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小説「アウスリーベの調べ」第6話

 画家は、街外れの住宅街から更に奥まった区画にある、小さな二階建ての木造家屋にひっそりと暮らしていた。玄関のインターホンを鳴らしてしばらくすると、扉の窓ガラス越しにのそのそ動く人影が見えた。やがて初老の男が顔を覗かせ、「やぁ、夕莉ちゃん」と言った。僕は初めてその画家を目にした時、『クロード・モネ』に似ているな、と思った。

「今日はボーイフレンドと一緒かい?」

 画家が微笑みつつそう訊ねたので、夕莉は少しだけ照れ臭さそうに、
「こんにちは、五十嵐いがらしさん」と挨拶をした。
 目が合った僕も小さく頭を下げ、「相澤と申します」と言った。五十嵐さんは立派な顎髭を擦りながら、「これはまた随分とハンサムな……」と呟き、「紹介したい人がいる、と夕莉ちゃんから聞いているよ。なるほど、これは確かに放って置けないなぁ」と言ってにやりと夕莉の方を見た。僕も何気なく彼女の表情を窺う。夕莉はふいと顔を背け、「それだけじゃないです。五十嵐さんの意地悪」と不貞腐れた様に言った。横顔に垂れた髪の隙間から、真っ赤に染まった小さな耳が見えていた。

 夕莉の話によると、五十嵐さんは『五十嵐来鹿いがらしらいか』という名の画家で、主に『陽光×水』をテーマにした油絵を多く手掛けている人だった。覗かせてもらったアトリエにはこれまで手掛けた作品が数点保管されており、現在制作中の絵も年季の入ったイーゼルの上で静かに鎮座していた。僕は作品一点一点をじっくりと鑑賞させてもらいながら、いくつか画伯に質問を投げ掛けたり、共に書籍を開いて絵画の話に耽ったりした。夕莉はその間、五十嵐さんの使うスツールに腰掛け、僕らの様子を黙って見ていた。時折、アトリエの書棚に並ぶ古いレコードを取り出し、そのジャケットの表紙や裏表紙を一つ一つ入念に眺めてもいた。
 僕らの話が一段落したところで、商店街にある洋菓子店で買った手土産のケーキを三人で食べた。五十嵐さんの淹れたドリップコーヒーが、僕の選んだモンブランケーキとよく合った。

 やがて陽が穹窿の果てに沈み始める頃、僕と夕莉は五十嵐さんの家を後にした。鮮やかだった橙色の空はいつしか深みのある紫色へと変容している。夕暮れの住宅街を抜け、駅の方へ足を向けようとしたところで、夕莉に反対方向へと腕を引かれた。

「もう少し歩こうよ」

 僕は頷いて、彼女に腕を引かれるままにした。
 町を南北に割る川幅の広い河川沿いの道を二人で静かに歩いた。ジョギングをする人や犬の散歩に興じる人、釣り具を抱えて自転車に乗る人、手を繋ぐ親子。僕は彼ら一人一人の表情や仕草に目を留め、声音や会話の内容にぼんやりと耳を傾けた。

