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歌モノが持つ力や魅力を、オーケストレイターが妬みながら紹介するだけの話

僕はよく音楽創作においてオーケストラ的な音楽を中心に扱います。

歌モノを作る人じゃなくてどっちかっつーとインスト屋(※)なんですけれども、

(※インスト屋………インストゥルメンタル屋。歌・ボーカルのない、主に楽器だけで表現される音楽を作る人。歌モノ屋と対をなす概念。)

いやー、歌モノ(※)、良いですよね。

(※歌モノ………歌・ボーカルのある音楽のこと。インスト・インストゥルメンタルと対をなす概念。)

なんかインストを作れば作るほどそう思います。

ここ最近連なってるうちのnote記事でほぼ毎回出てると思うんですが、

これ、インストの東方アレンジで27曲作ってるんです。

まあこの作品の中身については今回は直接的には関係なくどうでもいいんですけれど、20曲とか30曲とか50曲とかまとまった曲数をある一定の期間一気にガッ!と作っちゃうとそのあと肉体的にも脳から出てくるアイデア的にも色々全身が干からびちゃいます。いやまあ楽しかったけど。

これは「自分が持ってるインストの表現力で自分自身がどこまで出来るか」という挑戦心でもあったのですが、一方で、

「言葉やメッセージなど、純粋な音楽以外、すなわち音以外の要素」

を表現するのに、

「インストという音楽表現手段」を用いることには限界がある。

とも思わされました。

やはり、「言葉やメッセージなどの純粋な音楽以外の要素」を表現するのに「歌・ボーカル」「歌詞」の力は絶大だなと。インスト屋の僕の手では届かないものがある。

DA

KA

RA――、

今日は妬んじゃうゾ~~~~!!!!!

ズルいズルいズルいズルい…………(小林右京の『顔がいいやつは音楽をやるな』のアウトロ風に)

1.歌詞は強い

超単純な話ですが、やっぱり歌詞は強い

そもそも音楽って何を表現してるのかよく分かんない芸術なんですよ。まあそれは絵画でも同じことが言えるし文学建築だって全ての芸術においてそれが言えるし、「言葉で表現されていない言葉以外の何らかの表現を感じ取ろうとするものこそが芸術である」とも言えるのだけれど、音楽的な専門教育を受けていない一般人の感覚からして純粋に「音を聴く」とか「音を批評する」っていうのは普通に考えると難しいわけですよ。もちろん好きな曲嫌いな曲っていう音楽の好き嫌いは多くの人が持っていると思いますけど、それとはちょっと別でね。

世の中結構多くの人が音楽を聴く。そして音楽の好き嫌いが何かしらある。だけれど、音楽作品の芸術的な評価をすることと、音楽の好き嫌いがあることは、そう簡単には結びついていない(時にはプロの批評家だって「これってただ単にこの人の好みの話だよね」みたいなのがあったりなかったりする)。
直感でこの曲が好きかどうか、自分の本能で判断することは出来るけれど、正しく音楽を評価できるかどうかはその人の音楽的知識や教養などによるので難しい(というかもっと言うと正しい評価って何?みたいな話にもなるけどそれは置いといて)。

音楽を聴く人は多いけれど、音楽を評価・批評できる人は少ない、だけど自分の好きな音楽についてはもっと深く心の底から共感したい。だからこそ、多くの人は、より深く音楽を理解するために、その手がかりとして「歌詞」を使うんです。「歌詞」があれば、その音楽が何を表現しようとしているかが分かる。宮川彬良先生も「音楽の深読み」でそう仰ってた。「歌詞」によって何を表現しようとしているかが分かるということは、多くの人に共感してもらいやすくなる可能性があるということ。

うおおおおーーー!!!!ズルいゾ!!!良いよな歌詞があるって!インスト屋は言葉を持たない!!なんてこった!!

