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「額縁幻想」 ⑥ 強行手段

「額縁幻想」⑥ 強行手段


  ゆるやかな風のハミングは、
  大地が生まれる以前からの声。
  花々が優しいメロディーを添えて、
  高らかな、小鳥たちのオブリガート。
  さらさら、キラキラ、
  星たちの煌めきの伴奏……

 インペリアル・エッグの夢の世界を、絵里香はひと晩かけて描き出した。オルゴールの煌めく音色に、うっとりと聞き惚れながら。

 ファベルジェの卵をひと目見るなり、とても価値のつけられないものだろう、と画材屋のおじいさんは言った。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、ロマノフ王朝の皇帝は、愛する者たちへの贈り物として、60個ほどのインペリアル・イースター・エッグを作らせた。天才金細工師、カール・ファベルジェの手によって製作された美しく豪華で精巧な作品の数々は、ロマノフ王朝滅亡後、十数個が行方不明となり、中には何億円の値打ちものもあるという。

 これはそのレプリカなのだろうが、ハプスブルク皇太子の所蔵していたものとなると、もしや行方不明のひとつという可能性もあるかもな、とおじいさんは笑っていた。誰にも見せずに、大切にしまっておきなさいよ、とも。

 絵里香は当然、このような貴重な品はクラウス・ホフマンに返すつもりであったが、次に彼が来るまでは、この素晴らしい音色を楽しみながら絵を描いていたかった。

 次に……?

── 彼がまた来ることってあるのかな ──。

 絵里香は、自分が実はいつも彼を待っていたのだと気づいた。
 ここ数日だけのことではない。
 もっと、ずっと前。ウィーンに来た頃から、ばくぜんと。
 いえ、もしかしたら……、生まれる前から? 
 それは恋とかいったたぐいのものでなく、人間としての、もっとずっと深いつながり……。
 まさか。
 絵里香のプライドはそんな考えを否定したかった。
 ただ少なくとも今は、この絵は、彼に見せるために描いているのだから、彼の存在を認めない訳にはいかないのよね。

 絵を入れてしまいさえすれば、こちらのもの。ハプスブルクの、ハイデンベルクの額縁を、彼に持っていかせないために。鏡は時空移動のできる危険を伴うものとわかったけれど、絵だったら、問題ないのだから。

 どこか遠いところで鳥が鳴き始めた。ドナウ川に集う水鳥たちだろうか。爽やかな朝の訪れ。

 時間は短くとも、我ながら力作が描けたじゃないの。絵里香はイーゼルからキャンバスを外し、自分の背丈ほどもある縦長の絵を、額縁の置いてある大広間へと意気揚々と運び込んだ。

 毎度のことながら、描いた作品を額に入れるときの喜びは、何にも変えがたいもの。ハプスブルクの豪華な額縁に入った新作を、絵里香は誇らしげに眺めた。額が素晴らしすぎるから、まるで宮殿に飾ってある名画のよう……、なーんてね。

 そうだ。これはフェベルジェのオルゴールがテーマなのだから、あの音楽をかけないと。
 アトリエからインペリアル・エッグを持ってきて、ネジを回す。これで何度目だろう。壊してしまってはいけないから、ほどほどにしなければ。

 早朝の陽光が窓辺から差し込んでくる。
 今の輝かしい瞬間を、彼にも立ち会って欲しかったな。絵里香は素直に思った。
 それにしてもこのオルゴールの音楽は、夕暮れ時でも夜中でも、朝日の輝きの中でも、どんなシーンでもぴったり合うからふしぎ。そう、画材屋のおじいさんが言ってたっけ。

── インペリアル・エッグには秘密が隠されているんだよ。様々な、驚きの仕掛けが ──。

 絵里香はワルツのリズムに乗ってゆっくり回転している卵の中の花々を、じっくり観察した。そして、花の歌声に導かれるままに、まん中の白いマーガレットの花心に、半信半疑で触れてみる。
 絵里香は息を呑んだ。
 カチッという音とともに花の中から小さな小さな妖精が現れて、くるくる踊り始めたのだ。

