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「白の Rondo」 ④

これまでの、アントン・ヴァイスの物語は……


 百年前の貴婦人アウレリアに恋をしたピアニストのアントンは、19世紀末のウィーンにタイムトリップするも、一足違いで彼女は命を落としてしまう。
 何故かアントンは、この時代でも存在していることになっており、しかもアウレリアは婚約者で、身寄りのない少年トニーを養子に迎える予定だったという。
 そして今度はトニーに危険が及んでいることから、アントンは彼を匿い、未来から来たという自分の秘密も打ち明けることにする。


「白の Rondo」④


「つまりこのアントン・ヴァイスは、100年以上も先の時代から来たというわけなんだ」

 セピア色の写真集。舞踏会の美女アウレリアに惚れ込み、彼女を写真から現実世界に呼び出してしまうが、時空の重なる観覧車を足がかりに、今度は過去の世界に戻りゆくアウレリアを追って、この時代に来てしまったと。

 7歳の少年といえども、ロマン派の音楽や文学で幻想の世界を常に身近に感じているヨーロッパ人だけあって、呑み込みは早かった。英国のウェルズやフランスのヴェルヌのSF作品は、翻訳本こそは一般にまだ浸透していなかったが、時間旅行の概念自体は、ここ東に近いオーストリアにも漠然と聞き伝わっていた。
 未来人アントンを見る少年の瞳の輝きは、もはや崇拝に近かった。

「これはユーロ紙幣。未来のお金なんだ」

 うわお! と歓喜の悲鳴をあげ、わなわなと震える手でトニーは封筒の中身を確かめた。
 目下、自分が一生懸命書いている楽譜は、既に受け取ってしまった、この報酬の為なのだと説明する。しかし今の時代には無用の長物なのだ。

「あげるよ。だけど使っちゃダメだよ」

 少年はたいそう喜び、未来のユーロに夢中になった。何度も封筒から出してはきちんと並べ、数えたり、番号をチェックしたり。未来の貨幣価値でどんな買物ができるかなどと、想像を膨らませた。

 そして半日で地球の裏側にひとっ飛びできるばかりでなく、宇宙船で別の星までにも行ける時代に思いを馳せてゆく。宇宙は我々の銀河系だけでなく、同様の無数の銀河が存在しているという事実、夏の東の夜空に薄ぼんやり見えるアンドロメダ銀河は、普段肉眼で見ることのできる天体中、この世で最大かつ最も遠くにあるもの、といった意識の広がり、概念。
 少年の価値観を大きく変えてしまった責任を、アントンはひしと感じた。

「ねえトニー」
 アントンは改まってアンソニーに向き合った。
 突拍子もないことだが、万が一、この少年が時空のゆらぎに巻き込まれた場合、違う時代でうまく立ち回れるよう、二、三忠告しておく必要があった。

「まずは状況を把握して、自分に都合の悪そうな発言はしないこと。記憶を失うフリか、場合によっては名前も変えたほうがいいこともあるからね」

 あとはどうしたらアウレリアを呼び戻せるか。

 昨日はフリューリング家の家族アルバムに魅了されるあまり、肝心の宮廷舞踏会の写真を調べ損なったではないか。
 アントンは例の写真店に、もう一度出向くことにする。そろそろ店も開く時間だろう。

「ぼく、ピアノ弾いてるから大丈夫」

 再びアンソニーを1人残して出かけるのは気が引けたし、外の空気も吸わせてやりたかったが、彼がそう言うのだから、いいだろう。この時代で収集した──らしい──アントンのたくさんの楽譜を遊び弾きするには、時間はいくらあっても足りなかろうし。


「やあ、またきたね」と、店主は撮り続けてきた写真の数々を誇らしげに披露してくれた。
 きっちり整理された、相当な数の貴重なコレクション。いつ、どこで、誰がどうした、と店主は各々の写真のエピソードを懐かしそうに説明してゆく。

 ハプスブルク皇帝一家の歴史までが見事に残されているではないか。美貌の后妃エリザベートも! 暗殺されてしまうのは翌年か? アントンは思い知らされた。ここは歴史が生きている時代なのだ。
 今この瞬間も、シュトラウスの息子やマーラー、クリムトだって存命なのだ。ここウィーンで! 会いに行こうか。
 例えばこの国を出て、フランスなんかに行けば、フォーレやサン=サーンス、ドビュッシーにラヴェルがいる! どこかでラフマニノフやスクリャービンのピアノ演奏を、生で聞けるチャンスだってあるかも知れない。

── いやいや、そうしたことはアウレリアを取り戻してからの話 ──。

 青年が大感激している様子に、すっかり気を良くした店主は、アウレリアの写っていそうな舞踏会の写真を探し出してくれた。加えて彼女の素敵なポートレートや個人的なスナップなども、何枚も。
 その中にふと、とまどうような視線の彼女が、アントンは気になった。何かを語っているような……。
 何らかの手がかりになるだろうか。アントンはそれらの写真も借り受けることにした。

