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小説「アウスリーベの調べ」第1話

あらすじ
 沙耶はある日、高校の図書館二階にある閉ざされた古書室で謎の青年と出会う。神出鬼没で美貌な彼に心を惹かれていく沙耶であったが、友人から古書室でかつて亡くなった生徒がいることを教えられ、その日以降、彼女の周りで不可思議なことが起こり始める。美しい『赤い絵』の失踪、不気味な怪物の襲撃、そして青年から語られる過去の悲しい出来事。沙耶はいつしか、ある恐ろしい企みへと巻き込まれつつあった。

(あらすじ:190文字)


 赤い夕陽が差し込む廊下は、どこまでも永遠に続いていた。誰もいない教室、誰もいない校舎、誰もいないグラウンド。仄暗い赤に染められた世界は、全ての事物の営みやそれらが立てる物音の一切を奪い去ってしまった様に静まり返っていた。
 そんな世界を唯一人、あてどなく彷徨い続ける少女がいた。彼女は時折立ち止まり、背後に伸びる長い廊下を振り返った。しかしその瞳に映るのは、永劫回帰する赤い景色ばかりで、別の世界へと繋がる窓枠は一つも浮かび上がらない。
 溜息を漏らし、すぐ傍にある教室の立て札を仰ぎ見た。そこには『二年七組』と記してある。彼女はこの立て札の前を一体何度行き過ぎてきたことだろう。室内では主人の居ない机と椅子が雑多に放置され、端に落書きのされた黒板が能面を被った様に沈黙の底へと沈んでいた。何度同じ教室に入り、何度同じ景色をぼんやりと眺めたことか。もはやその数を思い出すことすらできない程に、少女は同じ場所を延々と彷徨い続けていた。
 ぐるりと教室内を一回りし、息をつこうと教壇の椅子に腰を下ろした時。彼女の安息を待ち構えていた様にあの忌々しいメロディーが再び聞こえ始めた。どこか遠くから、空気の隙間を蛇みたく這ってくるフルートの音色。少女は両手で耳を覆い、震える体を小さく縮めた。それでもロベルト・シューマン:子供の情景第七曲『トロイメライ』の調べを奏でるフルートの音色は、容易く彼女の白い両手を擦り抜け、耳孔の奥深くまで入り込んで来る。強く目蓋を閉じ、何度も首を横に振った。