── この瞬間こそ、誰かと ──。

 クラウスに、早く知らせてあげたい。彼はきっと知らないはずだもの。絵里香は広間の大時計を見た。まだ6時前。いくら何でも早すぎる。ひと眠りして、午後にでもなったら……。
 絵里香の胸がチクリと痛む。
 わたしは彼を裏切ったというのに。額縁を処分できないようズルい手を使ったというのに、彼に一緒に喜んでもらおうなんて。
 オルゴールは静かに鳴り続けていた。ふしぎな絵に映える音楽。ふしぎな音楽に映える絵……。

 そこで絵里香はぎょっとした。自分の目が信じられなかった。

── 何? 何なの!? ──

 わたしの描いた絵じゃない。色が全然違う。色が……、こんな色づかい、わたしには、とてもできない。

 全体がブルーベースの鮮やかなピンク紫が、絵里香の得意とする、好んで使う色合いだった。今回の絵もそうした色合いを基調に描いたはずなのに。
 だけどこの絵は、オルゴールの色と同じ。明るいグリーン系で統一されている。その中に、色とりどりの花畑や、森の木々、鮮やかな予言の鳥、星空の輝きが完全に調和された色合いで描かれていた。
 まさか。
 空間がぐるぐると渦を巻くような恐ろしいめまいに襲われ、絵里香はソファに倒れ込んだ。



 大学の研究室で夜明かしする際、普段は窓辺で明け方に最後の輝きを放つ「一番星」ならぬ、「一番ラスト星」を確認してから、やれやれと幸せな仮眠に入るクラウス・ホフマンであったが、今朝は学会に提出する論文の構想をまとめ上げたくて、完全徹夜してしまった。

「宇宙エネルギーと人類の意識の相互作用」

 タイトルだけで、教授に却下されそうだな。クラウスは我ながら苦笑した。しかしながら何と言われようとも、書きたいから、書く。

 誰かが本気になって何かを成し遂げようとすると、宇宙のエネルギーが良質の波動を起こし、最大限のパワーで応援してくれる。
 思いもかけなかった情報がいきなり飛び込んで来たり、音信不通だったかつての知り合いと偶然再会し、協力し合える展開になったり。
 もちろん、良い行ないに限ってのことだが。
 しかし同様に、心の隙間に邪魔が入ることも免れない。出来ないんじゃないかという疑惑や自身喪失。そうした誘惑をはねのけ、強靱な意志をもって取り組めば、人間がひとたび本気になれば、たとえ時間はかかろうとも、夢や目標はきっと叶うのだということを。

 長年燃やせずにいた祖父の日記。

 7歳ごときの子どもには、到底理解できない内容ばかりだった。ぼくは次第に、遺言や日記そのものが、祖父の残した生涯最大のおとぎ話のような気がして、日記はそうっと仕舞っておいた。机の引き出しに、秘密の二重底を作って。
 それから数年後、引き出しの裏側に落ち込んでしまったレポート用紙を取り出そうとして、忘れていた日記が出現した。再び読み返し、恐ろしくなったぼくは、鏡に関する内容はすべて暗記し、日記を暖炉に放り込んだ。祖父の大切な想いだから、日記の鍵だけは保存して。
 その後も事あるごとに、日記の鍵がひょっこり現れたり、ハイデンベルクの画集を街角で偶然見かけたり。ぼくの潜在意識に植えつけられた祖父の想いが、形を変えながら我が人生に幾度となく登場するのだった。

 そしてついに訪れた時空のゆらぎ。

 ああ、自分の論文が自伝的ファンタジーなのか、妄想なのか、理想論なのか……。わけがわからなくなってきた。

 ぼうっとした頭で書類をまとめ、研究室を後にする。そろそろカフェーが開く時間だ。熱い珈琲でひと息ついてから家に帰ろう。でないと、とても運転できそうにない。

 天文学の研究者として、天文観測を日常的に行なっているクラウスは、夜中でも夜明けでも、いつでも帰宅できるよう、車で大学に通っていた。
 絵里香に告げた歴史学者という身分は、あながち大嘘でもなかった。宇宙を観測することは、常に過去を見ることになるのだから。星空の、すべての光が過去からのメッセージなのだから。




「額縁幻想」 ⑦ に続く……。

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