これらのアーティストの歌は、私が後年に祖母からCDやテープを譲り受けたこともあり、いずれも私にとって馴染みの深いものです。
祖母と、祖母から見て孫にあたる当時4~5歳の私が、田舎への帰省で互いに顔を会わせるころ、当時若手の新人演歌歌手としてデビューしていた氷川きよしは、演歌世代の祖母にとって注目度が高かったんでしょう。そしてその時に祖母経由で氷川きよしと『箱根八里の半次郎』を知ったものと思われます。
「やだねったら やだね」
という印象的なサビが4歳の私には面白かったんでしょうか。確かに今聴いても印象的なメロディと歌詞ですが、
ただ単にそういう音楽的由来の面白さからハマったのか、
それとも私がもともと祖母という人が好きで「おばあちゃんの好きな歌だから」という理由でハマったのか、
それともその両方が理由なのか、
それとも大人の親族の前で氷川きよしのモノマネをするとウケるというのを知ってハマったのか――。
小さい頃は、田舎から家に帰るときに祖母と離れるのが嫌で嫌で泣いてた記憶もあるんですが、その寂しさを紛らわすためにも氷川きよしの『箱根八里の半次郎』で心の穴を埋めていたのかもしれません。
はっきりとは分かりませんが、多分そういったいろいろな要因でハマったんでしょうね。
このような過去の経験があり、「祖母」と「氷川きよしをはじめとする演歌」に同じタイミングで出会った私にとっては、
「氷川きよし・演歌(のファン)」といえば「おばあちゃん」
であり、
「おばあちゃん」といえば「氷川きよし・演歌(のファン)」
でした。
4~5歳の子供に、演歌という音楽産業がどのぐらいの規模で、どのぐらいの年齢層を対象に日本で流通しているかなんて理解もしていないはずですから、当時の私にとって、
「氷川きよしが歌うような演歌」を聴くのは祖母である
という認識なのです。
3.日本の田舎の景色と演歌
さらに祖母は但馬国の田舎の山間部に住む人で、一方私は当時播磨国の人間、現代ではどちらも同じ兵庫県内とは言え、国がそもそも違うので、その物理的距離はまあまあ遠いです。
(正確な場所指定は避けますが、一応播磨の中心的都市・姫路市から但馬の中心的都市・豊岡までの道筋。兵庫県は南は瀬戸内海、北は日本海に面している珍しい県で、南北の移動は結構世界が変わります。)
故に、「氷川きよしが好きなおばあちゃんに会いに但馬国へ行く」という体験とは私にとって大きなイベントであり、
「但馬国に住むおばあちゃん」といえば「氷川きよし」
という形で記憶が結びついていた子供の私は、やがて、
「但馬国」といえば「氷川きよし」であり「演歌」
という認識にまで解釈が広がります。
べつに但馬国と氷川きよし、祖母と氷川きよしに直接何らかの関係があったわけではありません。ましてや『「箱根」八里の半次郎』だから但馬関係ねえし。でも子供の時の脳内世界ではそういう連想で記憶と印象が結びついていたのです。
こうして、
・祖母という人
・祖母の住む田舎という場所・景色
・祖母が好きな演歌という音楽
この三つの要素は私の中でそれぞれぐっちゃぐちゃに混ざり合い、「演歌は祖母が好きな音楽のジャンル」という認識だけでなく、「祖母が住む田舎の景色・環境」と「演歌調の音楽」が、強い関連性のあるものとして私の中で記憶されます。
(写真はイメージです。本文中の記述地域とは関係はありません)
つまり、私にとって「演歌」といえば「祖母の住んでいた但馬国の田舎の景色」を思い出させるものであり、「演歌」が私の音楽のルーツであるなら、「日本の典型的な田舎の景色」もまた、私という人間を作ってきた感性のルーツ、すなわち私の原風景なのです。
こういった要素が、演歌調の音楽そして日本的な要素を中心とする私の「演歌精神」を形成し、音楽観の土台を築き上げてきました。「演歌」が私の音楽のスタートであり、また演歌を好む祖母が暮らした場所のような「日本の田舎の景色」は、私の音楽のルーツを呼び起こさせる景色と言えます。
これこそ、私が演歌調のような日本的な音楽を好む要因であり、また日本の田舎の景色に落ち着きを感じる要因であり、そして私の幼少期体験のノスタルジーの象徴となっているのでしょう。
(写真はイメージです。本文中の記述地域とは関係はありません)
4.私と盆踊りと演歌
こういう経緯で、演歌と共に私は育まれてきました。演歌に囲まれて生きてきたというより、私自身が氷川きよしをはじめとする演歌の音楽を自ら選び続けてきたみたいです。
氷川きよしに続いて、私と演歌について語らずにはいられないのは、地元の盆踊りです。
「盆踊り」といえば「演歌の宝庫」じゃないですか。
