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錘としての疾しさ--岡真理『ガザに地下鉄が走る日』

二〇一五年一一月一五日、昼前の、ぶあつい雲と雲のあいだからのぞく透きとおった青空と、ぬかるみ、ひとの足跡やものを引きずった跡で一部ぐちゃぐちゃになった地面の対照は、忘れられないシークエンスとなって私の頭の中に居座っている。仮設の観客席の指定された席に腰掛けた私は、雨天中止ではなく決行が主催者によって判断された千川の小学校のその運動場に、演劇を観に来ていた。劇の舞台となる運動場には学校の教室で使う椅子がいくつか間隔をあけずに横に規則正しく並べられており、並んだ椅子からすこし距離をとって同じ種類の椅子が倒され、その傍には劇で使用されるはずの小道具が雑然と置かれていた。一見して不自然とは感じられない配置は、しかし、確信をもって設計されたインスタレーションのような心地よさと不穏さを同居させていて、ある不思議さで小雨のなか集まった観客たちを観劇の前からすでに惹きつけていたように思う。席があることで舞台と観客の境界はいちおう保たれていたけれど、運動場という場所性ゆえ、そこに明確な境界線は引かれていなかった。始まった演劇には、いつの間にか始まっていた、という感触があった。

現代美術家で演出家・劇作家の飴屋法水がいわき総合高校の高校生たちと一緒につくって上演した『ブルーシート』を、あの日、私は千川の小学校の運動場で観た。その概略と感想をいまここであらためて繰り返そうとは思わない。ただ、二〇一一年三月一一日の地震で被災したいわきの高校生たちの体験を直接扱うこの作品の中で、あのとき、かつて高校生だった彼/女たちが発していたちぎられたような言葉と運動は、見慣れた景色が、普段の言葉が、手に馴染んだ道具が、それ以前と同じようにはあってくれないこと、それどころか「私」自身を、近しいひとたちを激しく傷つけ、なくしてしまうものでもありうること、それでもいつ姿を変えるかわからないそれをもう一度手にとることでしかじぶんたちの生は続けられないということを、奇蹟のような説得力とともに伝えてきた。いや、本当はこう言うべきだろう。私はそれまで、未曾有の意味を、それが何かを考えていなかったのだ、と。「おーい! おーい! お前は人間か?」というラストの呼びかけに、正直に言えば私は戸惑った。

「お前は人間か?」という呼びかけは、劇の外側にまで滲み出し、こちら側の、大げさに言えば、私自身が存在している根拠らしきものを揺さぶった。率直に応えよう。私はたしかに「人間」だ。だがこう応えてみて、すぐに頭が擡げる。なぜなら、十年が過ぎ、あの揺れが冷たい雨や雪でぬかるんだ地面だけでなく、この社会のあちこちにいまも生じさせているひずみを驚くほどの速度で忘れていくのも「人間」のしわざだからである。それに、私が「人間」だとするなら、「お前は人間か?」とこちらに向かって発したひとは、どこにいってしまったのか。私がこの世界で見て、いつの間にか忘れていたひとは「人間」ではなかったのか。「お前」と「人間」の意味は宙吊りにされ、戸惑いは疾しさへと姿を変えていく。

岡真理『ガザに地下鉄が走る日』は、じぶんの人生を変えてしまった場所との不意打ちの出会いと、その後、四十年近く断続的に続いていくその場所での経験が、微かな疾しさの痕跡を留めながら自伝的に語られていく。著者がガザをはじめて訪れたのは、一九八六年四月のエジプト留学中のこと。その日の朝の「九時ごろ」、カイロからバスに乗った著者はシナイ半島の白い砂漠を眺めがら微睡んでいた。目を覚ましたのは正午過ぎ、バスが国境で停まったときのことだ。エジプト側で出国印を貰い、パレスチナ側で入国印を貰った。「国境を管理しているのはイスラエル兵だ」った。著者を乗せたバスは走り出した。すると、「『オズの魔法使い』のように、モノクロの世界が突然、フルカラーになった。道の両側にオレンジの果樹園が広がっている。白の紗幕に何時間も晒された乾いた目に、生い茂った緑とみずみずしいオレンジが眩しかった。/それはガザのオレンジ畑だった」。美しい文章で綴られる本書の残す印象は、重たい。戸惑いや疾しさの感触が、言葉の中に錘となって沈んでいる。

