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「遠い連帯」に向かって--くぼたのぞみ『山羊と水葬』

右の人差し指と中指をおもいきりひろげてつくったY字のなかに軟式球を無理くりはさむなんてことをするから、指と指のあいだのぺったりしたみずかきみたいなぶぶんが痛い。冬のつめたい空気に毎日はだかのままさらしていた手は、おもての、節くれだったところがまだらにあかくなっていて、球をささえるために折り曲げた関節がぴりぴりした。だけど、そうやって工夫してから投げるのと投げないのとではどだい結果がちがってくる。だってそれは、その年、大旋風を巻き起こしたピッチャーがメジャーリーグの強打者相手にばたばた三振をとった決め球と同じ握り方だったから。こうやって投げさえすれば、球はバッターの前ですとんと落ちるんだ。それでも、練習は大切だ。絨毯に置いた座布団をマウンドに見立てて左足をあげ、竜巻みたいに身体をぶるんとひと捻りさせて、大きく振りかぶった。そして、着地した左足で絨毯を踏みしめ、私は縁側の引き違い窓に向かって軟式球を投げた。

軟式球はY字からすっぽ抜け、やまなりの放物線を描いて窓ガラスを破り、庭先をてんてんと転がっていった。想定では部屋と廊下をへだてる敷居に盛ったジャンパーのうえに球はきれいに落ちるはずだったのだが、フォークボールなんて投げられるはずもなく、屋内ピッチング練習は縁側の窓を球形に割り、そのまわりに亀裂を走らせるという無残な結果に終わった。帰宅した母にはしこたま叱られた。悪いことをしたわけだから怒られるのはあたりまえで、だけど、そのときの母の叱り方はいつもよりずっとつよくて、なにか、どこか、まちがっているような気がした。あ、と思ったのは、地元を離れて、東京で暮らすようになってからだ。あのころはたしか一時的に住まいをかえていた時期で、私たちは祖父母の家の離れで暮らしていた。地方の田舎で他所から嫁いだ女性が義父母と暮らすとはどういうことなのか。そういうことを僅かにでも想像できるようになるまで、長い時間が必要だった。

生まれ育った土地とその場所に溜まった時間から逃れるだけではたりない。そこから遠く離れて、せいいっぱい青臭い時間を過ごして、そのあいだに、何度繰り返したかしれない痛々しいふるまいや、吐き出したかるはずみの言葉にしっぺ返しをくらってもまだたりない。ぐらぐらした不安だらけの時間の中に自分の足を踏み出してからしばらくたったのちに、ようやく振り返ってみようと思う。ただ前だけを見て進んでいけばいいのに、そうすることがどうしてかできない。時間が澱んでいる気がして、その理由をたしかめたいと思う。

通り過ぎなかった記憶が、十分な時間を経て外にはなたれる。澱んだ雰囲気はない。不思議なほど澄みきっている。それどころかときどき底なしにあかるい。しめっぽさは皆無だ。ただ、ところどころにざらりとした感触があり、それが、記憶が言葉として育つ前の、整理のつかない感情のかたまりだったころのなごりのようなものを感じさせる。たぶん、むかしそこにはたくさんの棘があって、だから書き手は記憶を言葉として外に出すまでにしかるべき時間をかけたのではないか。やわらかい言葉が、やわらかさをたもったまま胸を刺す。

南アフリカ出身で二〇〇三年にノーベル文学賞を受賞した小説家、J・M・クッツェーの翻訳者として知られる翻訳家・詩人のくぼたのぞみが、さまざまな媒体に発表してきた「エッセイ」を一冊の本にまとめた『山羊と水葬』は、そんなえがたい印象をのこす。生まれ育った北海道新十津川で過ごした幼少時代、故郷を離れて「内地」の大学に入学し、自覚的に「日本語再学習」に取り組んだ青春時代、一九七〇年代の後半に母となり、子どもを育て、それと並行して翻訳家としても詩人としても仕事を重ねていった日々、そして現在。書かれているのはどこまでも個人的なことだが、いわゆる身辺雑記とはまるでちがう質感がある。

なにより細部が瑞々しい。いつか離れていく予感を心のうちに秘めながら毎日のようにながめ、いつの間にか「心の襞に刻みこまれた風景になっていた」ピンネシリの山影も、猛吹雪のなか馬橇に乗って石狩川の橋の上に向かう途中で筵と藁のすきまからふと目にした、皮を剥がれて「赤い肉」になった山羊のメエコの姿も、東京の大学に進学してはじめての夏休みに帰省したとき、汽車のステップを降りながら感じた「つんのめるようなエンプティネス」も、その後、翻訳家となり、クッツェーが心から愛した南アフリカのカルーを旅したあと、「その感覚を呼びもどしたい、消えてしまう感覚を記録しておきたい、と思うようになった」ことも、細部のどこをとっても語られる記憶は振り返りの遠近法でならされていない。かつて見たもの、聞いたものが、それを見たとき、聞いたときの鮮度のまま綴られている。長い時間を経て定着された言葉は弾力を失わず、著者が感じた喜びや戸惑いや驚きを読む者に想起させながら、心の中をゴム毬みたいにはずんで、そのひとの記憶の端にふれる。