「どうだった?」

 不意に隣を歩く夕莉にそう訊ねられた。僕は五十嵐さんのことだと察し、「凄い人だ」と返した。夕莉はくすりと笑って「謙虚ね」と言った。

「謙虚?」

「優也くんの描いた絵、五十嵐さんに見せたらきっと腰を抜かすと思うわ」

「……そうかな」

「無くなってしまったのが残念ね」

 夕莉はぱちんと指を鳴らした。化物はあの絵をどこに持って行ってしまったのだろう。僕は闇の深まっていく空を見上げ、しばらく奴という存在について思いを馳せた。

「それで、これからどうするのか考えてみた?」

 夕莉の問い掛けに笑みを浮かべる。

「分からない。でも、君がヒントをくれた気がするよ」

 ちらほらと星が瞬き始めている遠い空を、一機の旅客機が滑る様に飛んでいた。それは余りにも遠すぎて、暗い輪郭が空気の重層に滲んで見える。

「ねぇ、優也くん」

「何?」

「今日さ、うちに来ない?」

 僕はゆっくりと夕莉に目線を落とした。彼女はこちらを見てもくれない。見ることが出来ないのだと僕には分かった。

「君の家族に迷惑だろう」

 しかし夕莉は首を横に振った。

「いないの。父は先週から出張だし、兄も最近は大学院の研究室に籠り切り」

「お母さんは?」

「……いない」

 僕は察してそれ以上のことは訊ねなかった。ざわざわと腹の底が疼いたが、深い息を吸ってひとまず沈めた。

「帰っても家に一人ってことか」

「これから晩御飯を作るつもり。来てくれたら御馳走するよ」

「海老で釣ろうとしてる?」

「ふふっ、あなたは鯛なの? 謙虚な優也くんは何処へ行ったのかしら」

 ようやく夕莉が僕の目を見て笑ってくれた。しかしすぐに訪れた沈黙に耐え切れず、再び視線をさっと反らす。僕はどことなく足の付かない哀しみに襲われた。夕莉がどんな家に住み、どんな暮らしをしているか想像すら出来ないが、この後家に帰った彼女が一人で夕食を作って一人でテーブルに就き、一人で料理を黙々と口に運んでいる姿を想像すると、僕は堪らなく哀しい気持ちになった。

「お邪魔しようかな」

 その言葉に夕莉の顔が綻ぶ。

「ほんと?」

「でも、その後はまた学校に戻るよ」

 顔から綻びがやや失われたが、すぐに口元を緩めて「うん」と彼女は言った。

「来てくれるだけで嬉しい」

 僕らはやがて橋を渡って川の対岸側へ行き、元来た道とは逆方向に歩いた。そして商店街を抜けて駅で電車に乗り、夕莉の家へと向かった。

 彼女の住まいは駅近くにある高層マンションの中層階で、3ⅬⅮKの広さがあった。僕はダイニングテーブルの下座に腰を下ろし、キッチンで夕食を作る夕莉の様子を黙って見ていた。彼女は時折こちらに視線を向け、「音楽でも聴く?」「TⅤ点けようか?」「部屋に本があるから取ってきてもいいよ?」などと頻繁に訊ねた。僕はそのどれに対しても首を横に振り、頬杖を突いたまま夕莉の家事姿を眺め続けた。

「じっとこっちを見ないで!」

 そう叱られるまで彼女を見ていた。やがてテーブルの上に視線を落とし、その木目を左から順に辿っていく。途中、三つの節を見付けてそれが少しずつ人面の様に見え始めるのが不思議と可笑しかったが、僕は次第に自分の置かれている状況を思い出して目を閉じた。
 住み慣れた『古書室』は今でこそ居心地が良いが、いつまでもあの場所に潜伏している訳にもいかない。いずれ抜け出し、一般の人々同様、社会の中に自分の居場所を見付けなければならない。「相澤優也」という名前はもう使わない方がいいだろう。全くの別人として、一からやり直す術を見付けていかなければ……。
 目蓋を開けて自分の掌を見た。化物との取引を無事に完遂した今、僕には紛れもない絵の才能が宿っている。これを上手く利用しない手は無いだろう。茫漠とした先の見えない現実にただ一つ光を放っているとしたらこの画才だけなのだ。まるでギリシャ神話に出てくる『パンドラの匣』みたいだな、と僕は苦笑を浮かべた。

「一人で笑ったりなんかして、何かいいアイデアでも浮かんだの?」

 澄んだ夕莉の声に僕は顔を上げた。「準備できたよ」と微笑んだ彼女は、目の前のテーブルにカプレーゼとバジルソースのパスタ、トマトスープを並べた。それぞれの皿から香りが立ち、食欲をそそる。

「全部、君が作ったの?」

「うん。でもスープは昨日の残り物だし、カプレーゼは簡単。パスタは昔から得意なの」

 取り皿にフォークとスプーンを乗せて手元へ置き、テーブルを挟んで僕らは座った。「ふふっ」と夕莉が笑ったので「何?」と訊ねると、「なんでもない。さ、食べよ」と言った彼女は手を合わせた後、僕の取り皿へとカプレーゼを乗せた。

 夕食を全て平らげてしまう頃、時計の針は午後十時に迫ろうとしていた。食卓で今日の出来事を一頻り話してしまった僕らは、秒針の音がこつこつと刻まれる静かなダイニングで互いに口を閉ざしたまま座り込んでいた。折り目正しく両手をテーブルの上に置いた僕の顔を、夕莉は時折ちらりと上目で窺う。