2.ボーカルという楽器は強い

ボーカルという楽器は強い。

ボーカルは人間の声なので楽器じゃないんですが、あえて楽器と捉えてみます。「歌詞」があるということは「発音」があるわけで、「発音」があるということは歌詞に応じて「発音の変化」もあるわけですよ。じゃあ「発音の変化」があるということは、それに応じて「音色の変化」があるんです。

それってヤバくね?ズルくね?

たとえばアルトサックスが「レレレレーレソミーー」って演奏してる時、ボーカルはその同じ音程とリズムで「あなたのーことがーー」って歌えるわけですよ。これって超画期的ですよ。ボーカルが「あなたのー」って言葉を発してる時、楽器は「レレレレー」しか言えない。

うおおおおーーー!!!!ズルいゾ!!!良いよな歌詞があるって!インスト屋は言葉を持たない!!なんてこった!!

たまに、

「歌モノは好きでよく聴いてるけど歌詞は全然聴いてない。だけど歌モノを聴くのは好きだ(二度目)」

みたいな人もいますけど、そういう人は歌の何を聴いているかっていうと、「歌詞」じゃなくて「歌詞の変化によるボーカルの音色の変化」でしょうね。僕もどちらかというと歌詞は意識しないと頭から抜けていっちゃう人なので、好きな歌モノを聴いてる時はそういう聴き方になりがちです。だからといって歌詞がいらないかというと決してそうではないという。歌モノの表現をする上で「歌詞の音」によるボーカルの音色の変化って音楽的に重要な要素だから。「歌」って、深い。

歌モノの歌のメロディラインって、曲によって色んな表現の分類があると思うんですけど、たとえば「メリスマ型」とか「シラブル型」とかね、そんで「シラブル型」、いわゆる一つの音節(≒文字)に一つの音符が当てられる、まさにいま言った「レレレレー」の音符に「あなたのー」という歌詞を当てはめるようなやつ、音程に変化があるメロディだったらまだいいけど、

「レレレレーレレレーーレレレーレレレミーーミミミーミミーミミミーー」

みたいな音程の変化が少ない超~~~~シラブル型の歌モノのメロディをインストにアレンジするとんまああ~~~大変ですね。すんげーつまんないことになっちゃう。

まあだから、はじめっから楽器だけで音楽を表現、すなわちインストを作ろうとするならば、上記のようなシラブル型的なメロディを作曲することはあまりなくて、あるとしたら、「レレレレーレレレー」みたいなメロディは、音程の変化でなくリズムそのものを表現する時なんかに使う感じになりますね。

つまり何が言いたいかっていうと、歌モノとインストものとでは表現するメロディの世界が異なるってことですよ。

だからインストの世界ですんごい叙情的で壮大なメロディを作ろうとすると、歌モノのように同じ音程でリズムを作ることが(ないわけではないが)そう頻繁にはないので、音程の変化でメロディを表現しようとする傾向にあります。そしてその代償として音域が広くなるんですね。

逆に言うと、インストを前提に作られた曲のメロディをボーカルが歌おうとするとボーカルの音域限界を突破して歌えない、みたいなことがよくある。

3.ボーカルは楽器よりも表現力が広く感じる特殊な錯覚がある

さっきの節の続きですが、例えばG.ホルストの組曲『惑星』の第4曲『木星』の中間部の超有名なメロディは、一回始まるともう二度と下に落ちない構造になっていて、メロディが持つ音域は3オクターブという広い音域に渡るんですね。

25:42から28:04までの区間、クラシックに疎い人でもこのメロディを知ってる人は多いと思います。

25:42からメロディが始まって、このときはヴァイオリンの最低音(最も低いソの音)から始まり、

26:38で二周目、このとき一周目よりも1オクターブ高い音から始まっていて、

27:33で三周目、このときさっきよりも更に1オクターブ高い音で始まり、28:00あたりに向けて山場を迎えます。(それにしてもこの演奏テンポが結構重めですね)