「……お願い。もうやめて」

   *

 残暑も萎え、肌寒さが募り始めた十月の或る日。昼休みの喧騒から逃げ出す様に教室を後にした沙耶さやは、校内の隅にひっそりと佇む古い図書館へと向かった。いやに寂れたその建物は、各学年の教室がある校舎からやや西側へ逸れた暗い場所にあるので、普段から利用する生徒は殆どいなかった。昼休みに足を運んでも、受付に座した図書委員が密かなスマホいじりに興じているだけで、他の者に遭遇することは滅多に無い。借りていた本の返却日が明日に迫っていたのもあり、とにかく一人になりたかった沙耶は、そんな静謐で人気のない図書館へと憩いの場を求めたのだった。
 受付に本を返却し、気の向くままに館内を歩き回った。並んでいる本の背表紙を指でなぞりつつ、これまでに読んだ作品の内容を思い返す。一度読んでそれきりのものもあるが、何度読み返しても飽きのこないものもある。最近読んで好きになり、再読しているのは、ネヴィル・シュートの「On the Beach」だ。沙耶はモイラに酷く共感し、タワーズ中佐を素敵な男性だと思った。本当の世界の終わりとはかようにも静かで淡々としたものであり、それ故に不気味な美しさを孕んでいるのかもしれない、と読了した時の感動を思い出し、彼女は一人で身を震わせているのだった。
 しばらく館内を巡回し、気になった本があればその場で立ち読みをしたりした。そうして哲学・宗教学のコーナーに差し掛かった折、沙耶はあることにふと気が付いた。
 館内北側の隅に位置する壁に、一つだけ関係者以外立ち入り禁止の扉がある。いつもなら固く施錠されている筈の扉が、その時ばかりは少しだけ開かれたままになっていた。
 借りようと手にしていた本を胸に抱き竦め、恐る恐る扉へと近付く。隙間から奥を覗いてみたが、扉の向こうには底知れない闇が広がるばかりで、中の様子を窺い知ることは殆どできなかった。ただそよそよと冷たい風が吹いてきている。
 沙耶は淡い恐怖に駆られながらも肩に乗る好奇心を手懐けられず、そっとドアノブに手を掛け重い扉を開いてみることにした。錆びた継ぎ目が「ぎい」と音を立て、少しだけ背筋が凍った。やがて扉は人一人を飲み込む程度にゆっくり開き、館内の照明が上へと昇る階段の始まりをぼんやりと二、三段照らし出した。顔だけ中へ突っ込んで、階段の続く先を確かめる。奥は余りにも暗く、この場所からでは何も見えなかった。沙耶は制服の内ポケットに忍ばせていたスマホを取り出し、ライトを点けてかざしてみた。しかし光が届くのは二、三メートル先までで、その奥はやはり窺い知れない。
 一度身を引き、ドキドキとした痛みを抑えるよう胸の上で本を抱き締めた。呼吸が浅くなっている。辺りをきょろきょろ窺い見たが、図書館内は相変らず静かで、立ち並ぶ書棚の影になっているこの場所からは受付に座る図書委員の姿も見えない。沙耶は一つだけ生唾を飲み、しばらく暗い階段を眺めた後、意を決してゆっくりとその一段目へと右足から掛けていった。
 急な階段を十三段ほど上って行くと、やや開けた場所に出た。スマホのライトが照らし出したのは古紙と埃のにおいに満ちた一室で、そこには幾つかの古い書棚が立ち並んでいた。空気の肌触りはシルクに似た滑らかさだが、ひんやりとしていて思わず身が震える。人の流れや時の流れ、そういったものから遥かに取り残されてしまっている様な気配がした。
 沙耶は埃を被った書棚の間を静かに歩きつつ、そこに並べられている書籍の背表紙を観察した。ほとんどが古い洋書や専門書で、もう何年も人の手に触れられていない様子だ。肩を小さく窄め、スマホのライトを頼りに少しずつ奥へと進む。
 とその時、突然どこかで紙の捲られる音がした。沙耶はびくりと小さく飛び上がり、すぐさま音のした方へと明かりを向けた。しかしそこには壊れ掛けた古いデスクと椅子が無造作に置かれているだけで、誰の姿も見受けられなかった。そっと歩み寄り、埃を被った机上を眺める。その足元には真ん中からへし折られた古い絵筆が一本だけ転がっていた。
 なんでこんな所に? そっと手を伸ばそうとした時、再びさらりと紙を捲る音が聞こえた。どうやら音は、部屋の更に奥から反響してくるらしい。沙耶は脇に挟んでいた単行本を宙に掲げ、もしもの時に備えつつ先へと進んだ。耳元で鼓動が騒ぎ立てる。
 やがて部屋の一角に、ぼんやりと橙色の明かりが灯っているのを見付けた。

「……あの、どなたかいらっしゃるんですか?」

 恐怖を紛らわすため、明かりに向かって声を掛けてみた。しかし何の反応もない。目を凝らしてみると、小さな明かりの下で一冊の本が広げられ、見開きのページには何者かの手が添えられていた。問い掛けに対して余りにも反応を欠いていたので、彼女はもしや死体でなかろうか、といぶかしみながらも、スマホのライトをゆっくりと橙色の明かりの方へ向けてみた。
 不意に、こちらをじっと見詰める青白い顔が闇の中に浮かび上がった。「ひゃっ」と悲鳴を上げた沙耶は、驚いた拍子に背後の書棚で体を強く打ち、手にしていたスマホを床に落としてしまった。ぐらりと揺れる書棚から、一斉に埃が舞い上がる。
 背中の痛みに耐えつつ、急いでスマホを拾い、再び青白い顔の方へライトを向けた。小刻みに震えるライトが照らし出したのは、古びたデスクの椅子に座す一人の男子生徒だった。

「……あなたは誰?」

 声の震えを必死に抑えながら沙耶がそう訊ねると、

「ここには来ない方がいい」と彼は静かに答えた。

 沙耶は書棚にぴったりと背中を預けたまま、白く浮き上がる男子生徒の顔を見詰め続けた。彼もまた口を噤んだままこちらを見ていたが、やがて何事もなかった様に視線を手元へ戻し、再び本の続きを読み始めた。見開きのページを細長い指がなぞる。男子生徒の手元を照らす橙色の明かりは、気付けば仄かに揺らめく蝋燭の炎だった。
 沙耶はこくりと生唾を飲み込み、「あの、あなたは……」と訊ねようとしたが、不意に「誰かいるんですか?」と言う声が遠く背後から聞こえた。