演歌っ子として育った子供の頃の私にとって、「盆踊り」という催事・場所は楽園ですよ。一夜ずっと演歌が流れてるのにタダでずっと居座れるパラダイスです(は?)。
それに「盆踊り」とか「夏祭り」って日本的な景色の象徴の一つでもありますから、たとえ「氷川きよしが好きなおばあちゃん」という要素は欠けていたとしても、浴衣や紅白幕や提灯が並ぶ「日本的な風景」と「演歌」が組み合わさる場所である以上、私の郷愁心と演歌精神をくすぐるにはうってつけの居心地の良い場所であることは言うまでもありません。私は秋祭りより夏祭り派です。
地元の盆踊りでは、全国的に有名な『炭坑節』や、うちは播磨国なので姫路城の物語などを歌にした地元の定番曲『播州音頭』、あと関西圏なので中村美律子の『河内おとこ節』、あとはよく分かんない演歌がやぐらのスピーカーから流れていました。『箱根八里の半次郎』に続き、これらの地元の盆踊り定番ソングも、私の音楽の土台を築き上げるのに大変強い影響があり、私の「演歌精神」を更に補強してきた曲です。
あと盆踊りとは違いますけど、お盆の時期ですから盆提灯とかがめっちゃ好きでした。あれは田舎生まれの日本男児の夏のノスタルジックな気持ちを増幅させる。お仏壇から香る線香の香り、お寺の空間とかも好きだったなあ。
5.音楽の価値観が歪んだ子供
しかしながら、周りの大人はこう言うんですね。
「子供が演歌を聴くなんて子供らしくない」
と。
そして小学校の頃はみんなと学校生活を続けていても、周りに「演歌が好きな子供」なんていないじゃないですか。鉄道が好きだったから鉄道好きっ子同士の友達はいましたけど。
だからその時の世代の周りの子がリアルタイムで追ってるアーティストとかグループとか全然興味なくて、あの頃はちょうど2000年代前半だったから、「SMAP」、「モーニング娘。」、「ORANGE RANGE」とかのグループが流行ってたかな?そういった流行にはほとんどついていけてませんでした。
なので私と同世代の人達にリアルタイムで影響を与えていたであろうそれらのアーティスト・グループの音楽が、私の人生の音楽史にはほとんどないんです。あっ、でもSMAPは『世界に一つだけの花』は充分知ってるわ。あれは本来マッキーの曲だけど。あと『夜空ノムコウ』かな。『らいおんハート』もまあ分かる。
一方、『忍たま乱太郎』とかアニメはちょいちょい見てたから、光GENJIの『勇気100%』は良い曲だっていう記憶がある。あと当時『おじゃる丸』のオープニングであった北島三郎の『詠人』も良い曲。まあ『詠人』は子供向けとは言えれっきとした演歌だよね。放送時間が夕飯時だったからご飯の匂いがする。
(これはこないだ食べた大戸屋のさんま。特に関係はありません。美味しかった。さんまだいすき)
べつに歌番組見ても好きな演歌とか歌謡曲は流れてこないから見てなくて、その代わり当時NHKが放送していた『コメディーお江戸でござる』はまさに絵に描いたような日本的な江戸の情緒を表現していたし、毎回必ず演歌が〆に歌われるので、江戸のことは小学生だから全っっっっく分かんなかったんだけど、とにかく日本的な美観が映像も音楽も共にギュッと濃縮されていたから好きだったんですよね。そういえば小学校6年の社会(日本史)の授業も好きだった。周りの男の子が好きな戦国時代はあんまり興味なかったけど。奈良とか平安とか江戸時代が好きだったジャパニーズカルチャーボーイでしたね。
(これは江戸東京博物館に展示してあった江戸時代の寿司の再現。現代の一口サイズよりデカい。特に関係はありません)
歌番組といえばせいぜい年末に放送される『NHK紅白歌合戦』で氷川きよし見つつ美川憲一とか小林幸子とか北島三郎とか天童よしみとか細川たかしとか石川さゆりとか香西かおりとか演歌歌手の歌ばっかり好んで繰り返し聴いてたと思います。
香西かおりの『無言坂』とかめっちゃ好き。
たった今知ったんですけどこれ作曲者、安全地帯の玉置浩二なんですね……。驚いた。イントロから良いわこれ。サビがドミナント(Key=CmのⅤmだからGm)始まりっていうのもちょっと珍しくてカッコいい。
このへんのアーティストの名前思い出すためにちょっと紅白周りでググったんだけど、
「紅白 演歌 いらない」
って検索候補サジェスト出てきて平成生まれの異端児のおれさまは泣き崩れそうになった。
まあ今これを書いている時にいろいろ昔の記憶を呼び起こしてるんですけど、ここまで書いてみると、そりゃあ子供の頃から、空から紙吹雪が舞ってきて、床はスモークが群がるなか、三味線とか尺八とかの和楽器が伴奏から聴こえてきて、そんで和服の衣装を着た演歌歌手がステージに出てきて、日本的なメロディでこぶしを効かせながら歌ってるパフォーマンスばっか吸収してたら確かにそりゃ演歌野郎になるわ!!