たまたまなんですけれど、この曲有名なボーカルアレンジがあるじゃないですか。公式でMVが上がっていたのでせっかくなんで掲載しておきましょう。知ってる人多いはずだから。

さっきのメロディが最初から始まって、このときは低い声、

そして0:49で二周目に入り、このときは一周目よりも1オクターブ高い声になります。

でもそれ以上高い声で三周目を迎えるのはボーカルの表現としてはかなり厳しいので、1:13で歌は一旦終わってインストゥルメンタルによるイントロセクションになるわけですね。原曲だと3オクターブありますが、ボーカルだとこの2オクターブ分歌うだけでかなり大変ですし、むしろ逆に言うと3オクターブまで広げなくとも、歌であればこの2オクターブだけで充分世界観の広さを表現できると。

平原さんのこの『Jupiter』はクラシック方面の人からは賛否両論ありますが、僕は結構好きです。もちろんホルストの原曲も好きですが、やっぱりインスト(楽器)とボーカル(歌)では表現できるものが微妙に異なりますよねっていう。まあだからそれに優劣をつけるのは変な話だから、そういうので争うのは、やめておきましょう?

って話なんですけれど、

……

………

やっぱり歌詞がつくのはズルいゾオオオオ~~~~~~!!!!!

ズルいゾ!!!良いよな歌詞があるって!インスト屋は言葉を持たない!!なんてこった!!

ズルいズルいズルいズルい…………。

4.ボーカルは韻を踏みやすい

「韻を踏む」って分かりますか?

「赤い血出した、鼻のした

みたいなやつですね。これは「した」と「した」で韻を踏んでいますが、他にも、

「大判小判こばんにうまいご飯ごはん

なんかも小判こばんご飯ごはんで「o-a-n(おあん)」という同じ母音の音で韻を踏んでいます。

歌詞があるということは、無論こういった表現が出来ます。韻を踏んだ歌詞は、ある程度の時間的長さを持ったフレーズ単位で歯切れの良いリズム感を生むことが出来ます。それはただ単なる短い単位のリズムで歯切れの良さを表現するのとは異なる、もっと広々とした時間の中でのリズム感です。

これはまあ当たり前っちゃ当たり前なんですけど、「実はボーカルは韻を踏めてインストは韻を踏めないとかそういう話なんでしょ」って思ったら、それはちょっと違います。

インストでも韻を踏むことはあるんです。

「なんたらなんたらなんたらなんたらほにゃらららら… レミッ!
「なんたらなんたらなんたらなんたらほにゃらららら… レミッ!

みたいなメロディとかも韻を踏む音楽表現の一つなんですね。これは「レミッ!」で終わるメロディで韻を踏んでいます。

ほかにも、

「ほにゃららら~ラソー」
「ほにゃららら~ソド↑ー」

みたいなメロディも、音程は違いますが、「ラソー」と「ソド↑ー」という同じリズムで揃えてフレーズを終わらせることで韻を踏むことが出来ます。

SHI!!

KA!!

SHI!!!

ここからが問題。

これらのインストにおける、音程やリズムを統一することで発生する押韻の表現って、別にボーカルでも表現できるんですよね。

つまり、インストが唯一表現できない押韻は……、

「歌詞の押韻」

つまり、ボーカルのほうが韻を踏む表現の手数はインストよりも多いってこと………

うおおおおーーー!!!!ズルいゾ!!!良いよな歌詞があるって!インスト屋は言葉を持たない!!なんてこった!!