「ここに入っては駄目ですよ」

 咎める様な声は、恐らく受付に座っていた図書委員のものだ。彼女は沙耶の立てた物音に気付いたらしい。「ごめんなさい。今出ます」と慌てて返事をし、沙耶が再び男子生徒の方を見やると、彼の姿は既になく、蝋燭の灯もすっかり消えてしまっていた。

 部活が終わり、窓辺に寄って夕闇の空を覗くと、小さな星がちらほらと輝きを放っているのが見えた。窓外まで明かりの漏れ出る音楽室はやけに眩しく、楽器を片付ける部員達の会話も忙しなく辺りに響き渡っている。沙耶は夕暮れの空から視線を落とし、再び床を掃く作業へと意識を戻した。物思いから一人になりたい、という衝動に駆られてはいたが、与えられた役割は何であれきちんとこなしたいという拘りもあったので、彼女は黙々と目の前の作業を片付けていった。
 室内の四隅を掃き終える頃、突然同じクラスの美咲みさきに背後から強く抱きすくめられた。「ひゃっ」と沙耶が驚くのを、美咲は普段から面白がるところがあった。

「相変わらず真面目ね。早く帰ろうよ」

 彼女は最近、伸ばしていた髪を随分と短く切っている。

「もうすぐ終わるから待って」

 沙耶がそう返すと、手を放した美咲が背中を軽く叩いた。

「いいって、そんなの適当で」

 途端に「あなたはもう少し見習いなさい!」という声が教壇の方から飛んで来た。腰に手を当てた吹奏楽部顧問の高橋先生が目を細めてこちらを見ていた。美咲は高橋に向かってぺろりと舌を出して見せ、へらへらしながら沙耶を帰り支度の方へと引っ張って行った。

 音楽室を後にした二人は、校門を出ると同じ方角の帰路へと就いた。二人きりになると決まって止めどないお喋りを始めるのが美咲の習慣で、沙耶はいつも聞き役に回っていた。
 情報通な美咲はいつも多くの話題をストックしており、校内での恋愛事情や教師の危うい噂、テスト情報や他の部活動の大会成績など、沙耶が知りもしないことを実に事細かく知っていた。今日の帰り道も相変わらず止めどないお喋りに興じている美咲であったが、沙耶はそんな彼女の話など殆ど聞き流し、まるで上の空な様子でぼんやりと中空を眺めていた。

「……ねぇ、何かあったの?」

 突然そう訊ねられ、沙耶は思わずはっとした。隣を歩く美咲の顔を見やると、彼女はいつになく真面目な顔をしてこちらをじっと見詰めていた。

「ううん、別に何も。どうして?」

「なんだかぼんやりしているから。いつもの沙耶と違う気がする」

「いつもと違う?」

「うん。どこか遠い場所に行っているみたい」

 沙耶は足元へ視線を落とし、アスファルトに転がる小さな石ころを蹴った。昼休みに図書館の二階で遭遇した奇妙な男子生徒のことが頭から離れずにいた。どうして彼はあの部屋にいたのだろう。彼は一体何を読んでいたのだろう。彼は一体何者なのだろう。あれから姿を見失い、慌てて一階へ降りてしまった沙耶は、図書委員の生徒に「二階に人がいた」と報告する余裕もなかった。

「ちょっと、疲れてるのかも」

 沙耶が微笑みながらそう返すと、美咲は不満そうに口を「へ」の字に曲げたが、それ以上しつこく訊ねる様なこともなかった。
 近くで踏切音が鳴り始め、二人のすぐ傍を八両の快速電車が通り過ぎて行った。やがて静けさを取り戻した線路脇の夜道に、革靴の立てる二組の足音がかつかつとよく響いた。

「そう言えばさ、沙耶ってよく学校の図書館に行くよね」

 何を思ってか美咲が突然そう訊ねてきた。沙耶は驚いたが、気を取り直し、

「うん。落ち着くから」と答えた。

「静かな所が好きなの?」

「騒がしい所が苦手なの。昼休みの教室って、なんだかざわざわしているし」

 遠い夕闇の彼方から、旅客機の放つ飛行音が聞こえてきた。航空灯を点滅させながら二人の上空を行き過ぎ、旅客機はあっという間に夜の向こうへと去っていく。
 美咲はしばらくその様子をじっと見上げていたが、ふと息を漏らす様に、

「沙耶はさ、図書館の二階に部屋があること知ってる?」と訊ねた。

 沙耶はどきりとした。しかし嘘をつくのも嫌だったので、「知ってる」と答えた。

「あそこには行っちゃ駄目だよ」とすぐに美咲が言った。

「昔、あの場所で亡くなった生徒がいるらしいから」

 夜風がふわりとやって来て、沙耶の長い髪を揺らした。鈴虫の声音に寄り添う風は確かに彼女の頬を冷たく撫でたが、明らかに気配の異なる寒さも、ひっそりとその肌の上に残していった。

