川崎祐
地方の小都市の、駅からも市街地からも離れた場所には宙ぶらりんの空き地がいくつも転がっている。それはかつて賑わった商店の跡地なのかもしれない。ごくふつうの一軒家だったのかもしれない。血の繫がらない男女が暮らし、重なり、子を作る。その子は育ち、家を出る。若かった男女は老い、逝き、家の中は無人となる。かつての子どもは生まれ育った家を壊し、土地が売れるのを待つ。無為な空き地が無為な想像を刺激する。それは退屈で、いかにも凡庸だ。しかし、凡庸な物語の細部を想起することは、必ずしも容易なこ
昼間学部と夜間学部をあわせて千を超す新入生と新歓の呼び込みをする「先輩」たちでごったがえした二〇〇五年四月の文学部キャンパスで、きっとわたしは冷静さを失っていたにちがいない。大教室でおこなわれる講義にくわえて選んだ少人数制の必須選択の授業は、現代アメリカ小説を翻訳で読むという奇妙に宙ぶらりんな英文科の演習科目だった。学術においても表現においてもいわゆる専門性や専門ジャンルを追求する確固とした姿勢に憧れと畏れをいだきながら、その縁をぐるぐるまわっているだけの中途半端をモットーと
二〇一五年一一月一五日、昼前の、ぶあつい雲と雲のあいだからのぞく透きとおった青空と、ぬかるみ、ひとの足跡やものを引きずった跡で一部ぐちゃぐちゃになった地面の対照は、忘れられないシークエンスとなって私の頭の中に居座っている。仮設の観客席の指定された席に腰掛けた私は、雨天中止ではなく決行が主催者によって判断された千川の小学校のその運動場に、演劇を観に来ていた。劇の舞台となる運動場には学校の教室で使う椅子がいくつか間隔をあけずに横に規則正しく並べられており、並んだ椅子からすこし距離
右の人差し指と中指をおもいきりひろげてつくったY字のなかに軟式球を無理くりはさむなんてことをするから、指と指のあいだのぺったりしたみずかきみたいなぶぶんが痛い。冬のつめたい空気に毎日はだかのままさらしていた手は、おもての、節くれだったところがまだらにあかくなっていて、球をささえるために折り曲げた関節がぴりぴりした。だけど、そうやって工夫してから投げるのと投げないのとではどだい結果がちがってくる。だってそれは、その年、大旋風を巻き起こしたピッチャーがメジャーリーグの強打者相手に
だだっ広くて、無関心を装っているのに、ひととひととの距離がちかすぎて、身を隠すことができない。隠れたところで真相不明の噂に翻弄される。いまも昔も変わらない地方都市の、郊外的な土地の持つ息苦しさからの解放は、都市が地方出身者にあたえるつかの間の慰みにちがいない。一度ひとの群れのなかにまぎれこんでしまえばもともとさして特徴のないわたしのような人間は匿名的な無個性を手に入れ、ひとりきりになることができる。しかしそれは、記名によって自分の存在を保証してくれる場所があるから成り立つ安心