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岩倉博『吉野源三郎の生涯 平和の意志 編集の力』 (2022、花伝社)を読む

吉野源三郎と言えば児童小説『君たちはどう生きるか』の作者であり、その作品が宮﨑駿監督作の映画の発想の元になったことでその名も改めて周知されることになった。改めて、とあえて記述したのには意味がある。本書を読むと第二次世界大戦後の日本社会において、吉野がいわゆる進歩的知識人・言論人・編集者・作家として歩んだ生涯の足跡の大きさ、もっと言えば偉大さを感じる。しかし、私自身は宮﨑監督作を観るまでは、これまで特に吉野自身に注目したことはなかった。不勉強ではあるが、1981年にその生涯を閉じた後に、メディアや評論・批評などを通してその名を意識的に聞くことも殆どなかった。そして、それは映画の上映後の今現在も何も変わらない。令和にかけて、ネットを通じて左右の思想がタイムラインに入り乱れる中で、その名は教科書的には知られてはいるが忘れられつつある、が本書を読む迄の偽らざる実感であった。

1899年(明治三十二年)に現新宿区小川町で生まれた吉野は、高等師範学校付属小学校〜付属中に通う。その頃から、公園で物売りをする子どもを見て世の中の「貧富の差」について思考するような多感な少年であった。幼少の頃からの読書好きで、十代の頃から聖書に興味を持ち内村鑑三やトルストイを読むような青年時代を過ごす。一高入学当初に肋膜炎を患い一年間療養するなど体が強い方ではなかった。
一高時代には自然主義文学ではなく武者小路実篤や志賀直哉などの「白樺派」を好んで読む。また、内村鑑三の講演を直接に聴く機会があり、「君たちはどういう生涯を送ろうと思っているのか」と問われた経験がのちの著作にも繋がっていく契機となり、ドフトエフスキーやストリンドベリーに傾倒するようになる。大正デモクラシーや国内外の激動の中で、ストリンドベリーの座右の書が旧約聖書『ヨブ記』であることを知り、ヨブの「絶対的な権威に向かって面をあげ、嵐のような抗議を続ける」(p.18)姿に圧倒される。続けて河合肇、クロポトキン、レーニンを英書で読み労働運動・無産者解放運動・社会主義に共感を抱くようになる。
一高から帝大に進んだ学生時代、経済学部に入学した吉野であったが「入学してまもなく、社会科学や社会問題を研究するにしても、やはり哲学的な基礎を固めることが必要だと思い直して、とりあえず文学部哲学科に移」(p.22)り哲学徒として仲間たちと歩みを共にする。西洋の哲学書の翻訳や読書会を開くなど、精力的に活動し始める。

幼少期から青年期までの早熟とも言えるだろう時期に、のちの人生を方向づけるような重要なキーワードが幾つも出てくる。端的にまとめると「貧富の差」「旧約聖書『ヨブ記』」「社会主義思想」である。後にマルクス主義に接近し、治安維持法により三度検挙されることになる吉野はその著作『君たちはどう生きるか』の中でクラスメイトとの交流の中で気付く「貧富の差」(児童労働、社会的不平等)という事象について悩み想いを馳せる主人公を登場させている。
この著作自体は、山本有三の誘いによって編集主幹となった「日本少国民文庫」(新潮社)のシリーズの一巻として1937年に刊行されたものである(当初は山本有三名義)。吉野はその時に三十代後半であったが、幼少期に抱いた思いを物語の形式を用いて少年・少女向けの読本として刊行したことになる。
「日本少国民文庫」は山本有三の「偏狭な国粋主義や軍国主義の風潮が強まり(中略)反軍事的だと干渉を受けて小説執筆さえ窮屈になる中、子どもたちもまたムッソリーニやヒトラーを偉大な英雄と信じ込んでいた」(p.59)時代に、「せめて子どもたちをそうした時勢の悪い影響から守りたい、大人には手を打てなくとも次代を担う子どもたちには期待が持てる、(中略)自由で豊かな文化があることを伝えておきたい」(p.59-60)という強い思いから「少年少女のための文庫発刊、その仕事を吉野にやってもらおう」(p.60)と発刊された。
山本は吉野の他にも、文藝春秋を辞めたばかりで後に『ノンちゃん雲に乗る』(1942)を執筆し、戦後代表的な児童文学作家となる石井桃子にも声をかけている。『君たち』は刊行後、少年少女向けの本としてだけでなく丸山眞男等の知識人にも支持され、また長い年月読まれる不朽のベストセラーとなった。
吉野は世界大戦へ至る気配の中で来るべき大戦の最中に「どう生きるべきか」を山本の意志を継ぎながら、自らが少年期や青年期に培った思いや思想をそこに描き込み発刊したと言えるだろう。事実、1937年5月の刊行後の7月には盧溝橋事件が起こり全面的に拡大した日中戦争が勃発する。

吉野は学生時代からの哲学探究の思いと同時に「日本少国民文庫」の主幹編集人の経験を皮切りに、編集者としての道も歩み始める。明治大学で論理学と思想史の教鞭をとる傍ら、岩波書店の岩波茂雄に声をかけられ講師兼任の店員となる。彼は丸善で見た英国のペリカン・ブックスを参考に「岩波新書」刊行の企画を立て、編集者として実現させる。戦時下の出版統制や紙不足、空襲などの労苦に耐えながらも、戦争終結後の1945年には総合雑誌『世界』を刊行する。
戦後の吉野の歩みは本書のタイトルにも「平和の意志 編集の力」とあるように、編集者、ジャーナリスト、作家、労組運動家、反戦・人権・反原水爆等の運動や活動等に取り組み、圧倒的な知性と活動力で進歩的知識人の代表として邁進した生涯だった。

宮﨑版『君どう』は吉野版の原作の影響は少ないと上映当初から言説として出回っていたが、それは以上の吉野の著作の内実を鑑みれば指摘するまでもなく間違いだろう。
また、吉野の戦前から戦後の歩みを、戦中に少年期を過ごした宮﨑は戦後も並走しながら影響を受け続けていたのは確かだろうし、見方によれば高畑勲以上の心の師なのでは? と思ったりしてしまうけれど(「日本少国民文庫」の刊行とスタジオジブリの設立、宮﨑と岩波書店の関係云々…)そのあたりの詳細な研究はまたの機会にしたいと思います。
1981年に生涯を閉じた吉野の意志を宮﨑が少なからず継いでいることだけは、2023年に『君たちはどう生きるか』の完成で世に知れ渡っただろう。そしてそれは作品を通して“少年少女に“伝わるに違いない。
吉野源三郎という人間を改めて知る上で、本書は吉野自身の記述や関連資料から活動や仕事の細部までを一冊にまとめ上げた良書であった。

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