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4分の1の奇跡

私の病気を、代わりに引き受けて生まれてくれた人が、もしいるとしたら。
小説でも詩でもなく、科学的に証明された、これは本当の話。

生産性という言葉は、何をどこから見た言葉だろうと、この本を思い出すたびに思う。厳密に言うと、この本に登場する何人かのことを想うたび、である。

「4分の1の奇跡(1/4の奇跡)」

この言葉から私は全然内容を想像できなかった。本だけでなく、ドキュメンタリー映画にもなっているので、機会があればたくさんの方に是非読み、見てほしい作品である。

社会で「働く」という形で同じように力を発揮しない人たちを、障がい者と呼ぶこの世界。

障がいのない人が強者で、ある人は弱者。
どう綺麗事を言っても、私たちがなんとなく心に持っている、他人が他人に当てる物差しの上で、生産性とかいう奴は同等ではない。

それを生きる価値と呼んで、命を奪う事件も起こった。今のような、切羽詰まった余裕のない世の中では尚更、そうなのかもしれない。
 
でも、その人たちが背負った病気や障がいが、本当は私たちや、私たちの子供たちが本当なら背負うはずのものだったら、どうだろうか。彼、彼女らが、それを引き受けてくれた存在だと知ったらどうだろう。

この本は、私の無知を平手で打った。


長い間マラリアに苦しませられてきたアフリカでは、一定の割合でマラリアにかかりにくい「強い遺伝子」を持つ人が生まれる。しかし、その「強い遺伝子」を持つ人の兄弟には必ず相反するように、重い障害を持つ人が現れる。

その確率が、4分の1。

人間が病気との生存競争に勝つためには、「強い遺伝子」だけでなく、重い障害を引き受ける4人に1人の「弱い遺伝子」が必要だった。

人類が生き延びるための進化の過程で必然的に生まれた人々だということである。

例に出ているのはマラリアという、日本ではあまり馴染みのない病気だ。けれど、どんな病気も障がいも、もっと言うならば性質も体質も、自然に生まれた以上、あるいは発現した以上、そこにはきっと理由がある。

人間の、無知で小さな物差しで、生産性だの生きる価値だの生まれた理由だのと測って名付けられるようなものではない、もっと大きな理由。意思のようなもの、と言ってもいいのかもしれない。

そして作中に織り込まれる、実在する養護学校の教諭と子供たちのふれあいや会話に心を揺さぶられる。

手足が動かなくなる病気を患った女の子が、「手や足が動かなくなったら、今まで動いてくれてありがとうと言うと決めている。」と言う。

知的な障がいをもつ男の子が、「ぼくが生まれたのには理由がある。」と言う。

彼らには何か、私たちとちがう世界が見えているんじゃないかなあと思った。何を見ているんだろう。どこか心の中にあった健常者と呼ぶ人間の方が優っているという根拠は、私の中でこのとき崩れたし、そんなものこの大きな世界の中でそもそもないと、手が空を切った。
人の助けが必要かどうかには差があっても、存在としての優劣なんて、決めた、つもりになっている、だけだった。

この世界で生きていくうえで、どうしても私たちは自分たちの物差しを持ってしまうし、持たざるを得ない。それは生きていかなければいけないからだ。悪いことではない。

でも、自分が何かを「知っている」かどうかで、その当て方は優しくできると信じている。

私が、自分をつくってくれたと思う作品のひとつである。

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