「遅くなっちゃったね」

 小さくそう言うのが聞こえた。僕は「うん」と返事をして立ち上がり、テーブルの上に残されている空いた皿をシンクへと運んだ。

「そのままでいいよ」

 僕は夕莉の言葉に従い、腕まくりを途中でやめてテーブルへと戻った。しかし、腰は下ろさず椅子の背もたれに掛けていた上着を羽織る。

「……学校に戻るの?」

 僕は頷いて見せた。夕莉は立ち上がり、「今夜、泊まっていったら?」と訊ねた。

「お父さんとお兄ちゃんの部屋が空いてるし、何なら私の部屋も使っていい」

 夕莉が「父」「兄」ではなく、「お父さん」「お兄ちゃん」と言ったのが可愛らしかった。

「いや、今日は戻るよ。戻らないといけない」

 僕はそう言って夕莉の瞳を見た。彼女は俯き、自分の履いたルームシューズの先をしばらく見詰めていたが、やがて顔を上げ、「分かった。でも、一つだけ許して」と言った。
 許す? 言葉の意味を理解するより早く、夕莉は僕の首に腕を回して柔らかなキスをした。拒む理由など無かったので、僕も彼女に唇を預けた。
 そっと体が離れ、赤く火照る顔を背けた夕莉は自分の部屋へと駆けていき、厚手の上着を手に戻って来た。

「送る」

 僕は首を横に振り、「玄関先まででいいよ。外は寒い」と言った。

「ううん、学校まで」

 彼女が冗談を言っている様には聞こえなかったので、「冗談だろ?」と僕は敢えて訊ねた。

「……本気」

「玄関先でいい。学校まで来たら、今度は僕が君をここまで送らないといけない」

 なんだか可笑しくなってきて、僕らは二人で含み笑った。諦めた夕莉は上着を椅子に放り投げ、もう一度僕に抱き寄ってキスをした。

「あなたのことが好き。初めて会った瞬間から、ずっと」

 僕は今度こそ彼女を優しく抱き返し、丁寧に唇を重ねた。
 玄関先で別れる時、「夕食ありがとう。美味しかった」と僕は言った。

「また明日、学校で」

 夕莉ははにかみながらそう返した。外に面する通路をエレベーターに向かって歩く間、彼女は玄関の扉を開けたまま僕を見送っていた。下矢印と七階の文字が点滅して箱が到着する。僕は乗り込む前にもう一度だけ夕莉を振り返った。彼女はまだこちらに手を振り続けている。本当に美しいなと溜息をつき、僕は最後に手を振り返してエレベーターへと乗り込んだ。

 その後、しばらく夜の街を放浪し、火照った身体を夜気で冷ました。今夜は夕莉の家に泊まらなくて正解だった。あのまま甘やかされ続けたら歯止めが効かなくなるのは目に見えている。僕らはまだ一つ屋根の下で夜を明かすべきではないのだ。夕莉は自分の危なっかしさに気付いているのだろうか。いやいや、と僕は頭を振った。自分も気を引き締めなくては。ネヴィル・シュートの『On The Beach』に登場するモイラも、タワーズ大佐も、実に崇高な人達だと僕は思う。
 結局、そのまま学校へ戻ることにした。警備員のいる守衛室を迂回し、図書館側に位置する背丈の低い柵を乗り越えて校内へと侵入する。図書館の西側に並ぶ窓の一番端は殆どの場合鍵を閉め忘れられているので、僕は出る時もそこを利用し、入る時もそこを利用した。
 二階の古書室へと続く階段の扉に内側から鍵を掛けた時、僕はなんとなく全身に鈍い怠さが付き纏っているのを感じた。ここ数日、色々なことがあって疲れが溜まっているのかもしれない。階段を上り切る頃には倦怠感は更に酷くなり、次第に目眩が起こり始めた。壁を伝って歩かなければ満足に前へも進めない程だ。

「……何だ?」

 そう呟いた時、視界が一挙にきらきらとした光の粒に覆われ、僕は立っていることすら出来なくなった。机まで這って行って固い椅子に腰を下ろす。いつしか光の粒は視界全域を真っ白に染め上げ、強烈な吐き気と酷い悪寒を連れて来た。僕は堪らず机の上へと突っ伏す。
 二十分程だろうか。そうやってしばらく目を閉じて過ごした後、ふと顔を上げると、いつの間にか光の粒は視界から消え去り、しんとした古書室だけがそこに佇んでいた。

「何だったんだ?」

 呟いてみたが、殆ど医学の知識がない僕の頭から答えが出てくることは無かった。
 喉が渇いた。そう思って立ち上がろうとした時、突然両目の奥に途轍もなく激しい頭痛が起こり始めるのを感じた。僕は机上へ覆い被さる様にうずくまり、目の奥で暴れる頭痛に冷や汗をかいた。それはあまりにも激しく、一向に引いていく気配がない。僕は堪らず古書室の床へ転げ落ちてしばらくそこでごろごろとのた打ち回っていた。
少し痛みが落ち着き、仰向けになって暗い天井を見上げていると、何者かの影が僕を見下ろしていることに気が付いた。

