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小説「アウスリーベの調べ」第4話

 それからというもの、一体どれ程の間ぼんやりとした世界の中を彷徨い続けただろう。僕は自分の身に何が起きたのか知る由もないまま、ふわりふわりと月面を歩く宇宙飛行士の様に漆黒の世界と戯れていた。ある時ふと体が転倒し、水底へ沈む枯葉さながら意識がゆっくりと沈没していくのを感じた。徐に目蓋を開く。
 気付けば僕は美術室の固い床の上で仰向けに倒れ込んでいた。重だるい体をなんとか起こし上げ、その瞬間に眩しい光で顔を射られる。もたつく目元を両手で覆うと、閉め切られている筈の美術室の窓外から歌う様な小鳥たちの囀りが聞こえてきた。どうやら外は朝を迎えている様だ。

「……寝ていたのか」

 そう呟きながら立ち上がり、大きく背伸びをした。ふと僕の描いた絵がイーゼルの上に乗せられたまま朝日を浴びているのに気が付いた。まだ新しく白い陽光とは対照的な、終わりへと向かいつつある夕暮れの赤い光がよく映えている。絵の出来栄えには満足だった。しかし、奴は一体何が気に食わなかったというのだろう。第三の条件は個人の主観を超えた領域にあるものでなければならない、というのならば、奴の提示した条件全てを満たす絵など画才を得たところでえがくことは不可能なのではないだろうか。個人が命を賭すものが、客観的な基準に据え置かれるものであっていいのだろうか。それが罷り通ると言うのなら、そもそもこの取引とは……。
 僕は突然、凍てつく様な恐怖に襲われた。既に取引は破綻したのだ。今更内省を始めたところでもう取り返しのつかない事態となっている筈。僕はキャンバスから自分の身体へと視線を移し、全身を隈なく観察していった。一見、何の変化も起きてない様に思われる。肌は青褪めているが、これはきっと寒さにやられているからに違いない。化物は『肉体をもらっていく』と言っていたが、現にこうして僕の身体は存在しているではないか。なんだ、唯の脅し文句だったのか。ふうと溜息を零した、その時。誰かが廊下をこちらへやって来る足音が聞こえた。僕はびくりとして美術室の後方口を見た。少しずつ近付いて来る足音。立ち竦んだままじっと見詰めていると、後方口に姿を現したのは蔵満先生だった。
 僕は安堵して、「おはようございます」と彼に言った。しかし蔵満先生はじっとこちらを見詰めたまま美術室の後方口で立ち止まっていた。その顔に少しずつ驚きの表情が浮かび始める。やがて彼はゆっくりとした歩調で僕の傍へ歩み寄り、イーゼルの上に乗ったキャンバスに釘付けとなった。

「なんて美しい絵だ」

 僕は照れ臭くなって頭を掻いた。

「……相澤くんがこれを描いたのか」

 そう訊ねられたので、「はい」と返事をした。
 先生はしばらく顎を擦りつつ絵を鑑賞していたが、やがて「しかし相澤くん」と言った。

「しかし相澤くん、これを置いたまま帰ってしまったのかな」

 僕は途端に頭の中が真っ白になるのを感じた。全身を例え様の無い絶望感が襲う。化物との取引はやはり破綻していたのだ。肉体を奪われ、画才を没収されている。僕は震える声で、「蔵満先生?」と彼の横顔に呼び掛けてみた。しかし先生は顎を擦りながら、いつまでも僕の描いた絵を眺め続けていた。

