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[漫画&ブログ] カワムラくん 第1話 ~カッパ夫婦くん~

この「カワムラくん」は「杉村くん」や「オッサンの気づき」の設定を色々変えてリメイクした漫画です。何の意味があるのかというと、私は全体的にエッセイ風の漫画が多いですが、そういう漫画ってあまり持ち込み向きじゃないんですよね。雑誌の漫画はストーリーものが基本なんです。なので出版社に原稿を持ち込んだり送る際も、基本はフィクション比率の高い「杉村くん」の原稿でした。そのため、漫画はたくさんあるのに持ち込みに使えるのは一部だけってもったいないな…とよく思っていて、じゃあエッセイ的な漫画は、それをベースにしつつフィクション多めの漫画に描きかえれば、持ち込み原稿として活用できるんじゃないかな~と思ったのです。杉村くんもオッサンの気づきも両方「みんなとは違う」人達をテーマする事が多くて、不良の友達や、心身を病んでしまった妻ちゃん、離婚してしまったおばあちゃん、そして長い間不眠症で苦しんでいる私自身など、結構響く人は多いですもんね。読んでもらえるチャンスを増やすのは良い事です。ちなみに以前にも同じ「カワムラくん」という名前で漫画を描いた事がありました。その時は担当編集者から、杉村くんは不良ものだからもう少しマイルドなもののほうが良いかもしれないという提案をもらったからでした。

日本は全体主義の国なので、「みんな」を意識しがちです。他者と比べて自分の優劣を判断するという事です。「自分が幸せだと思う」よりも、「他者と比べて自分は幸せか」を意識しやすいという事です。私はもともと他者と自分をあまり比べないタイプでした。というか、漫画にも何度か描いたように、あまりみんなの世界にはなじめなかったので比べる以前の問題だったんですよね。ですが、それでも大人になって社会と関わって働いているうちに、日本人のそういう他者と比較する性質に影響を受けてきました。歳をとってからの私ですら影響を受けたのですから、小さい頃から社会性があってみんなのグループにいた人、親が他者からの視線を気にするタイプでその影響を受けて来た人などは、もっと自身と他者を比べて苦しむ事が多いのではないでしょうか。

他者と自分を比べる事は、みんなと自分を同一視する事でもあります。みんな一緒でなくてはいけないという事です。例えば、私のフランス人の友達で、精神障害の年金で生活している人がいます。去年日本に遊びに来て、その時初めて会いました。そうなんです、障害者年金で日本に遊びに来たんです。これ、日本人だったらどうでしょうか?「みんなのように働けない」という罪悪感が強すぎて、身動きがとれなくなっている人が多数派だと思います。さらにみんなからの「お前は人生を楽しんじゃいけないんだ!」というプレッシャーすら感じる人も多いと思います。まさに他者と自分を同一視し、自分もみんなと一緒でないと罪悪感を持ってしまうという、日本の性質の一つですよね。

私はそういうみんなのグループにはいなかった人間なので、障害者年金だろうと生活保護だろうと、好きに遊んでていいと思うんです。彼らもなりたくてそうなってしまったわけではないですし、そういう人達が日常生活を送ったりエンジョイできるために、私たちは毎日税金を払っているわけですから。でも、そう思わない人も多いですよね。「俺らは毎日苦しんで仕事しているのに楽しやがって!むかつく!」と思う人が結構多いような気がします。日本人は自分が苦しい時、「お前も苦しめ」と思いがちだからです。これも他者と自分を比べ、同一視し、一緒でないと怒りがわくという国民性から出てきている思考パターンだと思います。

別の例では、日本以外の多くの国の人はこんなに苦しんで働きません。多くの国では夏休みだけで1カ月くらいあります。あと残業は基本無いですし、土日祝日は日本以上に本当にお休みです。なのでお店もあまりやっていません。日本は夏休みは1週間もとれない事が基本ですよね。というか、何日も休むと「働かなきゃ…」「みんなは働いているから取り残された感じがする…」と罪悪感を持つ人も多いです。これも他人と自分を比べて同一視するところから来ています。そして心身を壊します。私もそうなりました。もともとアウトサイダーの自由メンだったのに、社会に出て働いているうちに、他者比較の考え方に影響を受けてしまっていたのです。そのくらい社会の雰囲気って取り込まれやすく、自分を見失いやすいんです。それもあって、「オッサンの気づき」の最初のほうでは、「世の中のこういうのっておかしくない?」という漫画をメインに描いていました。それを描く事で自分を客観視して取り込まれないようにしたかったのです。

ただ私は運良く、「幸せ」については他者や社会の影響を受ける事はありませんでした。お金持ちになる事、有名になる事、フォロワーをたくさん手に入れる事、全部あまり興味がありません。私にとっての幸せは、愛する存在を良い感じの状態に持って行く事です。端的に言えば自分の中の父性を使う事です。たぶんそれの何が幸せなのかよくわからない人のほうが多いと思います。でも、「子供の父親として生きる事」と言い換えると、ちょっとわかるかもしれません(でもそれですら、子供なんて邪魔なだけだと思う人が増えてしまったのが現代なのですが)。私の場合、子供がいないので、かわりに妻ちゃんのお世話をして、彼女を良い感じの状態にする事が私の幸せです。彼女は心身を病んでしまっているので私より先に死んでしまうような気がするので、死ぬ時に「ああ〜なかなか楽しい人生だったなあ」と思ってもらう事を目指して日々色々する事がの幸せです。物理的に私は何も手に入らないのに幸せなのです。なんだそりゃと思うかもしれません。でもこれって生き物の基本だと思うんです。ペンギンは子供を育てるために寒い海に潜って魚を手に入れますよね。自分で手に入れた魚なんだから自分で食べたほうがいいような気がするのに、なぜか子供を良い感じの状態にしてあげる方を優先させるのです。人間でいえば、子供や妻のために何かをしてあげるより、例えば「近所に自慢したいからいい大学に入れ」とか、「はやく夕ご飯つくれ」とか「俺の介護をしろ」とか命令するほうが、自分に何か物理的に手に入るから理屈では幸せなような気がします。でもたぶんそれは、心理的に成熟できていないと「物理的に手に入る」を幸せと感じてしまい、成熟できていると「与える」を幸せと感じれるのだと思います。「与える」は野生では子供や近しい仲間にする行動で、それができないとその種は滅びてしまいますからね。