紅白の歌手ランキングとかも見たんですけど、やっぱ見事に他の歌手やグループは、名前は知ってるんだけど歌は全然もしくはあんまり知らないみたいな人ばっかりやったわ………ごめんな同世代のくせに価値観古くて…………オタク趣味抜きにしても、同世代の友人とカラオケ行って選曲の趣味が違うのもよう分かるわ…………。
(これは大雪のあった年の城崎温泉。綺麗だったけど寒かった。道が狭いから車避けて歩いてると軒先から氷柱が落ちてきてそっちも危ないぞ。特に関係はありません。)
鉄道好きっ子だったから、学校から帰ったら日本中の鉄道が舞台になっている刑事ドラマ『さすらい刑事旅情編』とか見てたような小学生でもありましたね。このドラマは昭和末期の1988年から1995年平成初頭にかけて放送されたものですが、多分2002~2004年頃?に地上波(CSでなく)で再放送されたのを見てたと思います。これにしてもまた、生きながらにして自分が生まれるよりも前の古いコンテンツを摂取する子供でした。
先ほど祖母が好きなアーティストの一人で「堀内孝雄」が挙がっていましたが、彼はこの『さすらい刑事旅情編』の主題歌『野郎たちの挽歌』を歌っています。偶然でしょうか。韓国の国民的歌手조용필との男声デュエットソングで、演歌よりかはもっと都会的な歌謡曲ですが、いかにも当時の時代を象徴するような、これまた陽気でキャッチーで日本的なメロディを持つ、氷川きよしとはまた違った方向性の良い曲です。
「氷川きよし」はまだ当時デビューしたての最新のコンテンツだということで周囲への誤魔化しが効いたものの、ここでバリッバリ平成っ子らしからぬ古いコンテンツがおれさまを育てていく…………。
ちなみにこのドラマの頃の東京のイメージが未だ私の記憶では根強くて、やっぱり山手線はウグイス帯の205系だし、京浜東北線は水色帯の209系のイメージがあります。だから2012年に初めて西国の播磨から東京を訪ねたときは、「知ってる東京の景色と違う!!」ってなってビックリしました。関西なんて、未だ103系とかが走ってるような路線ありますし(2021年現在 JR奈良線・JR播但線)。このドラマまた観たいなあ。DVDもないし配信もないんだよなあ。
(これはJR奈良線の103系電車です。特に関係はありません)
まあ、鉄道が普及した近代以降、電車が好きな子供はどの世代にもいるからともかくとして、そんなこんなで色々懐古的な話をしましたが、話を戻すと、
「同世代と同じ時代を生きる音楽のシーン」を(一部除き)あんまり共有していない、子供らしくない子供だった
わけです。だからなんとなく、小学生の頃は、演歌をはじめとする自分が好きな音楽は自分ひとりが好きだったけれど、他の人とは共有・共感できないことを子供心ながら察していたから、人前ではあんまり表に出さなかったんでしょうね。みんなが好きなディズニーとかも「自分のいる世界じゃない」という思いが強く出てしまいちょっと苦手でした(というか全然知らない)。割合的に超マイノリティだと思うけど、私のような「ディズニーみたいな西洋的な世界観が自分の人生世界の中にない」っていう人ってもう一人か二人ぐらいいるんじゃないかな(知らんけど)。
まあその分『ゼルダの伝説』とか『電車でGO!』とか『サルゲッチュ』とか『ドラクエ8』とか『メタルギアソリッド』とかゲームやって埋めてたってのはあると思いますけど(注:必ずしも全ての洋モノが嫌いというわけでもなかった)。「ゼルダの伝説」シリーズの近藤浩治、「ドラクエ」シリーズのすぎやまこういちの楽曲は、演歌以外の部分で私の音楽体験を形成している音楽ですね。FFシリーズはプレイしてなかったので、プログレ的な植松伸夫ワールドよりもどちらかというとクラシック寄りではありました。
6.東方Projectとの出会い・昇華
小学生から中学生になるぐらいの頃(2008年前後?)だったかな、家にインターネット回線が通るようになって、その頃もまあ色々あったんですけど、色々、色々あって、なんか「東方Project」を知って、気が付いたら東方にハマってました。
人に東方を教えてもらってから、「あっこれ東方にハマっとるわ自分」と気付くまで結構なタイムラグがあったように記憶してるので、明確にこの年月日からハマったという記憶はないんですが、原作でいうと「風神録」~「地霊殿」~「星蓮船」の間ぐらいらへんだと思います。「星蓮船」より前は確実。初めて上海アリス幻樂団のHP見たときの最新作が『地霊殿』だったような気がする。
そして、なんかここまで書いてみると、まあまあ東方の世界観にハマった理由がよく分かる気がします。
まず東方の舞台である幻想郷の多くの部分が「昔ながらの日本的・田舎的・アジア的な世界」で覆われていて、そして音楽も「演歌と共通点の多い四七抜き音階・二六抜き音階系のメロディ」で作られていて、幼い頃から形成されてきた演歌精神をくすぐります。とにかく東方は、私の幼少期に重大な印象を植え付けた原風景 & 音楽の体験との共通項を色濃く持っているんです。他にも、二次創作という形でインターネット上のファン達が盛んにファン活動を行っていることが特異で面白いという点もありますが、何よりも私の幼少期の体験との共通項、これこそ私が東方にハマった大きな理由でしょう。
特に、あきやまうに作曲による『東方萃夢想(曲名)』を聴いたときは、良い意味での多大なショックを受けていました。初めて聴いた時は明確に表現する言葉が思いつきませんでしたが、今なら分かります。
あの曲は私にとって東方における「演歌」であり、『東方萃夢想』を初めて聴いたときの大きなショックは、『箱根八里の半次郎』を聴いた私が一回死んで、そして別の人生に生まれ変わってもう一度『箱根八里の半次郎』を聴いたときに、突然前世の記憶が蘇るぐらいの重大なショックだったのでしょう。私の人生の始まりは『箱根八里の半次郎』でしたが、東方を知る前までの私が第一の人生、そして東方を知った後からの私が第二の人生だとすれば、『東方萃夢想』は私にとって第一の人生の『箱根八里の半次郎』に相当する存在なのです。一度離れ離れになった運命の人と再会するような感動的な出来事です。当時はそういう風には思ってなかったけれど、とにかくなんと言葉で形容すればいいか分からない懐かしい気持ちに襲われていました。
