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小説「アウスリーベの調べ」第7話

 歌が聞こえた。誰かが遠くで歌っている。しかし言葉ではない。メロディーとしてしか僕には聞き取ることが出来ない。ハミングしているのだろうか、ともう一度耳を澄ませたが、次第にそれは誰かが口にする歌ではなく、何かの楽器で奏でられる曲であることに気が付いた。これは確か、ロベルト・シューマンの『トロイメライ』。演奏している楽器はピアノではなく、フルートだ。僕はピアノでの演奏しか聴いたことがなかったのでその新鮮さに頬が緩むのを感じた。誰が演奏しているのだろう。浮力を使ってゆっくりと体を起こす。目を見開いてみたが、辺りは重々しい暗闇に包まれているばかりで何も見えなかった。空間を支配している物質が分からない。気体か、あるいは液体か。とろりとした冷たい感覚だけが全身を覆っている。
 フルートの演奏はいつしか止み、耳の痛むような静寂が訪れた。時折視界の端に明滅を繰り返す光の断片が現れ、それを掴もうと手を伸ばしたが、あっという間に何処かへと消え去ってしまった。「ふふっ」と誰かの笑う声がして背後を振り向く。しかしそこには果てしなく闇が広がっているばかりで、誰の姿も認められない。僕は「夕莉」と名前を呼んだ。返事をするものは何もなかった。
 突然暴風が吹き始め、僕はゆっくりと底へ倒れた。もしかしたらそれは暴風ではなく、潮流の変化だったのかもしれない。ごろごろと底を転がりながら、点在する重い物に絶えず体をぶつけ続けた。それが岩だと気付いたのは随分傷め付けられた後だ。やがて体は舞い上がり、底のないだだっ広い空間へと投げ出された。相変わらず視界は真っ暗なまま、ゆらゆらと漂いつつ赤い夕焼けを思い出した。夕莉の面影が揺れている。だが彼女の顔をはっきりと思い出すことができない。また会う約束をしているというのに。彼女はまた僕の元へ会いに来てくれるというのに。抱き締められた温もりを思い出し、僕は小さく体を縮めた。止まることを知らない潮の流れに身を任せ、何処へなりとも連れて行け、と僕は無力に呟き続けた。

 目が覚めると、そこは薄暗い古書室だった。
 僕はゆっくり体を起こし、周囲をぐるりと見渡す。古本と埃の匂いに満ちた室内の様子は、以前と少しも変化が無い様に思えた。晩秋の色をした風が窓をかたかたと鳴らしている。

「眠っていたのか」

 そう呟いて自分の手を見ると、窓辺に落ちた月光に照らされて青白い肌をしているのが分かった。そろそろ秋も過ぎ去り、冬が間近に迫って来ている。寒さにやられているのだな、と思ったが、僕はふとあることに気が付いた。寒くない。

「……まさか」

 急いで図書館一階のトイレへと駆け込み、手洗い場の鏡を覗き見た。思わず絶句する。僕の相貌は十六歳に戻り、その肌は血色をことごとく失っていた。また体を奪われたのか? 訳が分からなくなり、トイレの手洗い場で立ち尽くした。奴は、『怪物』は、僕の描いた絵を確かに一度受領した筈だ。しかし今頃になって「条件に合わない」と難癖を付けて来た。なぜ怪物は最初からそうしなかったのか。初めから僕を騙すつもりなら、絵を受領する前に「残念だ。今回の取引も失敗に終わった」と言って僕の肉体をさっさと奪っていけばよかったのではないのか。それに奴は美味い話には裏がある、と言っていた。奴の言う美味い話の裏とは何だ……。
 しばらく鏡の向こうにいる十六歳の自分と睨み合った後、我に返った僕はふらふらと図書館二階へと続く階段を上り古書室へと戻った。冷静になってもう一度よく考えてみよう。もしかしたら僕が何かを見落としているだけのかもしれない。見落としさえ見付けて修正すれば、まだ取返しはつくのかもしれない。
 自分にそう言い聞かせて落ち着こうとした。しかし、ふと足が止まった。古書室の窓辺から降り注ぐ月光の奥に、何かが転がっているのが見えた。目を凝らし、次の一歩、次の一歩と恐る恐る近付いていく。月光の奥に燻る影で、誰かが仰向けになって倒れていた。僕はゆっくりと傍へ歩み寄り、その姿を目にして膝から崩れ落ちた。
 暗い古書室の奥で仰向けになって倒れていたのは、固く目を閉ざした夕莉だった。震える手で石膏の様に白くなっている彼女の頬に触れようとしたが、指先は何の抵抗もなく擦り抜けていった。夕莉の呼吸は完全に止まっており、彼女の命の灯火は僕の手の届かない遠い所へと去ってしまっていた。
 静かに眠る夕莉の体を抱き締めることもできないまま、僕は喉が裂けんばかりに声を上げて泣いた。誰にも聞こえない悲しみと、誰にも聞こえない怒りは、恐ろしい獣が出す咆哮の様に月夜の晩に響き渡っていった。