5.歌詞は展開の変化を生みやすい

個人的にですが、僕はインストの音楽を作るのに難しいことって「音楽の展開」を作ることだと思うんですよ。音楽が時間の経過と共にどのように変化・発展していくか、ということですね。

だから、ワンコーラスを一旦作って、

「よぉ~しもう一回ワンコーラス聴きたいから2コーラス目作っちゃうぞ~!」

ってなっても、1コーラス目をそのままコピーして後ろに貼っ付けるだけだと面白くないんですね。1コーラス目と2コーラス目が全く同じであることに何らかの大きな意味があるのであればコピペでも表現の一種として良いと思うんですが、通常はそれだと「じゃあ1コーラスだけで曲終わらせればよくない?」ってなっちゃうので、2コーラス作るんであればやっぱり2コーラス目は何らかの変化や展開が必要でしょと。

でもそれを表現するのって難しい。いや、色々と手段はあるよ。メロディの楽器を変えるとか、アドリブソロにするとか、メロディはそのまんまだけど後ろの伴奏を変えてみるとか、コード進行を変えてみるとか、リズムセクションを盛り上げてみるとか、調を変えてみるとか、思い切って音楽のジャンルまるごと変えちゃうとか、色々!!色々!!あります。本当に、色々!! 

でも、色々!!色々!!その手段は多くて、どれを選ぼうか迷うんですよね。どういう展開がこの曲に必要なのかって。そんでどの手段を選んでも、それを実現するのはどれも大変。作業が。いざ作ってみても「なんか違うな」ってなったら消してもう一回考え直さないといけない。

「この曲は絶対こういう展開にする!」っていう強い意思が最初からあるのであればそんなに迷うことはないんですけれど、

「なんか曲作りたいな~あっ良い感じのワンコーラス出来ちゃった~じゃあ続きどうしよう?………う~~~~~~ん…………」

って感じで曲作ってると2コーラス目以降の展開で躓きますね。

でも歌詞がある歌モノの曲って、

歌詞の変化だけで2コーラス目の展開が作れちゃう。

インスト、歌詞がないから歌詞以外の音楽的表現で展開を作らないといけない。

うおおおおーーー!!!!ズルいゾ!!!良いよな歌詞があるって!インスト屋は言葉を持たない!!なんてこった!!

いや、実際は

「歌モノは歌詞の変化だけで展開作れるからボーカルの歌詞だけ変えて伴奏は2コーラス目も1コーラス目のコピペで良いんですよハハハwwwww」

なんてことは滅多になくて、歌モノでも実際は2コーラス目は楽器の方にも何らかの変化やアレンジを(たとえほんの一瞬であっても)入れてることが多いです。

でも展開・変化の主役が歌詞になるって、やっぱ良いですよね。分かりやすいし。逆に言うとその「歌詞の変化」を作るのが大変ということも往々にしてあるんですけど。

「1コーラス目で最高のメロディと歌詞できた!けど2コーラス目だとここのメロディと歌詞とが音数合わない!!えっ妥協しちゃう……?う~~ん……」

とかね。そういう苦労もあるのは知ってます。つらいよね。あたくしもインスト屋だけど作詞したことあるからさ。分かるヨ。

6.インストは展開を作ると楽器が増えがち

さっきの節の続きになるんですけど、「展開」を作ると多かれ少なかれ音楽的な盛り上がりとか山場ってのが出来るんですね。最初は大人しめに始まって終盤のクライマックスに向けてどんどん盛り上がっていくみたいな。

で実際インストの音楽ではそういった展開を持った表現ってたくさんあるんですけど、たくさんというか常套手段のようにあるんですけど、「盛り上がり」を作ろうとすると、どうしても楽器が増える傾向にあるんですよね。

別に楽器が増えることが悪いことではない。むしろ楽器が増えるのは良いことだ。盛り上がるし、楽しい!最高!!

じゃあ何が嫌かって言うと、

単純にめんどうくさい。作業が。

「ああ!!この曲当初の予定よりどんどん盛り上がっていく!!盛り上がりを求めている!!こんなちっちゃい編成じゃダメだ!!もっと楽器を足して盛り上げを表現しないとダメだ!!ああ!!楽器が増える!!手数が増える!!作業量が増えるゥゥゥゥゥウウゥゥゥ~~~~!!!!」

これ、僕の多くの曲で起きてます。(もしかしてこんなのってあたしだけ?)