私は運よく、心理的に成熟できたような気がします。それは昔ながらの思考パターンで生きていた両親やおばあちゃんのおかげが大きかったです。彼らは「現代」よりも「過去」を基本に生きていました。具体的には私の育った80年代~90年代の考え方よりも、彼らの育ったもっと前の時代の考え方が基本になっていました。80、90年代の例えばお受験とか、金儲け主義とか、弱者をいじめるTVのお笑い番組とか、異性とエロい事をたくさんするほうがクールというような考え方は全く無かったです。私が若い頃は、親のそういう現代についてきていない感がつまらなかったです。世代間ギャップがありました。でも今思えばその方が、人間にとっての基本、大事な部分がクリアになっていた気がします。社会が発展していなかったぶん、お金儲けとかエロとかの惑わしノイズが少なかったんだと思います。この社会は、人がまあそれなりに生きるためのシステムはとっくの昔に出来上がっていて、その後の、例えば80年代以降に増した享楽的な文化は、生き物としてはノイズが増えただけだった気がするんです。猿に激うまバナナを与えるようなものです。本来は激うまじゃなくて普通のバナナで充分なのですが、激うまだから夢中になってしまう、しかも他人の激うまバナナのほうがうまいんじゃないかという気がして欲しくなってしまう、つまり他者と自分の比べるレベルが上がって、激うまバナナのことばかりにとらわれて手元の普通でもおいしいバナナの事を忘れてしまうような事です。それだと、本来の幸せが見えなくなってしまいますよね。おそらく、成熟する事ってすごい事でも立派な事でも無いんです。ただ単に、ノイズにまどわされないで、生き物としての原始的な概念をどれだけ持てているかというだけなのではないでしょうか。

私の場合、古い考えの親に加えて、激うまバナナを手に入れる技術もお金も持たない不良グループだったのも、運が良かったんだと思います。そもそも頭が悪いから色々な面で原始的になりますしね。激うまが手に入らないのだから、手元にある普通バナナで満足するしかないわけです。でもそれでいいんです。周りの友達も普通バナナなんですから、まあ俺たちはこんなもんだよね、でも激うまもちょっと欲しいな…と手に入らないけどちょっと憧れがあるくらいが、実は幸せなんだと思います。そういう世界は本当に楽でした。

逆に妻ちゃんは、多くの現代人がそうであるように、激うまバナナを手に入れなくてはいけないという環境で育ちました。物理的に豊かで、妻ちゃん自身も賢かったんです。そして心身を病んでしまいました。今回の漫画でいう、地上の側の人間だったんですよね。それを見てきたから、地上は地上で大変そうだな、そんなにいいもんじゃないなと、私は思うのです。ノイズの少ない、最低限で質素で、静かな地下で、IQを下げつつ二人できゅうりケーキなんて食べているほうがいいな、と思うのです。それは東大に入るとか、仕事で認められるとか、インスタで都会のおしゃれ感がある写真でマウントを取り合うとかよりもトータル的には幸せだと思っています。そういう意味では、私も現代よりも過去を基本に生きていた両親と同じなんだと思います。彼らが自分にしてくれたと同じように妻ちゃんに接する、それプラス自分が生きてきた環境でこれは良かったなと思えたものも取り入れて接する、そして良い感じの状態に持って行く(本来なら子供にですが)、それが生き物が何万年もずっと繰り返してきた連鎖なんだと思います。

この社会は、人がまあそれなりに生きるためのシステムはとっくの昔に出来上がっていた、それ以降はノイズだったんじゃないかと書きましたが、人が自身の考えを発表できて、それを多くの人に知ってもらえる場所が出来た事は、大きな良かったポイントだと思います。他人と比べてしまう社会という事は、その他人の考えが見えれば見えるほど、合う他人を見つけやすくなりますもんね。私の漫画も、そういうふうに合う人に見つけてもらえればいいなという気持ちもこめて描いています。そのチャンスを増やすために、エッセイ漫画をベースにカッパ漫画を描きました。しばらくはこれを描きためるつもりです。読んでもらうだけでなくて、いただいたコメントやDMで気づく事もとても多いです。それによりまた漫画に描きたい事が増えたり、日常生活の助けになる事があります。そういう良い関係を続けられるよう、今後も描いていきますね。

[おまけ]
愛する存在を良い感じの状態に持って行く事が私の幸せと書きましたが、私は人間が好きなので、あなたが私の漫画を読んで何か良い感じの状態になったら、それも私の幸せです。そう思えるのも、私の生育環境のおかげです。質素&不良&原始的という、現代の豊か&優秀&発展的とは真逆の概念が、私を救ってくれました。世の中の常識なんてあてになりませんね~😁

[おまけ2]
最初はカッパではなくてモグラのキャラで描こうとしていました。でもあんまりモグラに見えなかったので、人間型っぽいカッパにしたのです。地下に住んでいるという設定はその名残です。


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