多分これが『東方萃夢想(曲名)』を何度も自分好みにアレンジしても自分で納得がいかない理由なんだろうなあ。初めて聴いたときのショックをどう足掻いても再現できないから。
(こちらは京都の嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車内で見かけた、都を騒がす神出鬼没の鬼・酒呑童子。特に関係はありません)
でも中学生の頃、東方なんて当時は(今もまだ?)ザ・オタクのコンテンツでしたから、インターネットを漁ってオタクコンテンツを楽しんでる厨房なんてキモいから表に出せなかったし、時代遅れの私の演歌趣味が当時リアルタイムの東方趣味に昇華されたところで、結局演歌と同じく、「自分ひとりで楽しむもの」という構図はほとんど変わりませんでしたね……。
こうやって思い返してみると、私にとって「東方」とは、「私の過去のノスタルジックな気持ちの解像度を上げるためのコンテンツ」なのだなあと実感させられました。故に私が好きな東方二次創作も、「私の過去のノスタルジックな気持ちの解像度を上げるもの」を好む傾向があると思います。
7.吹奏楽との出会い
中学生の頃は吹奏楽部に入部した(厳密には入部させられた)ので、そっちが人に言える表向きの趣味という感じになりました。
小学4~5年生頃から中学校入学したての頃はプレステとかで遊んでいたのもあって、かつて氷川きよしから累々と続いてきた私の演歌趣味、そして私の音楽に対する関心そのものも薄くなっており、また音楽の勉強などはそれまで全く無関心な子供でしたから楽譜の読み方も全く分からない人間で、部活動なんて帰宅部ナード以外の選択肢ナシって感じだったんですけど、まあワケあって吹奏楽部に引っ張られました。
その結果、吹奏楽の音楽は演歌趣味とは全く畑が違うものの、今思い返してみると、演歌などをはじめとする私のかつての音楽に対する関心が、吹奏楽をやることによって再び違う形で再発したってのはあるんでしょう。たまたま親父が(演歌好きの私と違って)クラシック好きだったって影響も多少あると思いますけど。
音楽について勉強し始めたのはこの頃からです。逆に言うとこれまでは小学校の義務教育レベルのことを除いて何も勉強していません。
以下は中学から高校にかけて吹奏楽の活動中に出会い、その後の私の音楽表現に影響を与えている楽曲です。
福島弘和の『梁塵秘抄~熊野古道の幻想~』は日本的な題材と世界観で曲が作られていて、幼い頃から演歌を聴いて音楽の感性を築き上げてきた私にとってはその心をくすぐる名曲でした。
白鷺ゆっきーという一人の人間の音楽の原点は演歌にあり、また氷川きよしの『箱根八里の半次郎』にあるんですけれど、吹奏楽というカテゴリーに限定して見ると、サークル「針の音楽」の原点となる曲の一つは、この「梁塵秘抄」が挙げられるでしょうね。
1:09からのメロディがまさに私から言わせると「演歌」です。梁塵秘抄の時代に演歌はないから正しくは当時の流行歌(現代で言うと古謡)のイメージなんでしょうけど。
以前この曲の題材になってる和歌山県の「熊野」を訪れたんですが、初めて行く土地なのにとってもノスタルジックな体験をしました。幼い頃から続いてきた演歌精神の黄泉がえりなんでしょうかね。
(こちらは熊野にある青岸渡寺三重塔と那智の滝なので関係あります)
まあ上記の曲が元ネタとかそういう話ではないけれども、
(これはうちが2019年にやったやつ)
こうしてうちがやった曲と並べて聴いてみると、やっぱ吹奏楽×日本的情感の語法として影響は受けてる感はあるよね。(あとメンバーはアマチュアだからちょいちょい演奏に綻びがあるけど改めて聴くとやっぱ良い演奏してんな、と過去の演奏に自音自賛)
他にも真島俊夫の『三つのジャポニスム』とか
4:47~5:22の木管がピロピロしてるやつとかまあまあうちに影響ありそう。
別にこの曲が元ネタというわけではないけれど、
(これもうちがやったやつ)
まあ吹奏楽×日本的情感の語法として影響は(ry
あと日本的な世界からは離れますが、吹奏楽部にいながら、イタリアの作曲家:オットリーノ・レスピーギの管弦楽作品とは縁があって、標題音楽としての表現、オーケストラを使ったドラマティックな音楽表現、民族的な情感を震わせる音楽表現という点で、O. レスピーギの『シバの女王ベルキス』には強い影響を受けています。
まあこんな感じで、演歌によって育てられた私の音楽感性は今もなおしっかり残っていますが、中学生以降は、幼少から続いてきた演歌精神の上に吹奏楽とか西洋音楽の語法がどっぷり上塗りされた感じになっていましたね。
それでも、吹奏楽の活動の中で好んだのは、クラシックの交響曲のように厳密に計算・緻密に建築された絶対音楽的芸術作品でなく、日本的な題材で描かれた楽曲と、レスピーギのような色彩豊かでドラマティックで標題的な楽曲でした。
今の私はよくオーケストラ系の楽曲を作ってはいますが、演歌が私の音楽体験の根底にあり、こういった人生経験を経ているが故に、オケクラスタのくせにヨーロッパの伝統的なシンフォニーを作ったり聴いたりすることにあまり興味がないんでしょう。
しかし、「演歌精神」自体は体の芯の部分に根強く残りつつも、この吹奏楽と東方Projectにどっぷり浸かっていた中学~高校生の間の体験が、かつての演歌が好きだった私の記憶を遠ざける要因にもなってしまいます。
小学生までは「演歌が好きな(周りの子供達と音楽の価値観が合わない)変な子」だったわけですけれど、幸か不幸か、中学生以降に吹奏楽の活動を始めたことによって、(演歌精神は継続して残りつつも)「演歌を聴いてる子供らしくない子」という側面が一気に薄くなり、自分自身その記憶さえも忘れてしまっていたと思います。