—— § ——


 静かに語り終えた相澤を見詰めたまま、沙耶はいつしか言葉を失っていた。姿を現す際、常に微笑みを浮かべていた彼の表情が今では冷たく能面の様に凍り付いている。
 沙耶は彼の話になんとも言い難い恐怖と憐れみを感じ、同時にある疑問を抱いた。

「最初から、全ては怪物の掌の上だったんだ」

 そう言葉を紡ぐための呼吸すら相澤から感じ取ることができなかった。沙耶は彼の暗い瞳をじっと見詰め、「でも、なんだか変」と言った。

「怪物の言い分だと、取引は破綻したということになるのよね? だって、取引が成立したなら第三の条件で相澤くんの命は奪われて、あなたは今ここに居ないはず」

「……そうだ。僕がまだここにいるということは、単純に取引は破綻したということになる。つまり第三の条件をそもそもクリアしていなかったということだ。だからまた画才も肉体も奴に奪われた」

「それなら何故、あなたが目覚めた時に夕莉さんが……」

 沙耶は急ぐ自分を落ち着けるよう呼吸を一度整えた。

「もしかして、夕莉さんは怪物に命を奪われたの?」

相澤は小さく首を横に振った。

「そうだとも言えるし、違うとも言える。夕莉は自ら死を選んだんだ」

 そうであって欲しくないと思える真実が突然目の前に現れた時、沙耶は自分がどんな表情をするのだろうと常日頃から考えることがあった。それが今ようやく分かった。ただ呆然と口を開け、目の前に現れた真実を見ていることしか出来ないのだ。
 机に腰掛けている相澤が少しだけ身じろぎし、制服の衣擦れ音が静かな教室に散っていった。

「目を覚ました時、僕は一時間余り眠っていただけなのだと思った。だが僕が目を覚ましたのは夕莉と別れた日から凡そ一年後のことだった」

「……一年?」

 沙耶はこくりと生唾を飲み込んだ。そして、「まさか」と呟いて勢いよく立ち上がり、

「相澤くんが眠っている間、夕莉さんは一人であなたを探し続けていたんじゃないの?」

 と訊ねる。相澤は揺れる様な眼差しで沙耶を黙って見ていた。

「どうなの?」訊ねる声音に怒りがこもる。

「……僕が古書室で眠りに就いている間、その姿は夕莉にも見えなかったようだ。肉体を取り戻して二日後、再び現れた怪物は何故かそういう風に僕の肉体を奪っていった」

 語りながら相澤の眉間に深い皺が寄る。

「恐らくそれは、奴が本当に達成させたい目的のためだったのかもしれない」

 沙耶は相澤の手が小さく震えていることに気付いた。軽く開かれていた掌はいつしか固く閉じられている。

「奴は奪い方をよく知っている。本当は何も与えてはくれないんだ。僕らから何かを奪うために甘い誘惑を持ち掛け、その罠に嵌ると、最後には全てを奪い去って行く」

「……怪物が本当に達成させたい目的って何だったの?」

 沙耶が相澤の肩に触れると、彼はびくりとして身を引いた。しばらく互いに見詰め合った後、相澤が静かに口を開いた。

「……夕莉だ」

「え?」

「奴は僕の肉体を手に入れた後、今度は夕莉の肉体をも欲したんだ」

 怖気が沙耶の全身を襲った。怪物は彼らの肉体を奪って一体何をしているというのか。

「恐らく奴は、夕莉に何らかの『選択』を迫ったに違いない。彼女が自分から命を絶つなんて考えられない。怪物は僕への見せしめにしばらく現実世界で夕莉の亡骸を放置した後、それを何処かへと持ち去っていった」

 語りながら俯き、苦々しい表情をする相澤を沙耶はじっと見詰め続けた。
やがて『赤い絵』へと視線を移し、徐にそれを手に取った。

「怪物が夕莉さんに迫った『選択』って何?」

「……分からない」

「あなたはこの絵に夕莉さんの姿を描いたと話した。でも夕莉さんがこの絵にいないのは何故?」

「……彼女は今でもその絵の中にいるんだ」

「え?」

「自ら命を絶って肉体は奪われてしまったものの、何故か夕莉の意識だけはその絵の中に繋ぎ止められた。いや、閉じ込められた、と言った方が正しいかもしれない。彼女はこうしている今も、その絵に描かれた世界の何処かを彷徨い続けている」