 僕はその後、約七年間に渡り学校中を彷徨い続けた。肉体を奪われ、誰にもその存在を認識されることなく、空腹や暑さ寒さも感じずに、まるで亡霊さながらの時間を過ごした。
 肉体を奪われる以前には足を踏みいれることさえ出来なかった場所に侵入してみたり(望めば壁は容易に擦り抜けられた)、昼休みには多くの生徒が座り込んでお喋りに興じる中庭の真ん中で寝そべってみたり、試験中には三角関数の問題に難儀している生徒の耳元で答えを囁いてやったり、集会の時には話の長い校長の隣で腕組をして全校生徒を見下ろしてやったりした。しかし、誰も僕の存在に気付く者は居らず、淡々と季節は巡って生徒達や教師らの顔は移り変わっていった。僕は次第に虚しさを感じる様になり、やがて肉体を持つ人間を目にするのが嫌になった。何者も近寄らない薄暗い所に引き篭もって一人で過ごす方が心穏やかに居られた。
 そんな折、殆どの生徒や教師が近寄らない図書館二階の『古書室』なる場所を見付けた。そこには誰の手にも取られなくなった洋書や専門書が保管されている他、湿度や温度がほぼ年中一定に保たれているため学校の様々な貴重品がどっさりと保管されていた。古い時代に忘れ去られた蔵の様な雰囲気もあり、その場所は僕にとって大変自分好みと言えた。僕はその古書室を見付けてからというもの、唯ひたすらに本を読み続ける日々を過ごした。化物との取引が破綻して以降、絵を描きたいという意欲もすっかり消え失せ、専ら古い本の中で展開される空想世界に浸り込むことで僕は自分の眼前に取り残されている現実から目を背け続けた。

 そんなある日。古書室から一階へ下りる階段を、何者かがゆっくりと上って来る足音が聞こえた。書見台の傍に灯していた蝋燭の火を消し、じっと階段の降り口に目を凝らす。
 やがて一人の女子生徒が古書室へ踏み入って来るのが見えた。僕は彼女を見て思わず息を飲んだ。暗い室内であるとは言え、闇にすっかり慣れてしまっていた僕は一瞬で彼女のその美しさに目を奪われた。女子生徒は点灯した小さなペンライトを片手に薄暗い室内を静かに歩き回り始めた。僕は書見台を置いた机のスツールに腰掛けたまま彼女の姿を目で追い、何のためにここへやって来たのかしばらく様子を観察することにした。
 すると突然、「あの娘を美しいと思うか?」と唸り上げる様な声が耳元で聞こえた。僕は驚いてスツールから立ち上がり、咄嗟に背後を振り返った。そこには身の丈二メートルを超える大きな闇が揺らめいていた。僕はその闇に浮かぶ二つの青白い眼を見て、すぐに奴だと気付いた。じりじりと後退りし、化物の眼を睨み付ける。