また一方で、演歌から離れ同世代の間で流行っているポップスを聴くようになったかというと、そんなことはない。この頃は嵐とかAKB48とかが流行っていた頃でしたがリアルタイムの流行歌に興味がないのは昔と変わらず……。家にいるときの自分は東方のオタクの血を滾らせている人間でした。
この頃にニコニコ動画で東方のピアノ演奏動画をいくつか見て、「これ映像の通り真似したらピアノ弾けんじゃね?」って舐め腐った態度で、独学で一本指からピアノを触り始めたのが私のピアノの始まりです。同人文化の色濃い東方だった故に、個人が趣味で作った譜面が多くネット上に公開されていたこと(良い時代)、そして吹奏楽の経験で楽譜の読み方を知っていたというのも、独学でピアノを触るにあたっての障壁が少なかった要因でしょう。
ちなみに私が小さい頃にピアノを習わせようと親が試みたそうですが、めちゃくちゃ嫌がってその時は習わなかったそうです(やっぱ音楽嫌いなんじゃん?)。
8.洋楽アンチをこじらす大学時代
そうしていくうちに中学卒業、さらに高校卒業となって、そのあいだ東方沼へのハマり具合はどんどん深いものになっていったわけですが、その傍ら大学に進学し上京しました。
それまで演歌に始まり、吹奏楽を通して西洋音楽への理解も深めつつ、演歌の記憶が次第に遠ざかりながら、それまで築き上げてきた演歌精神を東方の音楽で自由気ままに上塗りしていった人生――、このタイミングでちょっと風向きが変わります。
進学した大学生の間はちょこっと音楽のことについて勉強もさせてもらいましたが、んんまあ~~~~~色々あって、色々あって、そんとき教えてもらった先生が大ッッ変に「洋楽賛美」なこと。
「洋楽賛美」なんです(二度目)。
少なくとも演歌精神+日本くさい東方で育ってきた私にとっては。
洋楽っていうのは西洋の古典的なクラシック音楽の洋楽じゃなくて欧米を中心とするポピュラー音楽のことです。
それまで私という人生を支えてきた私の中の演歌精神とは全く方向性の異なる精神を持つ音楽です。
それがつらくてつらくて。
そういう自分の中の軸を根元からへし折られるような体験を今までしたことなくて。
自信がなくなっちゃいました。あのときはもしかすると軽く鬱だったのかな。
おまけに東京って日本を代表する大都市じゃないですか(一応京都が日本の中心という考えを否定しない表現)。だから上京することへの憧れは勿論あったけれど、やっぱり新しい都市なので、私の演歌精神と密接に結びついた日本的な「原風景」はそこにはなくて、そんでうちは地方出身者だから、生まれたときから東京に住んでてずっと東京で暮らしててみたいな大学の同期から、地方や田舎を小馬鹿にしたり否定したりするような言い方をされるとそれもムッとしちゃったりなんかして。
9.洋楽賛美世界からの逃避生活
作曲の勉強にしても、
「洋楽っぽい曲作ってみな」
って言われても、根元がバリッバリの演歌精神だから全ッッッ然曲が作れなくて、あと表向きには東方オタクであることを隠してるのと、幼少期の演歌の記憶は風化して東方によってかなり上書きされてしまっていたから、先生に、
「演歌が好きなんです」
とアピール(言い訳)する選択肢も自分で思いつかなくて、なんとか頑張ろうとしたけど、演歌が好きな幼少期の記憶も風化しかかっているから自分がこれまでどういう道を歩んできたのかもよく分かってなくて、だからどういう道を辿ってきていま自分がここにやってきたのかもよく分かっておらず、無理でした。
だからその時の逃げ道として「尺八(琴古流)」を教えてもらっていました。当時邦楽のレッスンはレッスン室という名の典型的な日本の家屋の和室で行うので、全然知らない家なのに部屋に入るだけで懐かしい気持ちになって、尺八のレッスン以前にそれが居心地良かったですね。
尺八の先生もとっても良い人で。洋の東西を問わない音楽の大事な考え方とかは尺八の先生から教えてもらっていて、私の今の音楽の価値観や考え方はこの先生の教えによって裏付けされていたことが多いような気がします。
(これは初めてお迎えしたばかりの尺八((プラ管))。これは関係あります)
尺八がメインでしたが、他にも箏(生田流十三絃箏)、三味線(長唄と地唄)、琵琶(薩摩琵琶)もさわりだけ教えてもらって良い経験になりました。
別にこれらの邦楽のレッスンの中で演歌を教えてもらったわけではないのに、自分の居場所がそこにはありましたね。中国人が故郷を離れて異郷の外国に出稼ぎに行って、周りとは人種も宗教観も言語も違う生活のなか孤独を感じた時にチャイナタウンを訪れる感覚ってこんな感じなのかな。
他にも図書館で雅楽や民謡などの日本の伝統音楽について調べたり、日本の伝統音楽に詳しい先生に話を聞いたりと、洋楽から逃げる傍ら、「自分は演歌で育ってきた」という記憶も忘れているような状態で、自分がどういう音楽感性を持っている人間なのかをずっと探していました。
10.自分への疑いに自力で答えを探し続ける日々
洋楽っぽい曲を作ろうにも根元が演歌精神だから全然洋楽っぽい曲が出来ない状態が続いて、
「逆になんで洋楽的な精神で曲が作れないのか?」
と自分自身に対して疑問が発生します。もうこのnoteの冒頭で書いた通り、その原因は紛うことなき「演歌」なんですけれど、「自分は演歌っ子として育ってきたんだ」ということも思い出せないまま、その疑問を自分にぶつけ続けていました。
そして私の大好きな東方の楽曲を頼りにして、その疑問を解決しようと、その過程で研究・執筆を始めたのが以下の同人誌です。
(ちなみにこの本はいまオンデマンド発注になってるので、欲しい人は以下から注文して1~2ヶ月待ってね。2015~2016年頃に書いた古い本だけど。)
11.『なつかしきうた』と『聖徳王伝説』
こういった感じで、色々紆余曲折あって、
本当に自分のことも音楽のことも全く分からなくなって苦しみまくって、
上記のような同人誌も書きつつ、
一定期間のもがきを経て、
「畜生ワレコラ覚えとけよオンドレコラこちとら西国播磨生まれ演歌育ちの地方播磨男児(ナード)やぞナメとんちゃうぞワレ洋楽かぶれジジイどもが」