 翌日の昼休み、沙耶は再び図書館へと足を運んだ。入口から館内の様子を窺い見ると、昨日とは違う図書委員の生徒が一人で受付に座っていた。沙耶はほっと胸を撫で下ろし、下手に意識しないよう受付の横を通り過ぎた後、二階へと続く階段扉の前へと向かった。そこにはこれまで同様、関係者以外立ち入り禁止の古めかしい扉が佇んでいたが、昨日とは違い、扉はぴったりと閉じられていた。ドアノブに手を掛け引っ張ってみたものの、寸分たりとも動かず、どうやら鍵を閉められてしまったらしいということに沙耶は気が付いた。

「あそこには行っちゃ駄目だよ。昔、あの場所で亡くなった生徒がいるらしいから」

 不意に美咲の言葉を思い出し、沙耶は足元からひんやりとした恐怖感が這い上がって来るのを感じた。美咲が知っているのは過去にあった出来事というだけで、それが二階で遭遇した男子生徒と関係があるのかどうか分からない。しかし、もし彼がこの世のものでないとしたら、必要以上に関わるのは止めておいた方が良いのではないだろうか。
 沙耶はドアノブに掛けていた手を胸元まで引き戻し、ゆっくりと扉から後退った。何の変哲もない唯の扉が、今では妙な不気味さを放つ魔物の口の様に見え始めた。大きく歪んでは伸び縮み、すぐにでもがぶりと食らい付いて彼女を飲み込んでしまいそうだ。
 とその時、突然誰かがぐいと沙耶の肩を掴んだ。彼女は驚いた勢いで「ひゃあ」と大きな悲鳴を上げたが、振り返る間も無く何者かに口を塞がれた。「むぐっ」と声を漏らした沙耶の目には、唇の前で人差し指を立てて「しーっ」と言う美咲の姿が映った。彼女もまた、沙耶の上げた大きな悲鳴に驚いている様子だった。

「私よ、沙耶。やっぱりここに来ていたのね。ここは駄目だって言ったのに」

 口を塞いでいた手を離し、小さな溜息を零した美咲は沙耶の頬を軽く抓った。
 やがて悲鳴を聞きつけてやって来た図書委員の男子生徒が、「大丈夫ですか?」とあたふた訊ねたが、二人は誤魔化す様に変な笑いを浮かべ、彼をやんわりとなした。
 図書委員が去った後、沙耶は抓られた頬を擦りながら、

「ここの二階で起こったこと、美咲は何か詳しく知っているの?」と訊ねた。

「え?」と零した彼女であったが、しばらく考え込んだ後、

「六年前に、女子生徒が一人亡くなったっていう話しか知らないよ?」と答えた。

 沙耶は奇妙な違和感を覚えた。

「男子生徒じゃなくて?」

「……うん」と不思議そうに頷く美咲。錆び付いた扉へと再び視線を戻した沙耶は、昨日遭遇した二階の彼が、スマホの明かりの中でこの高校の制服を着ている姿を思い出していた。

「ねぇ、沙耶。大丈夫?」

 不意にそう訊ねられ、物思いに耽っていた沙耶ははっと我に返った。美咲が顔を覗き込んでいた。沙耶は未だにぼんやりとしていたが、小さく頷きながら「大丈夫」と答えた。

「何か本でも借りて、もう教室に帰ろうよ」

 そう言う美咲に促され、沙耶は後ろ髪を引かれる思いのまま二階へと続く階段扉の前を後にするのだった。

 その日の放課後。沙耶は高橋先生に或る頼み事をされ、美術室へと足を運んでいた。美術室は北校舎の一階に位置し、いつも薄暗く寂しげなので、選択科目の授業があるか美術部員が部活動で利用する以外、余程の事情がない限り一般の生徒が近付くことはなかった。
 秋が深まるにつれ、高校では少しずつ文化祭の催しものに向けての準備が始まる。沙耶が高橋先生から頼まれたのは、美術教師の崎村先生に預けていた音楽家の肖像画を受け取りに行くことだった。長い間音楽室の壁に立て掛けられていたり、雑に倉庫内で保管されたりしていたため、音楽家の肖像画はすっかり傷んでしまっていた。高橋先生は今年の文化祭を機に、崎村先生の伝手を頼って業者へと修繕を依頼したのだ。
 沙耶が美術室に顔を覗かせると、いやに薄暗いひんやりとした空気が室内中を満たしていた。人の姿はなく、今日は美術部の活動もない様子だ。
 中へそろりと足を踏み入れ、奥にある別室の扉の前に立つ。『美術準備室』と記載されている立て札を確認し、静かにその扉をノックした。すると、擦り硝子の向こうから「はぁい」とやや間延びした返事が返って来た。ゆっくり扉を開けて準備室の中を覗き込む。画材道具が山の様に積み上げられている部屋には、絵の具や古紙の匂いがたっぷりと満ちていた。