プリーモ・レーヴィが「これが人間か」と呻いたナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺の惨劇から間もない一九四八年五月一四日、イスラエルが建国され、翌、一五日には多くのパレスチナ人が難民となり離散、もしくは、イスラエル占領下に置かれることとなった。パレスチナ人に「ナクバ(大破局)」と記憶されているこの日は、今日まで七十年以上続くイスラエルによるパレスチナ人への「斬進的ジェノサイド」、別の言い方をすれば、「パレスチナに移植されたユダヤ人問題」の始まりでもある。以下、本書に倣ってナクバ以降のパレスチナ問題における主だった出来事を、粗雑の誹りを免れえないことを承知した上で挙げるなら、一九六四年五月二八日の「パレスチナ解放機構(PLO)創設」、一九六七年六月五日の「ナクサ(大いなる挫折)」(第二次中東戦争開始の日。ガザ地区と東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はイスラエル占領下に置かれた)、一九八七年一二月九日に始まる「第一次インティファーダ」(パレスチナ人の一斉蜂起)、一九九三年の「オスロ合意」と、「大嘘」としての「和平プロセス」、二〇〇〇年九月二八日に始まる「第二次インティファーダ」、そして、二〇〇七年から二〇二一年のいまこのときも続いている「ガザ地区完全封鎖」となる。

二〇一四年三月、不意打ちの出会いからおよそ三十年後のガザの街は、あの日、留学生だった著者の目に眩しく映ったオレンジではなく、真っ赤な苺であふれていた。「日本のデパートで売っているような大粒の、それはそれは甘い苺」は、もしEUの市場に出回っていれば上等品として扱われているにちがいない。だが、ガザの春を美しい赤で染める苺がガザの外へ送り出される見込みはいまのところない。「入植地のプランテーションで栽培される農作物」と競合させないために西岸への出荷は禁じられており、ヨーロッパに輸出するにはイスラエルの仲介業者を介する必要があるからだ。仲介料を上乗せした価格では売れるものも売れなくなる。一見すると些細にも感じられるこの事実は、ガザ自治区が度重なる空爆に対して停戦だけではなく封鎖の解除を求める理由とも密接に関係している。じぶんで栽培した農作物の価格すらじぶんでは決められない。経済に関わるあらゆる決定を下す権利は占領者に簒奪されたままだ。封鎖解除なき停戦によって戦争前の状態に戻ることは、「生きながら死ぬ状態に戻れというのに等しい」。自立の芽はあらかじめ摘み取られているのだ。

状況は加速度的に悪化していく。著者の三十年ぶりの訪問から四年後の二〇一八年のガザでは、一日に使用できる電気は四時間に制限され、電力不足で下水処理場は機能停止に陥り、かつてガザ市民を癒した「碧い海」は汚染されて「行ってはいけない場所」となり、多くの若者たちが「灯油をかぶって、自らの身体に火を放」ち、イスラーム社会では禁忌である自殺を犯すという決断を下していた。「十年以上にわたる封鎖は、難民から、彼らに最後に残された人間性をも剥奪することによって、彼らを真のノーマン、人間ならざる者にしようとしてい」た。そして封鎖から十五年目の今年は、狂気そのものとなった空爆で二〇〇を超える命が奪われた。