だからほぼ毎回、「どうしてこんなになるまで盛り上げちまったんだよこの野郎チネ!!」って自分に言い聞かせながら手を動かしてますね。でも最終的に出来上がった曲はやっぱ良いものになってる。(と自負している)(と思いたい)

いや、毎回そればっかりだとそれもそれでどうなの?毎回しんどいしって感じなので、

「この曲は絶対この編成内に収めるぞ!!!!絶対にだ!!!」

っていうのも時々やります。編成の指定あるなしに関わらずね。それでうまく我慢できたときもあれば、いかないときもある。

でもあれよ、ボーカル・歌モノだと、やっぱり歌が主役だからさ、目的として「歌を際立たせる」ために作る必要があるわけで、いくら盛り上がりを演出するっつったって、後ろの楽器が増えすぎて歌が聴こえない・埋もれてるみたいなことがあっちゃいけないわけですよ。まあそれはそれでまた別の表現の難しさというものがあるんですけど、まあ、そういうのも、イイよね。うちなんか最終的に出来上がったプロジェクトファイル見て、

「なんでこんなにトラック増えてんだよ畜生がよォ………」

ってなるから。

んま~~でそんで面倒くさいのが、楽器が増えると必然的に音量が大きくなるじゃない。つまり盛り上がった後半部分で楽器を増やしてしまうと、相対的に楽器の数が少ない前半部分の音量が小さく感じてしまうと。最初からそれを意図しているのであればそれで良いんですけど(ラヴェルの『ボレロ』みたいな)、

「いやいやもともとはそんなつもりじゃなくて前半は前半でそこそこ充分な音量感で鳴っててほしいんだ」

ってなると、あとで出来上がった状態から音量を調節する作業を入れないといけない。いや~めんどうくさいね。んでそれで良い感じに音量のバラツキが出ないように調整すると、「やっぱこれ楽器足した意味あったか??」なんて感情が起こることもあって、いや~~~難しいね音楽。そうならないようにするためには予め音楽の設計書を作っとくかイメージするのが大事なんだけども。

7.インスト特有の表現

ここまで、インストに対してボーカル・歌モノの音楽だけが持ってるズルい部分を列挙してみました。他にもまだあるかもしれませんが、まあそれは思いついた時かつ暇があったら(てかこの記事の存在を覚えてたら)追記するかもしれませんが、まあ代表的なのはこんな感じでしょうか。

改めて見るとやっぱり「歌詞」の存在は大きいですね。そんで後半では「展開」という要素も出てきました。ここらでその「展開」という要素と、ちょっとインストの表現にも目を向けてみましょう。

やっぱり歌が持ってる「歌詞」の表現力ってすごいんですよ。言葉を持たないインスト屋は「歌詞」がないから、歌モノと比較するとその分表現の手段にハンデが出る。そういう音楽的背景と歴史があるから、インストの音楽って歌モノとは異なる独自の発展をしているんですね。それは音楽における「展開」という要素に着目して見ると分かります。

ヨーロッパの伝統的芸術音楽、いわゆるクラシック音楽では「ソナタ形式」という音楽形式があります。「ソナタ(Sonata)」というのはイタリア語で「鳴り響くもの」という意味なんだそうですが、「歌われるもの・声楽の」を意味する「カンタータ(Cantata)」の対義語であり、ざっくりいうと「声楽」の対義語ですから「楽器によって演奏されるもの・器楽の」というニュアンスであり、まあとどのつまり「ソナタ」っていうのは「インスト」なんですね。だから「ソナタ形式」っていうのは「インストの形式」ということになります。