個人的な体験を振り返り、さらに「書く」という行為にじぶん自身をさらすとき、過去のじぶんは現在という時制の侵食をいやおうなく受ける。そこに切断を入れ、過去のじぶんと現在のじぶんの切り離しを促すならば、書かれるじぶんは書くじぶんと地続きでありながら、しかし、他者としての側面もおびるだろう。それはいわば小説的な「語り」の作法だが、『山羊と水葬』の、とくに幼少期の体験を扱う文章において、書かれるじぶんの主語に「その子」をえらんだ著者はおそらくその作用に自覚的だ。発表順に文章を並べずに、幼少期、青春期、壮年期以降の順で記憶を編み直す本書の構成は、まるで『少年時代』、『青年時代』、『サマータイム』と続くクッツェーの自伝三部作をオマージュしているかのようだ。だが、クッツェーが『サマータイム』において作中のクッツェーを死者とすることでフィクションの強度をスキャンダラスなまでに高めたのにたいして、著者は「自伝」を小説に転ばせない。虚構の手前で自伝を自伝にとどめ、「その子」が見て、聞いて、感じたことを、語りならすことの誘惑を断ち切るつめたく澄んだ目を確保して検証を進める。『山羊と水葬』には何人もの「じぶん」がいる。では、複数の目を用意して著者が語ろうとした「真実」とはなにか。

端的に言えばそれは、旧国内植民地としての北海道が持つ「人種差別と優生思想に支えられたアメリカ仕込みの『開拓精神と名づけ直す暴力の歴史』」のことである。それぞれ分量としてはさほど多くはない断片的な散文のつらなりである本書において、歴史は巨視的には語られない。むしろとても個人的で、日常的な経験から「歴史」へいたる端緒がつかまれている。たとえば、「自分が使っているニホンゴが周縁の文化に属するものであること」を知った東京で、「日本語としてまれに見る硬質な手触りがある」安東次夫の著作をお手本として日本語再学習に取り組みながら、「無意識のやわらかな部分に真っ先に入ってきたことばによって形成された部分は、北海道という荒々しくも豊かな土地の自然と、外部から入植した人間が形成した社会内部で培われたもの」と気づくくだりは、そのさいたるものだろう。

それゆえ、かつて師に近しい存在でもあったろう安東の代表作『芭蕉七部集評釈』を、「この日本という多湿の地において、なんとか『他者』を迎えようとする、全身全霊をかけた一連の作業の結果」と高く評価するとともに、「京都が異国に感じる者には徹底的に閉じられたテクスト」と違和感も併せてしるす言語感覚は、中心から離れた場所でも言葉は脈々と紡がれてきたというあたりまえの事実を射抜く。しかし、視点をずらし、中心からはじかれた場所こそをあらためて「中心」とみなしたとき、著者の目は、まさにその場所で、だれが、だれに、どういう暴力を行使してきたかを、何気ない言葉の細部において照らす。

やがて底が見えるころ、こくわの実もあまくなる。それが待ちきれなくて、何度も袋のなかに手を突っこんでちいさな実を探し出し、柔らかくなったかどうか指先で調べた。なかなか柔らかくならない、子どもはそのうち飽きて忘れる。忘れたころに米袋の底からその実が顔を出す。ホラっといって手のひらに載せてくれる母がそのときいったことばが、記憶の底にちくりと刺さった。母はそのときこういったのだ。

−−ちゃんとしまっておいてよかったね。蓄えるというのは大事なことだ。アイヌは蓄えることを知らない。全部いっぺんに食べてしまうから。

「こくわの実」60−61頁

女性には参政権も結婚の自由もない時代に、決して裕福とはいえない家庭に育ち、看護学校に進んで十五歳で経済的に自立して弟と妹の学費を捻出し、結婚してからは「女が男より目立つことは御法度だったちいさな村社会で『他と異なることを恐れるな』」とふたりの子どもを平等に育てようとした著者の母親は、彼女が生きた時代を考えれば進歩的な考えの持ち主だった。だが、北海道開拓がアイヌの人々の土地を奪うことでなされたという事実に目を向けることなく、彼/女たちを差別する言葉を娘の前で吐いてしまう愚かさを持つひとでもあった。著者はそんな母親を、「北海道が植民地だったと認めれば、足場がガラガラと崩れると察して避けてきた道産子二世のひとりだったのだろう」と批判する。果たしてそれは死者を鞭打つことなのだろうか。そうではない。中心から遠く離れた場所で育まれた「日本語」を、その場所の持つ豊かさと暴力の記憶とをいっしょに引き受ける覚悟とともに仕事を重ねてきた著者の目には、母親の歩いた道の険しさが十分すぎるほどよく映っている。長い時間を経てはなたれた批判の言葉は、だから、ありえたかもしれない可能性を、すなわち、「不器用なまでにアウトサイダーとして生きたひとりの女性への、遠い連帯」を願う言葉でもあるだろう。

−−おかあさん、また別の世界であなたと会えたなら、そして、もしもあなたがわたしの娘だったら、泣いてもいいよと言ってあげたい。涙は流してもいいんだよと言ってあげたい。

「ミルクカートンの抒情詩」207頁

武家の末裔だった父親を誇りにしていた著者の母親は、「身振りとしての優しさやあまやかさは抑えこまれて育」ち、じぶんの子どもを「泣くな」と言って育てた。そうして育てられた「元少女」は、四十歳を超えたころ、めそめそして好きでなかった石川啄木の短歌を「ゆるせる」と思った。ふたりの娘たちは「小学校の卒業式の日から泣く子に育っていた」。「邪気を流し去り、かたくなな心に降り注ぐ慈雨」ですこしだけしめってやわらかくなった言葉が、逝ってしまった母からの応答を待ちながら、「遠い連帯」に向かっていまこのときを転がっていく。


くぼたのぞみ『山羊と水葬』(書肆侃侃房、2021年10月20日)

初出:「本と明け方 第3回」(『りんご通信 3』、赤々舎、2022年3月)

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