ノーマンズランド。岡真理はその場所を、「『人間と市民の同一性、生まれと国籍との同一性を破断する』難民という死者ならざる死者たちが住まう空間」、あるいは、「この世界そのものの外部」であると定義する。そこはガザだけにかぎらない。イラク・ヨルダン間の国境の緩衝地帯に設けられたキャンプ・カメーラ、市民権の与えられないレバノン、レバノン内戦下で二〇〇〇名以上が虐殺されたサブラーとシャティーナの難民キャンプ、人種隔離壁によって分断されたヨルダン川西岸地区。一九四八年のナクバ以来、無数のノーマンズランドで、無数のノーマンたちが生きてきた。いつかどこかで聞いたことがある。見たことがある。遠い話のように感じた記憶がある。しかし、本当に遠かったのだろうか。たぶん、ちがう。僅か十年前に双葉や浪江の地名を脳髄に刻み、さらには在日コリアンを「この世界そのものの外部」に留め置きながら禍々しい暴力を行使してきた歴史を思い返せば、これを遠い話に変えない技法を考え、じぶんの手で握ることもできるはずなのだ。では、どうやって?

二〇〇二年四月、外出禁止令が敷かれたベツレヘムの、イスラエル軍に占拠されたスターホテルのロビーで、アウニーたちがなぜ、あんなにも引きも切らず冗談を言っては笑い転げていたのか、今ならよく分かるような気がする。生を破壊する暴力、パレスチナ人の人間性を否定する暴力のただなかで、二人の青年たちは、生を愛し、今、この瞬間の生を精一杯、享受するという根源的な抵抗を遂行していたのだ。それはまた、ロビーの奥にたむろしている同年代のイスラエル占領軍の若者たちに対する抵抗のメッセージでもあっただろう。僕たちは何があろうと、生を愛し、人間であり続ける、お前たちに僕たちの魂を破壊することはできない、というメッセージだ。

岡真理『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房、2018)227頁

ときに大阪の路上で声を上げ、ときに伏見のウトロを訪ね、何度となくガザの、ヨルダン川西岸の、レバノンの現地にまで足を運び、じぶんがノーマンではないことを強烈に意識せざるをえない場所の光景に言葉を失いながら、それでも書きつけた言葉には、どうしたって戸惑いや疾しさが痕跡として残る。だがそれは、極限の場所で、爆風によってすら消しようがないぎりぎりのあかるさを見いだす著者の目をその地に据え置く錘でもあるだろう。『ガザに地下鉄が走る日』に並んだ美しくて重たい言葉の、その襞の奥のほうには、なにかとても大切なものにふれるときのようなやわらかな手の感触がじんわりした温もりとなってたしかに保存されている。その稀な手つきは、著者が専門としてきたアラブの文学の、そう、たとえば、遺体となった死者たちを愛を込めて描写したジュネの『シャティーラの四時間』から、空爆の悲惨な現実をSNS上でレポートするガザの若者たちの「緊急のエクリチュール」から、そして、ナクバから十数年後にノーマンたちの声なき声を痛切なかたちで表象させたカナファーニーの「太陽の男たち」から、すなわち、「死者ならざる死者」として生きるとはどういうことなのかをその内側からしかるべき技法によってこちらに伝えて寄越した表現者たちから、著者が学びとったエートスにほかならない。戸惑いや疾しさを自らの内側に抱えこみ、「通り過ぎない人々」をきちんとその目に留めること。目に留めたものを言葉として書き残すこと。しかし、その前にしなくてはいけないこともあるはずだ。カナファーニーが書きつけ、岡真理が聞き続けたノーマンたちの声をじぶんの耳で聞き取るために。それは、じぶんに問いかけることなのかもしれない−−「なぜだ。なぜだ。なぜだ」、と。


岡真理『ガザに地下鉄が走る日』(みすず書房、2018)
ガッサーン・カナファーニー『ハイファに戻って/太陽の男たち』(河出書房新社、2017)
飴屋法水『ブルーシート』(白水社、2014)

初出:「本と明け方 第2回」(『りんご通信 2』、赤々舎、2022年1月)


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