「今頃になって現れたか。次は何を奪いに来た?」

 腹を抱える様に高笑いし始めた化物は、揺らめく闇の中からのっそりとその姿を現した。

「お前は傲慢だな。価値のあるものなどもはや何も持たないだろうに」

「うるさい。何をしに来たんだ!」

 奴はにんまりと不気味な笑みを浮かべた。

「お前にいい話がある」

 僕は両手に拳を作り、震えながらも奴と正面から対峙した。

「以前もそう言われてお前の話に乗ったばっかりに僕は肉体を奪われてしまった。信じるものか!」

 化物は愉快気に肩を竦めて見せた。

「すっかり疑心暗鬼だな。お前みたいな奴がチャンスを逃す」

「……黙れ!」

 化物は先程まで僕が腰を下ろしていたスツールに座り、ゆっくりと足を組んだ。

「俺はお前に、もう一度チャンスをやろうと言っているんだ」

「……チャンスだと?」

「そうだ。これから俺が提示する条件を満たすことができたなら、お前の肉体を返そう」

「……本当か?」

 化物はゆっくりと両腕を広げた。

「もちろんだとも」

「その条件とは何だ?」

 目の前に大きな手が翳された。緩慢な動きで指を折り始める。

「一つ。今日から十三日以内に一枚の絵を描くこと」

 次の指が折れる。

「二つ。画材にはキャンバスと油絵具を用いること」

 次の指が折れる。

「三つ。絵の対象は、お前が命を捧げても構わないものであること」

 僕は眉間に深く皺を寄せた。

「四つ。絵の質は、誰が観ても目を離せなくなるほど美しいものであること」

 最後の指を折った化物は、大きな口を歪ませてにんまりと笑った。僕は奴の挑発する様な眼を睨み付け、「前回と同じじゃないか」と言った。

「そうだとも。何か不満でもあるのか?」

「結果は前回と同じになるに決まっている」

 化物はゆっくりと立ち上がり、「やれやれ」と言って首を振って見せた。

「外罰的な奴に見込みはないな。俺はお前を買い被り過ぎていたようだ」

 やがて僕に背を向けた化物は、再び何処かへ消え去ろうと闇の輪郭を揺らし始めた。

「……待て」

 僕の喉から漸くその言葉が絞り出された時、奴はこの上ない程の喜悦を顔に浮かべてゆらりとこちらを振り向いた。

「完璧に条件を満たせば、必ず元の肉体を返してくれるんだろうな?」

 訊ねる僕に、化物は再び恭しく両手を広げて見せた。

「もちろんだ」

 一度だけ足元に目を落とし、こくりと生唾を飲み込む。成功すれば今度こそ全て自分のものになる。僕はゆっくりと奴に向かって手を差し出した。

「その話、乗った」

 途端に化物の黒い手がぬるりと伸びて来て、僕の手をじんわり掴んだ。

「……承知した」

 その瞬間、落雷に打たれた様な衝撃が全身を襲い、僕はあっという間に意識を失った。

 ゆらゆらと揺れる濃紺の暗闇。透き通る様な光芒がその僅かな間隙を貫き、ぼんやりとした視界の前で閃く。僕は全身を覆う冷気に身を委ねたまま、ゆっくりと何処かへ流されつつあった。仰向けに漂いながら少しずつ近付いて来る透明の膜を見詰め、あの向こうはさぞかし美しい空が広がっているのだろうな、と考える。
 茫漠とした希望に再び意識が遠のこうとし始めた、その時。「起きて」という声が突然聞こえた。はっと目を見開く。気付けば僕は暗い水中で無数の泡を吐き出しながら藻掻き苦しんでいた。後から後から水を飲み込み、肺が焼け付く様な痛みに襲われる。手足の感覚は次第に失われ、これで終わりだ、と諦めようとした時、もう一度「起きて」と願う声が聞こえた。僕は最後の力を振り絞り、頭上へ向けて手を伸ばした。今では幾筋もの光が煌めく水面の向こうから、美しい誰かが見下ろしている。

「……ねぇ、起きて」

 僕は水面を突き破った。

 がばりと身を起こし、激しく鳴る鼓動を耳元で聞いた。ここしばらく感じたことのない強い痛みが胸の中で脈打っている。

「……大丈夫?」

 鈴の音に似た声がすぐ傍で聞こえた。僕は声の主を一目見て、慌てて床に腰を付けたまま後退りした。埃を被った本棚に背中を強くぶつける。

「ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」

 彼女はそう言って怯える僕の傍へ静かにやって来た。そっと手に触れる。

「冷たい手。どうしてあなたはここで眠っていたの?」

 僕は酷く困惑しながら、そう問い掛ける女子生徒の目を見詰めた。

「……見えるのか?」

「え?」

「僕が見えるのか?」

 一瞬きょとんとした彼女であったが、やがてその美しい顔に静かな笑みを浮かべた。

「ええ、もちろん。見えているわ」

 僕は自分の手を見詰め、それから頭や頬、肩や胸、腹や腰、足や尻に触れてゆっくりと状況を理解していった。寒い。寒さを感じることのできる肉体が戻ってきている。喜びが腹の底から沸き起こったのも束の間、僕はふと強烈な不安と恐怖に襲われた。あのおぞましい化物と僕は再び取引をしてしまったのだ。奴の言っていたことから察するに、前回同様、画才を貸し付けられた上での『一枚の絵を描け』という案件なのだろう。するとこの肉体は戻ってきた、というより奴のものになった僕の肉体を僕自身に貸し付けている、と解釈した方が良いかもしれない。一度手にしたものをそう易々と手放す程、奴の気前がいいとは思えない。