これってやっぱりインストでは歌モノに対して表現できる分野の世界が微妙に異なるから発展した音楽形式概念だと思うんですよ。歌モノだと1番2番3番とで歌詞の変化で展開をつけられるけれど、楽器だけで歌詞の変化のような展開を作ることは難しいから、「楽器だけで表現できる音楽的展開」の王道フォーマットを作ろうとした結果というか集大成みたいなものが「ソナタ形式」なんでしょうね。僕はそう解釈してます。最初に1つ目のテーマがあって、その次に2つ目のテーマがあって、それらのテーマがいろいろほにゃららして、最後にもう一回その1つ目と2つ目のテーマを演奏して終わりっていう。そしてその展開の中に様々な音楽的ドラマや、楽器の会話・掛け合いなどがある。「ソナタ形式」について詳しく知りたい人はググってください。

以上はクラシック音楽の話ですが、ジャズ・ポピュラーでも似たようなのがあるんですね。

イントロ → テーマ → アドリブソロ → テーマ → エンディング

っていう展開。真ん中のアドリブが各楽器の見せ場になるわけですが、これも「共有された一つのテーマ」だけをただ繰り返し演奏して終わるのでなく、「共有された一つのテーマ」をもとに、途中でそれを自由に変奏したり発展させたり変形させたりしてアドリブソロを行い、そしてまた再び「共有された一つのテーマ」に回帰するという展開を経ることによって、「たった一つのテーマ」だけでも音楽の世界観を広げて演奏することができるわけですね(ミュージシャンそれぞれの自己表現も含みつつ)。ボーカルでもアドリブソロって、出来なくもないけど、ちょっと難しいよね。スキャットとは違うし。

8.まとめ・個人的な話

まあそんなこんなで、歌の表現と楽器の表現、それぞれ出来ること出来ないことありますし、そういう相互理解をすることで更に音楽表現の可能性への深い理解につながることがあるわけです。

でもそれでも、個人的には、

「やっぱ歌の持つ力は強いよなあ~~~~」

って思っちゃうのは、僕がやっぱり純粋な音楽そのものの表現にはあまり興味がないからなのかな。「音楽そのものを表現」じゃなくて、「音楽を使って何かを表現」したがってるから、純粋な器楽的な音楽が持つ表現以外のものを持っているものを羨ましく思ってしまう。「絵」とか「映像」とかね。その中で、音楽という立場から見て特に最も身近なものは「歌詞」であり「歌」ですよ。

そんなこんなで、個人的に「展開で音楽を表現」しようってあんまり思わないんですよね。「音楽の展開で何かを表現」しようって思ってしまう。「音楽を表現すること」が目的でなく「音楽の表現」が手段になっている。だからこうして記事に書いてみると、「確かにソナタ形式って、ソナタのための形式だよなあ」って改めて実感させられると同時に、「ほんでもソナタ形式で音楽を表現しようとは思わないな」ともなって、もちろんベートーヴェンとかは好きなんですけどね。でもベートーヴェンの作品でもがっちり構成されたシンフォニーよりもちょっと自由な遊び心があるピアノソナタの方が好きだったりとか。

冒頭で『音降る幻想郷』を出してましたけど、あれ27曲全部インストモノですが、あれで作った27曲のうち、先述した内容で挙げた「アドリブソロ」っていうのはほとんどやってないんです。アドリブソロって、楽器を用いたミュージシャンの自己表現であって、「イラストの世界観に寄り添って音楽を表現する」ことを目的としたあの合同作品に適した表現の手段ではないから。ただ一曲だけアドリブソロを用いた曲がありますね。25曲目の『見つけられない利己主義者』。これは自由奔放な感じを演出したかったので、ちょっとジャズチックなテイストが土台にあるのと同時にアドリブソロが入っています。うちの音楽表現の仕方だとそういう感じになりますね。

