右や左より大切だと思うこと

曖昧な定義の右左に何でも落とし込む風潮

はじめにお断りしておくと、私は政治に詳しくない一般人で、その素人目線で社会を見て思うことを書きます。意見は素人サンプルのひとつとして捉えて頂けたら幸いです。

SNSで政治について意識の高い人達をフォローしていくと、「左翼」「右翼」という言葉を急に見かけるようになります。
「右寄り」「左寄り」みたいに何かの指標みたいに語られることもあります。

当たり前みたいに右とか左という言葉を使っていますが、その定義は人により少しずつ違うようで曖昧です。そういえば学校で習った覚えもないですし。

イデオロギー的な右左と経済的な右左を混同している論調も見かけます。これはきっとわざと混同させようとしているのだな、と悪意を感じることさえあります。

なぜ多角的に議論しなければならない色々な政治的問題を、定義が曖昧な右と左に分類する必要があるんだろう。

これって誰得?

と考えるようになりました。


全体主義じゃなければ右でも左でもどっちでもいい私

凄く雑な言い方で申し訳ないですが、私は全体主義が嫌いです。

個人主義って左でしょ?って言われがちですが、右も左も関係なく全体主義はあります。

右の全体主義で思い出すのは、戦前の軍国主義の日本で、
左の全体主義で思い出すのは、中国の文化大革命です。

全体主義が行き着く先はあまりハッピーな世の中とは思えないので、
そんな世界じゃなければ、右だろうと左だろうと全然構わないよ、と思うのです。

なので、素人目線の私にとっては右左より、全体主義から距離を置いた政策かどうかが判断基準となります。

大切なのは自由に物を言える社会

全体主義とか個人主義という定義も、人によって微妙に違うことがあります。そこで、この言葉も多くの人の共通認識として使うには限界があるような気がしました。

そこで、私は自分がどんな社会を望むのか?という問いにはこう答えることにしました。

「自由に物が言える社会」です。

独裁者の顔色を見ながら言葉を選ばなきゃいけない社会はもちろん嫌ですよね。

政治的なことを話したら通報されて思想犯になるような社会も御免です。

同様にスポンサー企業にとって不利益なことは話せないという社会も嫌だなあと思います。  

もっと身近な例だと、労働者が雇い主に物を言えない社会、なんてのもありますね。

そうなんです。私の生きてる世界も決して自由に物が言える世界ではありません。憲法に言論の自由が明記されている国に住んでいるのに、です。

但しここでいう言論の自由は誰かを傷つけるものは含んでいません。私は一定のポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)は必要だと思っています。

右左の論争にすり替えるのは誰得か

さて、右左の話に戻りますが、この何でも右と左に落とし込む風潮、誰得なんでしょうか。

この国の人の大半は、右や左と言われることを好みません。他人に「ウヨ」とか「パヨク」とか言われたくないのです。

何か、世の中に物申したくなった時に「こんなこと言ったらウヨって言われるかも」とか「パヨクって罵られるかも」って思うと何も言いたくなくなります。

つまりですね。右左のレッテルは言論封殺の道具なんです。

イデオロギーを持ってその活動をなさってる人にはたぶん罪はなくて、それを都合よく利用してる人達がいるわけです。

例えば左って言われたくなくて「原発反対」って言えない人結構知ってます。SNSではそういう言論封殺の方法がテンプレになっているようで、原発事故後あちこちで見かけました。

原発以外にも、人権の問題だとか、労働者の問題や、福祉についてなども、同様ですよね。

この右左で議論をすり替えて、 言論封殺を目論む人達は、一般市民に自由に物を言わせたくない人達なんだろうと思います。「自由に物が言える社会」が理想の私にとっては対極の人達ですね。

もちろん大半の人たちはただそこに乗っかって議論しているだけで、言論封殺の意図はないことも知っています。乗っかるなとも言えません。それはまた別の言論封殺になってしまいます。

とてもぼんやりとした希望なのですが、私はそことは違うレイヤーで色んな人と意見を交わしてみたいと思っています。

右左を問われない言論空間。

何だか漠然としていますが、お互いにレッテルを貼られることなく、純粋に自分と異なる考え方の人とも意見を交わせる場があったらいいのに、と思います。

そのためのいいアイディアはまだ持っていないのですが、忘備録的にnoteに書いておこうと思いました。

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