「あなたは誰なの?」

 思案に没頭する余り、すぐ傍でじっとこちらを見詰める美しい瞳を忘れていた。僕は彼女を見て、「相澤優也」と答えた。

「この学校の人? クラスはどこ?」

「二年七組」

 静かにそう言うと、彼女が小さく息を飲むのが聞こえた。

「私も、二年七組」

 僕は「しまった」と思った。肉体を奪われてから七年もの月日が経過していることを忘れていた。訝しげに目を細めた女子生徒はもう一度、「……あなたは誰なの?」と訊ねた。
 返す言葉を見つけられなかった僕はすっかり俯いて黙り込んでしまった。耳が痛む程の静寂が僕らを包む。しばらくすると、彼女からそっと口を開いた。

「私は、芳松よしまつ夕莉ゆり

 容姿端麗な人だった。夕莉は僕がゆっくり顔を上げると、柔らかい笑みを浮かべて見せた。
 それから僕は彼女と言葉少なに語り始めた。物腰が柔らかく、好奇心を秘めながらも適度にコントロールし、自分の価値観だけで端から相手を否定する様な愚かさに走らない、実に聡明な人であることがすぐに分かった。話を聞くのが上手い夕莉に、僕はいつしか自分の身に起きた全てのことを語っていた。絵画のこと、化物のこと、画才と取引のこと、そして肉体を奪われてしまっていたこと。夕莉は僕の話すことに一度も眉をひそめることなく、唯々静かに、唯々誠実に耳を傾けてくれていた。

「じゃあ、あなたが肉体を完全に取り戻すには、条件を満たした絵を描く他にないってことね?」

 僕は小さく頷いて見せた。隣に腰掛けていた夕莉がゆっくり立ち上がり、揺れるスカートの裾に付いた埃を払った。

「美術室に行こう」

 僕は口を半端に開けて、彼女の顔を見上げた。

「あなたの絵、確かまだ美術室にあったと思うよ」

 心なしか夕莉の表情は楽しげに綻んでいた。

 昼休みの喧騒を避け、僕は夕莉と共に美術室へと向かった。彼女の話によれば美術教師の蔵満先生は昨年他校へと異動になってしまい、今は新しい教師が美術部顧問も兼ねて赴任しているとのことだった。ここ一、二年は古書室に籠っていたため、蔵満先生が他校へ異動してしまっていたことを僕は知らなかった。
 久方ぶりに美術室へ足を踏み入れてみると、どこか懐かしい絵具のにおいに胸が高まるのを感じた。そうやって僕が過去の記憶に浸っている合間、夕莉は颯爽と美術準備室の前へ赴き静かに扉をノックした。
「はぁい」というやや間延びした返事が聞こえたが、その声は確かに蔵満先生のものではなかった。ゆっくりと扉を開けて姿を現したのは、熊の様に大きな体をした髭の多い男だった。
「やぁ、芳松さん」とその男が言うと、夕莉はにっこりと親しげに笑い、
「こんにちは、崎村先生」と挨拶した。

「どうしたんだい?」

「先生が以前、私に見せて下さったあの『赤い絵』をもう一度鑑賞することは出来ますか?」

 夕莉がそう訊ねると、崎村先生は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「もちろん。やっぱり芳松さんも気に入っていたんだね」

