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「上手くなりたい!」『セロ弾きのゴーシュ』(1982)と『響け!ユーフォニアム』(2015)

 以下の文章は、2016年に発行された同人誌『ビンダー4号』「特集:高畑勲」に寄稿したものの編集前の元原稿である。

 高畑勲特集号の中で、個別の作品解説を書く項があり、私は『セロ弾きのゴーシュ』を担当した。その際に、当時放映されていた『響け!ユーフォニアム』の第一期とのシンクロについて書いてみた。30年の時を経て、「音楽についてのアニメ」のいわば「継承」について書いてみた、ともいえるかもしれない。昨今の、楽器演奏や音楽が主題として取り入れられたアニメの隆盛を思うとなんだか感慨深い。
 『ビンダー4号』「特集:高畑勲」は売り切れてしまっていることもあり、note に今一度投稿してみたい。編集前の元原稿なので、若干掲載されたものと内容や表現に異動がある。
 数年経って読み返してみると、今現在放映されている『ユーフォ』の第三期の内容ともリンクして、このアニメの一貫した物語としての完成度を感じさせる。というか、三期いいですよね。がんばれ!黄前ちゃん!


(以下、本文です。)

 『セロ弾きのゴーシュ』は言わずと知れた宮沢賢治の童話であり、アニメーション版『セロ弾きのゴーシュ』(以下『ゴーシュ』)はその原作を元に制作された、オープロダクション(以下、オープロ)による自主制作作品である。オープロは1970年に設立され、その当初は同作監督の高畑勲も所属していたAプロダクションや東映動画、後に「世界名作劇場」(日本アニメーション)関連の仕事を手掛けもした。高畑監督はオープロから同作の演出を依頼され、『アルプスの少女ハイジ』制作後の仕事仕事の合間を縫いながらのその制作には5年間を要し、ようやく完成した。
 同作は高畑演出・監督作品としては他の作品に較べて知名度がやや低いかもしれないが、オープロ設立メンバーである小松原一男(『風の谷のナウシカ』作画監督)が企画し、キャラクターデザイン・レイアウト・原画をほぼ全て才田俊次(『火垂るの墓』原画)が担当し、作画には友永和秀(『平成狸合戦ぽんぽこ』作画監督)や高坂希太郎(『風立ちぬ』作画監督)などの後のスタジオジブリ作品にも大きく関わる今では大御所とも言えるメンバーが参加し、日本の動画映画・アニメーション界の先駆者として名高い大藤信朗の名を冠とした「大藤信朗賞」(1981年度)を受賞している。