「苦しそうだな」

 獣が唸り上げる様な声。僕ははっとして、あの化物の顔が闇に浮かび上がるのを見た。

「お前か。一体何の用だ」

「用は無いさ。ただ見に来ただけだ」

「見に来た? まさかこれはお前の仕業か」

 化物は高笑いした。

「勘違いしては困る。俺は何もしていない。お前を観察しているだけだ」

「なぜ観察する必要がある?」

 化物がこちらへぐいと顔を近付けた。

「なぜ答える必要がある?」

 奴はそう言って顔を引いた後、僕の周囲をゆっくりと歩き回り始めた。

「お前の描いた絵は実に美しい。大したものだよ。あれから手元に置いて俺はあの絵に見惚れ続けていた。しかし、一つお前に問いたい。あの絵は本当に完成していると言えるのか?」

「……どういうことだ?」

「第三の条件。それを正確に満たしていると言えるのか、と訊ねているのさ」

 僕はしばらく返事に窮し、口を閉ざしていた。

「……何かまだ不満があるのか?」

「俺に不満はない。実にいい絵だ。しかし第三の条件を満たす、ということがどういうことなのかお前は失念しているのではあるまいな?」

 怖気に震えて僕は身を起こそうとした。

「まさか……」

「『命を捧げられるもの』とは何か。お前がその問いにどんな答えを導き出すのか俺は楽しみにしていた。そしてお前が導き出した答えは『愛』だった。愛する者の為になら命を捧げることができる、と考えた訳だ。だがお前の考える『愛』には相互の存在が必要不可欠だ。あの娘と共に居ることを望み、あの娘を一人にしないということが『愛』であるとするならば、お前が命を捧げるということは、あの娘への『愛』を放棄することになる。『愛』が放棄されれば、そもそもあの娘は『命を捧げられるもの』でさえなくなるのでは?」

 刺す様な痛みが眼窩を襲った。

「そんなものは唯の屁理屈だ!」

 高笑いが破裂する。

「屁理屈? よくそんなことが言えたものだ。お前がなぜあの娘を第三の条件に適する対象として選んだのか、その理屈すら自分で分かっていないくせに」

 すぐ傍に身を屈めた化物は大きな手をぬるりと伸ばして来て僕の首を掴んだ。

「教えてやるよ。お前の選択は自己陶酔に陥った果ての自己犠牲だ。つまり単なる『エゴイズム』なんだよ。お前はあの娘を愛しているが故にあの娘のためなら命を捨てて構わない、と考えた。しかし、お前があの娘の為に命を捨てたところで何も残らない。何の利益にもならない。お前が一人で『素晴らしいことをした』と勘違いしたままこの世を去ることになるだけだ」

 頭を起こそうとしたが、凍てつく奴の手に押さえられて少しも動かすことが出来なかった。

「……悪魔め! お前は一体どこまで僕を追い詰めるつもりなんだ?」

「まだあるぞ」

 僕は口内に溜まっていた生唾を飲み込んだ。化物はにやりと口元を歪める。

「第三の条件には『命を捧げられるもの』とある。つまり、この取引はお前の命が捧げられたことが証明されてこそ完成に至る、というものだとは考えなかったのか?」

「馬鹿な!」擦れた声で喚いた。

「それならこの取引はそもそも何の意味があるっていうんだ。お前が画才をくれるからその対価に見合う美しい絵を描く、という条件で交渉してきたんじゃないのか。第三の条件にある『命を捧げられるもの』というのは飽くまでも仮定の話で、それを現実にしてしまったらこの取引自体、本末転倒じゃないか!」

 化物はくっくっと堪え、やがて腹を抱えながら高笑いを始めた。

「お前は暢気だな。参ったよ、まったく」

 僕は冷や汗を浮かべつつ奴を見て、「まさか、最初から……」と震える声で言った。激しい頭痛は止むことを知らず、思う様に体へ力が入らない。

「やめろ。これ以上僕に関わるな。これ以上、僕に何かを求めるな!」

 訴える声は尚も震え、化物は更にげらげらと高笑いした。

「もう遅い。美味い話には必ず裏がある。そしてお前は最初から重要なことを忘れている」

「……何を忘れているって言うんだ?」

 訊ねる僕に顔を近付けた化物は、耳元まで避けんばかりの口でにんまりと憎らしい笑みを浮かべて見せた。

「お前が取引した相手は、恐ろしい『怪物』だっていうことさ」

 突然、極寒の海に叩き落された様な衝撃が僕の全身を覆った。瞬間冷凍さながらに凍り付いていく感覚。僕は酷い恐怖に襲われ大声を出そうとしたが、意識はあっという間に遠ざかり、底の見えない真っ暗闇な深海へと成す術もなく沈んでいった。


~つづく~

⇩次回(第7話)はこちら

⇩第1話はこちら


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