「二年二組の木村沙耶です。肖像画を受け取りに来ました」

 沙耶がそう告げると、準備室の奥から物を動かしつつ熊の様に体の大きい男が姿を現した。彼が崎村先生だ。先生はやや癖のある髪を肩まで伸ばし、頬から下顎に掛けて豊かな髭を蓄えているので、沙耶にはオフシーズンの茶色いサンタクロースの様に見えた。

「吹奏楽部の部員さんだね。肖像画はもう届いているよ」

 そう言って優しく笑んだ崎村先生は、傍で山積みになっている画材道具の中を漁り始めた。癖のある長髪と髭を蓄えた大きい体。それに薄暗い美術室の雰囲気も相まって、彼を好む生徒はほとんどいなかった。しかし沙耶は、内面が穏やかで物腰の柔らかい崎村を密かに気に入っていた。普段、関わりなどほとんどないが、時折職員室の近くをのそのそ歩いている姿を見掛けると、珍しいものを見た様な気持ちになって少しだけ彼女は嬉しくなるのだった。

「あれ? どこに置いたかな」

 一人呟く崎村を横目に、沙耶は普段入ることのない美術準備室をゆっくりと見渡してみた。美術の教科書やデザイン書、見たこともない画材道具がそこら中に転がっている。
 先生はまだごそごそしている様子だったので、沙耶はこっそり入室して手近なものを拾い、物珍しそうにそれらを観察した。そんな折、ふと準備室の端で裏返しに立て掛けられている一枚のキャンバスが目に入った。沙耶はゆっくり近付き、そのキャンバスを手に取ってひっくり返してみた。表側を目にし、はっと息を飲む。そこには目を奪われる様な鮮やかな赤に塗られた夕暮れ時の風景が描かれていた。まじまじと見詰めていると、描かれている絵の世界に引きずり込まれてしまいそうになる。

「その絵、引き込まれるでしょう?」

 突然、崎村の声が傍で聞こえた。はっとした沙耶は「すみません」と言って何事もなかった様に元の位置へ戻そうとしたが、崎村はすかさず彼女の手から絵を取り上げ、同じように見惚れ始めた。

「これは、もう十年以上も前にここの生徒が描いたものらしいんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。詳しくは知らないけれど、とても絵の上手い男子生徒がいたらしくてね」

 沙耶は何故か鼓動が速くなっていくのを感じた。

「その方は、卒業した時にこの絵を置いていかれたのですか?」

「いや、彼は在学中、突然行方不明になったらしいんだ」

「……行方不明」

 おどろおどろしい言葉に、思わずこくりと喉が鳴る。

「それで前任の美術教師の意向で、男子生徒がいつかまた戻って来て続きを描けるよう今でもここに保管しているんだよ。処分するのはなんだか気が引けるし、この絵自体も凄く引き込まれる様な魔力があるから、僕もなかなか手を出せなくてね」

 そう言って崎村は苦笑いを浮かべた。沙耶はもう一度だけ絵を覗き込み、滲み出す様な赤にじっと見入った。そこには夕日が差し込む校舎内の一角から、どこまでも延々と伸びる赤い廊下の景色が描かれていた。


~つづく~

⇩第2話以降はこちら

第2話:https://note.com/yukawa1991/n/n672db62e106c

第3話:https://note.com/yukawa1991/n/n4ae721191a1a

第4話:https://note.com/yukawa1991/n/n34263746563c

第5話:https://note.com/yukawa1991/n/nd51728b9a4a8

第6話:https://note.com/yukawa1991/n/n626b6d4e0420

第7話:https://note.com/yukawa1991/n/n963aa4190187

第8話:https://note.com/yukawa1991/n/nfa475d691e1c

第9話:https://note.com/yukawa1991/n/n3a44326be769

第10話(最終話):https://note.com/yukawa1991/n/nfe921bc2d0c1


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