 『ゴーシュ』のストーリーを大まかに説明すると、町のアマチュア楽団員であるセロ弾きのゴーシュが、楽団の中で上手く楽器が弾けずに、楽長からも団員からも冷たい目で見られ、悩み、落ち込みながらも、家で練習している際に、三毛猫、かっこう、狸の子、野鼠の親子、の動物達が順番に訪れ、彼等と対話・コミュニケーションを交わしていくうちに、演奏が知らず知らずに上手くなり、最終的な演奏会の独奏で楽長や団員のみならず聴衆にも認められる、というものである。
 作中に描かれる、奏でられる音楽は、原作の童話では「第六交響曲」と名づけられている。『ゴーシュ』では宮沢賢治がベートーヴェンを好んで聴いていたという事実から「交響曲第六番」通称「田園」が全編に渡り用いられている。「田園」では、第一楽章「田舎に到着した時の愉快な感情の目覚め」、第二楽章「小川のほとりの情景」、第三楽章「田舎の人々の楽しい集い」、第四楽章「雷雨、嵐」、第五楽章「牧歌 嵐の後の喜ばしい感謝の気持ち」と楽章がそれぞれ名づけられている。賢治が原作を書く際に骨格の一部としてこの楽曲の題名を含めたイメージを用いたことは疑いえない。高畑監督がアニメーションに翻案する際にも「田園」という楽曲のテーマが作用したことも間違いない。原作ではゴーシュの住む家は「家といってもそれは町はずれの川ばたにあるこわれた水車小屋」とあり、その周辺はアニメーションでは明らかに田舎の光景としてあらわされている。ゴーシュは水車小屋に住みながらトマトやキャベツ等の野菜を自分で育てながら生活している青年(原作では年齢不明)として造形されている。町と自然の中間地帯にある田舎の水車小屋に住むゴーシュの元に動物たちが訪れる、という物語が音楽作品である「田園」から導き出されている。それが、画面や音に作用しているのが『ゴーシュ』である。
 タイトルに「セロ弾きの」と付けられているところから、ゴーシュが演奏家であり、『ゴーシュ』は音楽がモチーフとなっていることがそもそもからうかがえる。ベートーヴェンの「田園」=「第六交響曲」をアニメーションの作中に上手く用いていくこと、そしてそれを演奏するゴーシュの作画を表現すること、が『ゴーシュ』では試される。全原画担当の才田によるセロ=チェロの弾き方の研究や、名うての作画マンによる動画制作によるアニメーションであらわされる、チェロ、及び楽団の音楽の演奏風景は高水準に達している。原作でゴーシュは、纏わり付く猫に苛立ち「印度の虎狩」という架空の曲を弾くが、『ゴーシュ』では音楽担当の間宮芳生によって作曲された同曲が作中に使われる。その曲は最後の演奏会のクライマックスにも使われ、ゴーシュによるダイナミックなチェロの演奏シーンとして活写されている。楽団による演奏風景や動物達の振る舞いを含めて、西洋音楽にも造形が深い高畑監督によって、音楽・演奏とアニメーション作画の高度な融合が『ゴーシェ』では試されている……。
 
 「上手くなりたい!上手くなりたい!上手くなりたーい!」 
 このセリフは「田園」の演奏に悩むゴーシュが発したものではなく、2015年に放送されたTVアニメ『響け!ユーフォニアム』(京都アニメーション制作、以下『ユーフォ』)で主要登場人物である黄前久美子が、所属する部活動である吹奏楽部において、自らがユーフォニアムを上手く演奏できないことに苛立ち、京都の宇治橋の上で発するセリフである。音楽・楽器の演奏において一般的に「上手くなりたい」や「上手くなる」とはどういうことだろうか? まず言えることは、楽器を楽曲の通りに演奏できるようになる、ということである。よく知られたクラシック音楽や吹奏楽と呼ばれる西洋発祥における音楽では楽譜があり、記譜された音符の連なりや指示の通りに、楽器を用いて音色を奏でることがまずは求められる。基本的に楽譜を齟齬無く演奏できることが「上手くなる」の一つだろう。次に考えられることは、楽曲を、他の演奏者がいる場合は、その演奏者とのアンサンブルとして、上手く演じる、ということである。オーケストレーションにおいてはそれは重要な要素である。一人だけ楽譜通りであってもテンポに対して遅れていたり、個性的すぎる悪目立ちした演奏をしていれば、楽長・指揮者に「下手」と咎められるかもしれない。アンサンブルを考慮し演奏をすることが、「上手くなる」ことだろう。第三に考えられることは、聴衆に「下手だ」とは思わせない・感じさせない何らかの感動や情動を与える演奏をすることである。例えテンポが先走ったり遅れたり、音程がズレたり、アンサンブルの中で他の演奏者を差し置いてその演奏が目立ち過ぎて居ても、聴衆の多くが「それでよし」と感じる演奏をした時に「上手い」と見なされるかもしれない。ゴーシュや久美子の楽器の演奏に対するありあまるとも言うべきフラストレーションと欲望はこのあたりの「上手い」要素と自らの演奏に対する齟齬が悩みに転嫁したものであろう。その叫びが「上手くなりたい!」という久美子の言葉・セリフとしてあらわされている、ともとれる。
 ここまで、楽器や音楽の「上手さとは」について大まかに語ってみたが、果たして、上記したこれらは音楽全般そのものについて語っていることなのであろうか? 音楽を聴取することや演奏することには、このように素朴に「上手さ」がただ問われているわけではない。例えば、そこにある石ころをコロンと地面に転がした時に起きる音響も音楽である、と頑然としていうケースもあるだろう。その場合、ゴーシュや久美子の演奏も只々音楽である、といえるし、そこに「上手さ」や「下手さ」を認めても仕方が無い。彼等はノイズ音楽やアンビエントや実験音楽を演奏しているわけではないからそんなことは関係ない、といわれるかもしれない。しかし、迂遠しながら何故こんな問いを立てているのか? 矢継ぎ早にいってしまえば、画面の中でゴーシュや久美子は音楽の演奏に付随して現れる別の何かに先ずは悩んでいる、とも観えるからである。