みたいな感じで洋楽アンチ反骨精神をこじらせながら、泥沼から出来上がったオリジナル曲が、2016年の『なつかしきうた』なんです。
もう5~6年前の曲なんでミックスとかヘッタクソだから今の曲の方がもっと良いサウンドで聴かせられるんですけど、作曲としてはすんごい素直に作ったんでしょうね。やっぱりメロディが、「演歌」です。当時は「演歌」を作ろうとは思ってないんですけど、今聴くと、これはやっぱり、確かに「演歌」ですよ。
オーケストラを基本にしつつ、「雅楽」の楽器や「三曲合奏(箏・三味線・尺八の合奏)」を活用し、そして『かごめかごめ』『せっせっせーのよいよいよい』などのわらべうた、『こきりこ節』などの日本民謡を引用するなど、様々な日本的な音楽の要素を用いて音楽を表現していますが、これはいま聴き返してみると、(演歌という答えを知らずに)「自分の音楽の趣味がどこから生まれてきたのか」を探っているようです。
そしてこれは小ネタですが、この『なつかしきうた』の5:16~のトランペットが高らかに入ってくるところは、『東方萃夢想』のオープニング~タイトル画面で流れる『萃夢想(曲名)』の0:49~のトランペットに対する私のアンサーで、そして戻って『なつかしきうた』の8:06~のピアノソロは『東方萃夢想』の1:04~のピアノソロに対する私のアンサーです。故にその自分探しの旅を表現したかのようなこの曲は、東方の要素も掠っていることになりますね。
「演歌」って今や高齢者の音楽なので、先生からしても「平成生まれっ子が演歌で育ってきてその上でこういうメロディを書いてくる」ってのはあんまり思わなかったんでしょう。
ちなみに翌年の2017年に「地方を下に見る東京という都市」にブチギレて作ったオリジナル曲が『みやこへの抗い』です。タイトルがド直球すぎる。
一方、正確な時系列は若干前後しますが、東方アレンジでも『聖徳王伝説』を作ったのがこの頃(2015年)です。
この時「自分は演歌が好きな子供で、演歌で育ってきた人間だったんだ」という自覚はほとんど思い起こせない状態でしたが、『東方神霊廟』という作品、豊聡耳神子・物部布都・蘇我屠自古・霍青娥・宮古芳香というキャラクター達、そして聖徳太子(厩戸皇子)をはじめとする元ネタの人物を通して、日本の歴史、日本の宗教史、日本の文化史の原点を覗き見ることが出来たのは幸運だったと思います。
12.『針の音楽団』と『幻宴Project』
そんでまた色々あって、2017年には大学そっちのけで(ちゃんと勉強はしてましたよ)人生初・東方の自作自演コンサート『針の音楽団』を開きました。
サブタイトルの「吹奏楽で描く日本と幻想郷の世界」、ここまで書いてみた上でこのサブタイトルを考えると、ここまでの私の人生がギュッと濃縮されているように感じますね。「吹奏楽」に「日本」そして東方の舞台である「幻想郷」。この催事名、リリアの抽選が受かってその場で催事企画書を渡されてその場で急いで考えて書いたやつなんですけど、今思うと、深い。やっぱり「演歌精神」じゃないかこの野郎。
今聴くと演奏は結構粗いところもあるんですが、改めてこれはそれまでの人生の集大成だったんだなあとも。東方のメロディを借りて吹奏楽にアレンジするだけじゃなくて、「演歌」という音楽のルーツを忘れた私が、いかにしてそこに日本的な情感を交えて東方二次創作として表現するかと。
続いて2019年には人生で二度目の自作自演コンサート、『幻宴Project』。
演奏はまだまだ基礎的な部分は弱いけれど、『針の音楽団』と比べると演奏が緻密になってる。
どちらもたくさんの来場者がいらしてくれて、こういう形で、一人一人が実際に会場に来てくれて生で聴いてくれているという実感、自分の表現のために色んな人が協力してくれる喜び、そして自分の表現が伝わるという実感を得られたのはかけがえのない貴重な経験でした。
13.そして今
思い返せば、私の大学時代は「演歌に始まった自分の音楽のルーツ」を探っていた時代でした。しかも、そのために東方の二次創作を嗜む傍ら、日本の伝統音楽を調べて勉強して、かつて自分にとって最も身近だったはずの「演歌」という音楽の存在を思い起こせず、色々遠回りしていました(決してそれまでの経験が無駄だった訳ではない)。ダイレクトには「演歌」だったのに、それを忘れていました。意外と分かりやすい明確なルーツだけれども、自分のルーツが演歌だとはっきり気付いたのは、これを書いている“今”なんですね。自分の音楽のルーツがおそらく、氷川きよしの『箱根八里の半次郎』にあるだなんて確信に近い感情を持ててることが、素直に嬉しいです。
今風のクラブミュージックとかシンセの音楽にハマるような人間では全くありません。物心ついたときから接していた音楽が演歌であり、演歌と、演歌的な情感を彷彿とさせる日本的な要素、それらが私の拠り所でした。小さい頃に入園していた幼稚園もどちらかというと西洋寄りの世界観の場所で、そこには私の居場所はなかったように思います。
生まれたときから音楽の価値観・センスが40年ぐらい?遅れていて、同世代と合わないのもそのはずです。生まれた時は演歌に始まって、そのあと歌謡曲とか山口百恵とか、さらに遅れて槇原敬之とか德永英明とか平成初期の音楽を聴くようになって、そんでシンセの音楽とかは聴く土壌が全然出来てないから、マジで30~40年ぐらい音楽のスタートラインが遅れてる説はある。
14.忌み嫌われる演歌
Wikipediaの「演歌」のページも流し読みしたんですけれど、
演歌ファン層は60歳代後半以上が概ね8割以上で、
20歳代以下は1割以下
なのだそう。すげえよ、今自分が「演歌ファン」を自称して良いのかどうかはちょっとよく分からんけど、「演歌ファン=演歌が好きな人」として捉えて良いのであれば、この「1割以下」の中に入っちまうよやべえよ。60歳代後半以上が8割以上ってことは20歳代以下は実際1割とかじゃなくてそこに他の30代40代50代もいるわけだから実質0割1分5厘とかだろうな。