 沙耶は静かに目を閉じ、何度も首を横に振った。

「酷い。どうして夕莉さんがそんな目に合わなきゃならないの?」

 しばらく閉口していた相澤は、漸くざらつく様な吐息を零した。

「後悔したところで何の意味もないことは分かっている。だけど、後から後から悔やみきれない思いが襲って来て仕様がない。僕が絵の才能さえ求めなければ、僕が夕莉への思慕さえ抱かなければ、こんなことには……」

 沙耶はその言葉に強い怒りを覚えたが、それ以上に不気味な疑問が心に湧き起こるのを感じた。

「相澤くん。あなたに訊ねたいことがあるの」

 彼は顔を上げた。

「どうして私に近付いてきたの?」

 その瞬間、相澤の目が僅かに見開かれたのを沙耶は見逃さなかった。

「怪物は何故私を暗がりに引きずり込んで物色したの? 相澤くんは何故私に夕莉さんとのことを話したの? あなた一体、何を企んでいるの?」

 しばらく黙り込んだ相澤であったが、やがて「すまない」と小さく零した。

「僕はまた、奴と取引をしてしまった」

「……どんな取引?」

「この取引はこれまでと違い、僕から奴に交渉を申し出た。画才はいらない、その代わりに僕の肉体と夕莉を返せ、と」

 沙耶は全身が震え出すのを堪えながら、「どんな条件なの?」と訊ねた。相澤は青白い手を顔の前に翳し、ゆっくりと指折り始めた。

「一つ、今日から十三日以内に一枚の絵を描く。
 二つ、画材にはキャンバスと油絵具を用いる。
 三つ、絵の対象となるものは、怪物が欲しくて堪らないもの。
 四つ、絵の質は誰が観ても目を離せなくなるほど美しいもの」

 言い終えると、相澤は静かに手を降ろした。彼の瞳は沙耶の目を見詰めたまま離さない。
 沙耶は目を見開き、後退りした勢いで机に腰をぶつけた。

「……嘘」

「本当にすまない」

 瞬間、破裂する様な乾いた音が沈黙していた室内に響き渡った。沙耶の振り上げた手が相澤の頬を強烈に打っていた。言い表しようのない怒りに肩が震える。

「冗談じゃない! 今度は私ってこと? 私を怪物にやって、夕莉さんを取り返そうとしているってこと?」

 彼の暗い瞳が揺れたのを認め、沙耶は次なる怒りが沸き起こるのを感じたが、それが外へと噴出するのを必死に抑え込んだ。

「……取引をしてから今日で何日目になるの?」

 相澤は「十二日だ」と答えた。暗く沈んだ瞳がこちらを向くことはなく、あさっての方を見たままひたすら心を閉ざしていた。なんて恐ろしい人。これじゃあ、まるで……。
 沙耶は頭を振り、手に持っていた『赤い絵』を机上に放り投げた。傍に置いていた自分のバッグを勢いよく掴み上げ、立ち竦んだままの相澤を置き去りにして教室から出て行く。
 ふと足が止まり、薄暗い教室に佇む彼を一度だけ振り返った。

「あなたはそれでいいの? それが本当に夕莉さんへの『愛』を証明したことになるの?」

 そう訊ねる沙耶に、相澤はやはり何も答えなかった。ただ頑なに口を噤み、沈んだ夕陽のプルキニエに染められた青白い瞳でじっとこちらを見詰め続けていた。

 その日の夜。帰宅した沙耶は自室に籠ってベッドへと潜り込み、声も出さずに泣き続けた。一体何処からこんなにも激しい哀しみが沸き起こって来るのか見当も付かない。心配した母親が何度か部屋の扉をノックしたが、沙耶は何も答えず布団にじっと身を包んでいた。
 いつしか彼女の中に募っていた相澤への想いは粉々に砕け、それに追い打ちをかける様に彼の口から語られた過去の出来事が沙耶の心を襲った。鋭く太く、冷たい釘の様にぐいぐいと胸へ刺し込まれる。何もかもが恐ろしく感じた。怪物の事も、取引の事も、夕莉の事も、相澤のことも。相澤と三度目の取引を交わしているであろう怪物は既に沙耶のことを認識し、確実に彼女を奪いに来る。今回の取引が破綻した場合、私は一体どうなってしまうのだろう、と沙耶は恐怖に打ち震えた。止めどない哀しみと恐怖はやがて、不安と困惑、そして怒りに転じ、遂には憐憫へと染まっていった。相澤の頬を打った掌が、今頃になってじんじんと疼き始める。

「私は一体、どうしたらいいっていうの?」

 固く瞳を閉じると、極度の疲弊は一瞬にして沙耶を深い眠りの中へと引きずり込んでいった。


~つづく~

⇩次回(第8話)はこちら

⇩第1話はこちら


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