 高畑監督は『ゴーシュ』の映画版パンフレット(「セロ弾きのゴーシュ」パンフレット」1981年10月21日)所収の「青春映画としての「セロ弾きのゴーシュ」」と題した文章の中で、ゴーシュを「若すぎるくらいの青年」に設定した理由を、

「下手なセロ弾きの中に、内気で劣等感が強く、それでいて自尊心を傷つけられることには敏感だった自分たち自身の青春時代の思い出や対人関係に極度に臆病なあまり、無愛想で無表情にみえるまわりの青年たちの似姿を見出したのです。」

「私たちは「セロ弾きのゴーシュ」をただ芸術家に固有の物語と考えたり、そこで語られているテーマを芸術論だけに限定するのは間違いだと思います」

とし、

「ゴーシュをいくらかでも孤独から、対人恐怖症から救い出したい、ゴーシュを人の間に入っていってほしい(...)音楽こそは人と人の心をつなぐ最大の武器なのだから(...)こういう思いで私たちの映画のラストシーンを構成したのでした」

と述べている。ここでは、宮沢賢治の原作からどういったエッセンスを汲み出してアニメーションが作られたかが述べられている。
 原作ではまず冒頭で「ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。けれどもあんまり上手でないという評判でした。上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。」と語られる。「いじめ」という言葉が出て来ることからわかる通り、楽団の中でのゴーシュの居心地はよいものではないことがうかがえる。このあたりからゴーシュの人間関係やコミュニケーションの半ば不全状態の萌芽が見出せそうであり、高畑監督が述べる通り、アニメーション版はその悩みを克服すべくゴーシュが成長する「主観的な青春映画」と位置づけられる。宮沢賢治は『セロ弾きのゴーシュ』冒頭でゴーシュが「いちばん下手」と書き記しているが、その彼の成長に必要なのが言わば音楽や楽器の「上手さ」なのである。一方、『ユーフォ』12話「わたしのユーフォニアム」で久美子が「上手くなりたい!」と叫ぶのは、トランペット奏者の麗奈のように他の奏者から卓越した「特別な」演奏をしたいという理由がまずあるが、それ以前に楽団の中で技術的な未熟さからパートの一部分を外されてしまったことが大きく作用している。久美子は特別な「上手い」奏者どころか、補欠を含む楽団員の中からその時「下手」と言う理由でただ一人疎外されている。
 ここでの「上手さ」とは極論すれば、楽器や音楽の純粋な技術を問うことだけではない。久美子が「上手くなりたい」と言う時、ゴーシュが「下手」から抜け出ようと自室で練習する時、それは周囲(他のプレイヤー)からの疎外感を克服する、という意味を帯びている。このことは、共同・恊働で何かしらの作業を行なう時に「下手さ」が軋轢や疎外を生むということを暗示している。「下手さ」は現実的には他のプレイヤーや統治者(や聴取者)とのコミュニケーションの円滑さや政治的な配慮や取引、心理的な駆け引きによって克服できる時も多々あるが、彼等はそう「上手く」振る舞うことも出来ない。楽器や音楽の上達こそが彼等がそこから脱出する手段なのである。
 このような、恊働や共同における個人の「上手さ」や「下手さ」という問いは、「主観的」かつ「普遍的」であると同時に、恐らく『ゴーシュ』や『ユーフォ』ではアニメーションを制作することの課題として重ねられて表現されている。アニメーションをスタジオレベルで商業作品としての制作するには、各種のスタッフの恊働・共同で行なわれるという場合が基本的である。監督や演出家やプロデューサーはその恊働・共同を運営・統御することで、一つの作品が出来上がる。高畑監督の特集の本の中の作品レビューでこのような言い方をするのは矛盾しているかもしれないが、一つの作品をそれを制作したスタッフのレベルで考察するには、監督や演出家の振る舞いのみによって評価・批評するのはそもそも舌足らず・片手落ちであって、総合的な恊働や共同に関わる次元迄手を広げて、作品を観ていく必要があるのかもしれない。2014年から2015年にかけて放送されたアニメ『SHIROBAKO』では制作進行という職種に焦点を絞ることによって、そこから垣間見える各種スタッフの振る舞いを表現することによって、「アニメ制作」によって「アニメを作ること」について言及していたが、高畑監督はこの恊働・共同という問いを、『ゴーシュ』の原作から引き出す。楽団における楽長や指揮者を首に据えるのではなく、その一員に的を絞ることで、集団制作や恊働における個人の振る舞いや心理を通して集団(アニメーション制作)における「上手さ」について考察・示唆する。このような高畑監督の恊働・共同に対しての自己言及的振る舞いは、東映時代の労働運動や『太陽の王子 ホルスの大冒険』や『火垂るの墓』での清太の行動、『おもひでぽろぽろ』や『平成狸合戦ぽんぽこ』などの作品や、監督自身の政治的な活動まで、細かくみていけば指摘できる(演出家や政治的な主体としての)問いかけであろう。
 