しかしまあ「子供が演歌なんて子供らしくない」なんて周囲の大人から思われた経験が私自身にあったり、「紅白 演歌 いらない」みたいな検索語句サジェストがGoogleの検索フォームに出てきたりするように、「演歌」自体を快く思ってない人も一定数いるのは確かなようです。
音楽業界の中ででも、
「演歌は日本の音楽史の暗黒時代を築いた」
とか、
「演歌は日本の心なんていうのは嘘であれは朝鮮由来の音楽だ」
なんて言われるのも聞くんです。一個人として感情的なことを言えば、私の音楽のルーツをこういう形で傷つけられるのは心地の良い話ではないですね。
確かに、日本の演歌は朝鮮の音楽との関連性が指摘できると考えられることはあるし、「演歌のカラオケ伴奏だってピアノとかギターとかベースとかバリッバリ西洋楽器使ってるんだから日本の音楽じゃないのは当然ですよね」なんて屁理屈で肯定することも出来なくはないですけど――、
「演歌は日本の音楽の負の要素」みたいな演歌批判をする人が、
歴史のない演歌に対して「歴史がある」という理由で「雅楽」を有難がっていたり、
ただ単に終止音と和声的ケーデンスが違うだけなのに「四七抜き音階」と「二六抜き音階」を区別したがり、外見の形の分別ばかりにこだわる一方でメロディそのものについて吟味してなかったり、
今も人々の間で生きながらえている日本のわらべうたや民謡との共通点には目も向けていなかったり、
そういうところを見てしまうと、私からすると、
「いやいや雅楽も歴史的には中国大陸・朝鮮半島からやってきた輸入音楽だし、中世には一旦廃絶しかかってて、私達が今聴く雅楽って古くても江戸時代の復興雅楽なんですけどそういった歴史を承知の上でおっしゃっているんですか?」
とか
「江戸時代だって明清楽という中国風の外来音楽が庶民の間で流行してたんですよ」
とか
「そもそも同じアジア圏だから音楽のみに関わらず文化として中国・朝鮮・日本には連続的関連性がありますよ」
とかって思うんですよ。
浅学ながらエラそうなことを言うのもアレですが、
「戦後の日本人の中で『演歌』という洋楽に対して洗練されていない卑しい音楽が大流行したという事実から目を背けたいだけで、外見や形式ばかりにこだわって音楽そのものについて考えられていないのでは?」
と。
ほかにも別に演歌だけに限った話じゃなく、「我々が信じてる『日本の伝統の形』って実は幻想的なもので、本当はごく最近出来たものなんじゃないの?」みたいなことって、探せば結構あるはずです。知らないだけで。たとえば食事の際の「いただきます」はいつから言うようになったか?とかね。
でも例えば「演歌を大批判した有名作曲家の有名曲」を世界的な大イベントの場で流すなど、そういった名誉ある選択をすることで民族の意識とか国の歴史観って簡単に捻じ曲げられちゃうんですよね多分。
私自身も近代史と日本の文化の変容については研究不足なのであまり強いことは言えませんが、私の音楽創作のポリシーとしては、やっぱりそういった歴史を一つ一つ見つめつつ、これまでの様々な疑問や考えを持ちながら、
「日本の音楽ってなんなの?というか日本ってなんなの?」
「自分の愛する音楽や世界観ってなんなの?」
ということを純粋に考えて追究して創りたいんです。
15.この先
まあだから、途中で東方と出会って、演歌から始まった自分の音楽のセンスと東方をかけ合わせて、『針の音楽団』や『幻宴Project』のような催事を行ってそれらを人前で表現できたのは、私にとってすごい良かったんです。その私の表現を来場者全員がそのように受け取ってくれたかどうかはまた別ですが、私自身はあの二つの催事を終えて、自分で「これだ!」って思いましたもん。
その流れに乗ってもう一つ『幻宴Project2』をやりたかったんですが…………、まだまだ東方二次創作として表現したいこともあったし、やりたいネタもコンセプトもあったし、譜面も用意してたんですけど、このへんについてはまた別の記事にでも(元気があれば)書きますが、やっぱり空白の時間が経ち過ぎちゃいましてね、世の中がこうなっちゃうと、自分の表現を実現するのにかかる経済的心理的双方のコストとその見返りが割に合わないし、それを諦めるとなれば、もう「今までの活動で表現できるものは表現し尽くした」「これ以上のことは高望みするな」「足ることを知れ」ってことになっちゃうのかなと。
今は「演歌が卑しい音楽だ」とする価値観が流布していた時代が過ぎて、「東方」や「歴史モノ」を題材とした作品をはじめとする「日本的なものブーム」とか「和モノブーム」みたいなのも我々の世代の中でほんのり盛り上がりつつあるような気もするんですが、とは言うものの、やっぱり東方ボーカルアレンジなんかで「演歌」みたいな古い音楽風のアレンジって、全くないわけではないけれど流行りはしないし、やっぱりそういう現状を見ると「20歳代以下の演歌ファンは1割以下」というのも正しいんだろうなとも思いまして、じゃあうちが作りたいからうちが作るかなんて思えど、「東方は好きだけれど、東方二次創作でそれを表現していいのか、なんか違くない?」という思いもあり、じゃあこの幼い頃に種を植え付けられて今も私の体内で枝を伸ばし続けている演歌精神を、今のインスピレーションをどう消化(昇華)し表現したらいいのか、そのアウトプット先もよく分かんないんですね。
「人にウケないからという理由で自分が創りたいものを創らないのか。それは同人的な表現ではないだろう」
というお叱りがどこからか飛んでくるかもしれませんが、ここまで考えてみると、「東方」と「日本的な要素」の結びつきって多くの東方ファンが共感している共通項だと思うんですが、一方で私の「演歌を発端とする音楽体験」と「東方」との結びつきって、正直私自身の人生体験でしか分からないことなので、
「これは自分自身の人生体験に依存するものであって、表現したところで相手にはそういう人生体験がないから、相手には伝わらないのでは? なにせ演歌が好きな20歳代以下は1割以下だし」
っていう感じなんですよね。幻宴のように音楽と演奏を聴かせるだけでなくスクリーン演出を使って聴衆に「体験」を届けるならまだワンチャンありますけど、それが、ねえ?