「誰にも見せんで下さいよ」

 帰り際の青年に、店主が遠慮がちに釘を刺す。

「昨日のアルバムも……。うちの弟子が『門外不出の大切な資料なのに』と、気にしおってな」

 アントンは借りっ放しを詫び、早々に返却すると約束した。



 帰宅し、〈古き水車小屋〉のリズムを叩いても、ドアは開かれなかった。

 恐ろしい不安がよぎる。1人にしたのが間違いだったか。

 ほどなくして中から「誰?」と、少年の声が聞こえたので、アントンは心の底からほっとした。また大切な誰かを失うなんて、もはや耐えられない。

「本物のアントンかどうか、証拠を教えてくれなきゃ開けられない」

「きみの名曲だけじゃ、証拠にならない?」
 青年は声を低くして続けた。
「1990年生まれのアントン・ヴァイス。これでいい?」

 ドアは開けられ、アントンが入るや即座に閉められた。

「誰か来たの?」

 トニーは鍵穴の内側に、素早く鍵を差し込みながら答えた。
「写真屋さんが」

 ぎくり、とアントンは凍りついた。

「写真を届けに来ましたって」

 写真? 写真? ここの住所は知らせてないのに?

「『ドアの下の隙間から差し入れて下さい』って言ったんだけど、反応なし。黙って帰っちゃったみたい」

── うちの弟子が── 。

 写真店主のセリフがよみがえる。

── 気にしておってな ──。 

「なんで、ここが?」
 アントンは思考をフル回転させた。住所は伝えなかった。フリューリング夫妻が教えるはずもない。跡をつけられたとしたら昨日しかないが、充分用心していたし、あり得ない。
 アントンは机上のアルバムを見直してみた。
 アウレリアがミヒャエルと一緒に写っている幸せそうな写真が1枚もないという不自然な事実。おしまいのほうのぼくとの写真も皆無。写真屋の弟子が撮影の時点から、故意にミヒャエルやぼくを排除していたのだとしたら? おそらく恋敵として? とすると、

 アウレリアとぼくが付き合いだしたという頃から、この半年間で、奴がこちらの跡をつけるチャンスはいくらでもあったろう。

 むしろミヒャエルは囮にされたのか。行方不明というトニーの母親も、ミヒャエルを陥れる為に写真屋の弟子が何かしたのだろうか。
 ミヒャエルは妻の忘れ形見であるトニーを、実は守ろうとしていたのか。
 あるいはトニーの埋もれた記憶に、母親失踪の証拠が隠されている? そのことを写真屋は恐れていて、常にフリューリング家に出入りして様子を伺っていたか。
 借りてきたスナップの中には、アウレリアを隠し撮りしたかのようなものも混じっている。振り返り、こちらの心を見透かすかのような表情も。
 アウレリアは気づいていたのだろうか。そして彼女もまた、トニーを守ろうとしていた? だとしたら、

── トニーが危ない ──。

「ここを出ないと。今すぐに」
 アントンは少年の手を引いて玄関に急いだ。

 鍵に手をかけるや、振動の衝撃と共にドアが激しく鳴り、2人は飛びのいた。その大音響は、何か巨大な武器で確実にドアを破壊しうる音量だった。三度目の襲撃で、ズサッ! と内側に食い込んできたのは、鈍く光る斧の刃先だった。

 相手が斧では勝ち目はない。そしてこの屋根裏に逃げ場はなかった。

「アンソニー」
 アントンは決断を下し、恐怖で硬直している少年を部屋の中央、ピアノの前へと導いた。
「よく聞いて。ぼくが自分の意思でできたように、きみにもできるはずだから」

 アルバムの、ドナウ河畔のページを指し示す。
「行って過去を変えるんだ。きみがアウレリアに花を」
 何かが少し変わるだけで、一連の負の連鎖はなくなるという確信があった。

「一緒に。アントンも! 一緒に行けるでしょ?」

「きみがやるんだ。1人で」

 アントンは静かに、しかし有無を言わせぬ厳しさで命令した。
 こんなことができるのは、人生でたった一度か二度の奇跡。自分は既に二度、やってしまった。往年の写真集からアウレリアを呼び出した時と、観覧車からこの時代にやって来た時。
 時空の流れは、そうやすやすと生まれるものではない。我が身を犠牲にする覚悟でもない限り、この少年を助けられるとは思えなかった。

「行くんだ。絶対にできる」

「でも、アントンは!?」

「過去が変わればこの場も変わる。きみが変えてくれれば」
 あとどのくらい持ち堪えられるか。アントンは叫んだ。
「トニー、もう時間がない!」

 少年は覚悟を決めた。
 恐怖心を追い払い、写真のドナウの岸辺に意識を集中させる。ピアノに向かう時の尋常ならぬ集中力が役立った。
 すぐに周囲の空間がゆらぎ、彼は足場を失った。




⑤ 最終章へ……


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