 ゴーシュは楽器や音楽の「下手さ」を、孤独の部屋の中で動物達とコミュニケーションを交わすことによって克服し、共同・恊働の「上手さ」を知らず知らずに身に付けた。しかし、彼は最終的に演奏会のアンコールにおいて、孤独の部屋において三毛猫を退散させるために弾いた「印度の虎狩」を独奏することによって、音楽家として今まで築いた全てを破壊する行為をなしえようとする。しかし、その自棄ともいえる独奏は、逆に聴取者や楽長や団員達を感動させ納得させる演奏として受容されてしまう。ゴーシュはこの地点において、ただ恊働・共同のための演奏を越え出た楽器や音楽の「上手さ」を身に付けたのかもしれない。一方『ユーフォ』一期最終回において久美子は、予選突破に貢献するという恊働・共同演奏の「上手さ」は身に付けたが、今後、「印度の虎狩」を一心不乱に弾いたゴーシュや彼女が憧れる麗奈のような「上手さ」が身につくのかどうかはまだ判らない。高畑監督が「主観的な青春映画」と述べる問いを更に越えた「上手さ」を、作品そのものが更に身に付けた時こそが、青春(商業アニメ)映画が主観と普遍を持ちながらも、それを越えた出た客観的に突出したものとしても同時に扱われる契機となるだろう。それは又、ゴーシュや久美子や麗奈のような楽団の一員が、一人一人集まって出来上がったもの、でもある。
 
 本作は高畑監督が『アルプスの少女ハイジ』や世界名作劇場の演出から、スタジオジブリでの数々の監督作に移行する時期の作品である。宮沢賢治の原作の持つ、どこか童話でありながらも芸術性を感じさせる作品性をアニメーション表現にいかにして落とし込むか、そして、商業作品とそのような要素を如何に融合させていくのかを、実験的に試した作品でもある。同時に、上記のような恊働・共同というモチーフを表わす演出方法の他にも、自然(田園)回帰、高度な音楽の演出設計、等の高畑監督作品にそれ以前もそれ以後も観られる数々の要素が、過渡の最中に、ものの見事に凝縮・結晶化した中編作品と言えるだろう。

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