いやもういっそのこと歌っちゃうかァ~?でも歌モノ作るのもそれはそれで大変だしなぁ~。歌うのは好きだけど自分の歌乗せるよりかはお歌が上手い人に乗せてもらいたいけど、スケジュールの確保とか予算の確保とか大変だよね。自分ひとりのDTMで完結するインスト屋はまあ自分ひとりで頑張ればなんとかなるけど、他の人の力をお借りして他所の人をお招きして(巻き込んで)定期的に歌モノ作ってプロデュースしてる人は、ヤバイよ。すごいね。Steely Danドナルド・フェイゲンはなんか「歌もインストも隔てない独自の音楽世界」の表現をしているように感じてちょっと世界観が独創的で奇抜で面白いなって思います。

音楽、むずかしいね。

やっぱ歌の力はすごいですよ。

これとか歌っていただいた時すごかったもん。歌というものが持つパワーが。もちろん単純に歌っていただいたのが嬉しいっていう相乗効果もありますが。

高校生んとき

「やっぱ音楽の基本は歌ですよ」

みたいなマウントのされ方を音楽の先生(声楽出身)にされたことがあるんですけど、「器楽で頑張ってる人間にそれを言うかァ~?」みたいな感じで逆張りしそうになったんですけど、でも確かに音楽って歌と共に強く育ってきた側面は音楽史上否めないですね。とりわけ西洋音楽史の中で「器楽」というジャンルがとても精巧に発展しているというのが世界的に見て特異なのであって。日本音楽史とかやっぱり「歌」とか「声」が占めるウェイトは大きいですもん。

人類の音楽は「楽器」から始まったのか「歌」から始まったのか、それは石ころをぶん投げて衝撃で割れるときのゴツン!って音をヒトが面白がったことを音楽の始まりとするのか、それともヒトが「アアア~~~~!!」と声を上げ始めたことを音楽の始まりとするのか、そのへんの原始レベルの話は詳しいことよく分かんないですけど、でもやっぱり「歌」は強い。

「歌」には「歌詞」がある。「歌詞」があるってことは「言語」だから、人間の言葉、メッセージがある。そこには人間のコミュニケーションとしての「リアルさ」が存在する。だから「身近」に感じる。歌詞の言ってる意味がよく分かんなかったとしても。

それに引き換え「器楽」「インスト」というのは言葉を持たない。「歌」に「リアルさ」があると言うのだとすれば、それに対する「インスト」は「幻想的」「虚構的」「空想的」「夢」とも言いましょうか。もちろん悪い意味じゃないですよ。言葉を持たないから、言葉が表現する次元とは違う次元の世界を表現できるわけで、つまりそれは、我々のこの世とは異なる言葉を持たない世界、たとえば動物の世界とか植物の世界とか、あるいは過去の世界だとか未来の世界だとか異国語の世界だとか、そういった世界を手引きしてくれるもの」なのかな?と思います。

たとえば「日本の奈良時代の世界を音楽舞台で表現!」するとして、音楽を背景に「現代日本語」を用いて奈良時代の様子をナレーターの言葉で説明するより、「言葉を一切持たない伴奏音楽だけ」のほうが聴衆のイメージを膨らますことが出来て良いとか。いちばんリアルなのは当時の奈良時代の日本語の発音を再現することなのかもしれませんけど、当時の日本語の発音は現代日本語と全然発音が違うので「リアル」ではあっても「身近」ではないから、そのあたりの隔たりとかとっつきにくさは残ってしまう。

もしかしたら過去に團伊玖磨作曲のオペラ『夕鶴』を鑑賞した時に「これじゃない感」を感じたのは、「鶴の恩返し」という極めて日本的な題材で「身近」な舞台設定なのに、歌がイタリアオペラのベルカント唱法に日本語が乗った歌だから「リアル」を感じなかったのが理由かもしれない。劇中の児童合唱はリアルなわらべうたっぽくて良かった記憶があるんだけれども。

まあちょっと余談が入りましたけれども。器楽をやる人にとっては、「歌」の表現を知って初めて、「器楽」特有の表現をはっきり認知できると言ってもいいかもしれません。何事も勉強ですねえ。

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