「自分はこれだけ東方の世界観を演出する日本的な情感や要素を大事にして東方アレンジを作っているんだ!」
と思って楽曲を作っても、多くの人は
「和風アレンジですね」
ぐらいの反応で留まってしまい、それは音楽表現の限界且つ音楽表現の享受の限界であり、「私はこれだけ日本的な情感を大切にした表現をしていますよ!」というやり方ではどれだけ和楽器を活かした音楽表現よりも、絵の表現の方が圧倒的に有利なんですよね。
こういう自分の思いを背景に、イラストと音楽がセットになった合同企画、『音降る神霊廟』と『音降る幻想郷』は企画されました。
だから、
「自分はこれだけ東方の世界観を演出する日本的な情感や要素を大事にして東方アレンジを作っているんだ!」
という思いを込めて日本的な情感を大切にした東方アレンジを作り音楽作品として発表するよりも、
「東方曲のメロディって、日本のわらべうたのメロディと共通点があるんですよ」
みたいな解説動画を作ってTwitterのTLに流すほうがバズる、みたいなことが起こるんですね。まあそれはそれで嬉しいこともあるんですが、それってアーティスト的な意味での表現者ではないよね、と。だからこそ、こういった思いもあって、やっぱり自分に合うのは幻宴のような「体験提供型」だなってのは思ったんですが。
――という感じで、色々思うことがあって、私は先月頒布した『音降る幻想郷』の巻末のあとがきにああいうことを書いたんです。他にも色々な要因が重なっててそれらを全部まとめた上での思いなんですけれど。
んんん~~~~~だから、どうしよっかなあと。好きなものは好きなので、続けたいという思いもあるんですが、ちょっと色々考え直して、やり方を(どこから???)変えなあかんかもねって。色々こんだけ複雑な思いをこじらせて、あの洋楽賛美ジジイマジで許さんとかクソみたいなコンプレックスも溜めまくって、その負の感情に抗うがごとく自分の表現活動に勤しんでも発表の結果が梨の礫だったら結局しんどいなあって未来になるのが見えてやっぱりしんどい。経済的余裕&精神的余裕があるならもっとゆったり出来るんでしょうけど。
っていうことを、突然氷川きよしの存在を思い出してからズバババババアアアアーーーーーーっと連鎖的に回想しながら考えていました。
でもこの前いろいろ縁あってうちの楽曲が『東方ダンマクカグラ』に実装されたんですよね。
結構好評みたいです。
よかったら遊んでみてちょうだい。
この曲、日本的な「祭り」が題材になっているから、一応作品頒布時期が時期だから「秋」祭りで「盆踊り」ではないんだけれども、やっぱりうちの「演歌精神」をぶっ放すには良い曲だったんですよね。もちろんアップテンポでリズムも『南中ソーラン』のような今風な感じのテイストに仕上がっていて、「高齢者のための演歌!」という感じではないのですが、やはり私の人生の文脈においてこれは「演歌」の血が強いと思います。
それで「ダンカグ」を通して多くの人にこの曲を聴いてもらってるから、この曲の魅力に気付いてくれる人も相対的に増えていて、全員が全員そうではないと思いますけれど、好評を受けているのを見ると、「やっぱみんなこういうの好きなんジャン!」とも思わされます。ありがたい。もっと聴いておくれ。そしてあわよくばあたくしの過去に対するノスタルジックな気持ちに共感しておくれ。
やっぱり「自分にとっての音楽の故郷」みたいなものってあるんじゃないかと思います。音楽ってめちゃめちゃジャンル広いし、単純に「音楽好きです」という人だけで集まってその人達の好きな音楽を寄せ集めたとしても、多種多様な「音楽」が一度に集まりすぎて、たとえ「音楽好き」だからといって、それらの全ての音楽を全員で受容できるかっていうと、なかなかそんなことないですからね。皆さんの「音楽の故郷」はなんですか?
私にとって東方二次創作をすることとは、「私の音楽の故郷」及び「その音楽が湧き上がってくる環境」を探す旅だったんだと思います。だからこそ、サークル「針の音楽」は「日本紀行サークル」なんですね。ああこれ多分いまやっと初めて言語化できた。でもその旅をまだまだもっと深層の部分に至るまで続けたいという思いもあれば、もうその旅は終えて新しい冒険の旅に出たほうが良いんじゃないか?という思いもあり、時間もお金も無限じゃないので、どうしよっかと思っております。創作という名の自分探しの旅を続けても人に共感されるとか評価されるわけではないから。
オタクの人生の一人語りにお付き合いいただきどうもありがとうございました。
このnoteを全文読んだ上で、私の今までの過去作品を聴いてみると、感じ方が何か変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。なんか思い出したときにでも聴いてみてください。
Skeb(気が向いた時にリクエスト受付してます):
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