 彼女はこくりと頷いた。準備室の中へ招き入れようとする崎村先生に、夕莉は一つだけ小さな咳払いをした。

「あの、先生」

「ん?」

「こちらの方なんですが、実はその絵を描かれた生徒さんらしいんです」

 夕莉が僕に手を翳してそう紹介してくれた。崎村先生がこちらを見たので、僕は小さく頭を下げた。しかし彼は、きょとんとした表情を浮かべたまま首を傾げて見せた。

「芳松さん、何を言っているんだい?」

 僕ははっとして夕莉を見た。彼女もまた驚いた表情で僕を見た。どうやら僕の姿は夕莉にしか見えていないようだった。

「あの……いえ、何でもないです」

 すっかり血の気が引いてしまった僕とは裏腹に、夕莉は冷静にその場を誤魔化してくれた。
 彼女のすぐ後に付いて美術準備室へ足を踏み入れると、早速、崎村先生が僕の絵を部屋の隅から持ち出して来てそっと夕莉に手渡した。

「……綺麗」

 絵を観てそう呟く夕莉の横顔に、胸が強く痛んだ気がした。彼女の隣から自分の絵を覗き込む。やはりその出来栄えには満足だったが、久しぶりに目にして僕は思わずゾッとした。化物に貸し付けられていた画才が本来備わっている僕の器量と混ざり合い、生み出された相乗効果は酷く恐ろしげな引力を放っていた。なんて悪魔的なんだ。唯の人間が成せる領域を遥かに超えてしまっている。言い表しようもない不気味さに慄いた僕は、すっかり言葉を失い閉口してしまっていた。するとキャンバスを大事そうに手にしていた夕莉が、

「結局、この絵を描いた男子生徒の行方は未だに分からないままなのですか?」

 と崎村先生に訊ねた。彼はゆっくりと頷き、

「前任の蔵満先生が酷く悲しんでいたよ。その絵を描いた男子生徒は繊細な画力と観察眼を持っていた上に、とても努力家だったらしいからね。蔵満先生は彼にとても期待していたのかもしれないなぁ」と言った。

 夕莉の瞳が、ちらりとこちらを一瞥するのを感じた。

「蔵満先生によると、この絵はまだ完成していないらしいんだ。もしかしたらその男子生徒がまたここへ戻って来て続きを描くかもしれないっていうんで、その時の為に当時のまま保管しておこうと蔵満先生から僕に託されたんだよ」

 僕はじんわりと視界がぼやけるのを感じた。当時の自分は劣等感や焦りに苛まれ、周りの様子が少しも見えていなかった。蔵満先生は僕の描いた絵をしばしば褒めてくれたりしていたが、それがお世辞ではなく心からの賞賛であったことに、僕は今更ながら酷く胸を締め付けられるのだった。

「じゃあ、この絵は本人が続きを描いてくれるのをずっと待っている、ということですね」

 夕莉がそう言ってこちらを一瞥したので、僕は鼻を啜りながら彼女から顔を反らした。

「僕も、きっとそうだと思っているよ」

 崎村先生も心なしか嬉しそうにそう言っていた。
 美術準備室を後にし、僕と夕莉は図書館へと繋がる渡り廊下をゆっくりと歩いていた。目前で、夕莉の結ばれた長髪の尾が軽快に揺れる。彼女は頻りに僕を振り返り、目が合う度にくすりと笑った。

「今日が取引の初日で、期日までにはまだ余裕がある。道具は美術室に揃っているし、題材だって『赤い絵』が残されている。となると、問題は第三の条件をいかにクリアするかってことになるわね」

「……その第三の条件が難しんだよ」

 擦れた声で僕がそう言うと、夕莉はくるりとこちらに身を向けた。

「優也くんって、これまで絵ばっかり描いてきたの?」

 僕は頭を掻いた後、小さく首を傾げた。昼下がりの陽光が二人の足元で穏やかに反射し、こちらをじっと見詰める夕莉の瞳を美しく輝かせていた。僕は何故か次第に顔が熱くなるのを感じ、さっと目を反らして腕組をした。

「本も沢山読んださ。映画だって好きだ。音楽も、どちらかというと邦楽は苦手で洋楽ばかり聴いていたけれど、何も絵ばっかりに時間を費やしてきた訳じゃない」

 すると夕莉が笑った。

「違うの。何も優也くんを絵のことばっかり考えている変人だ、なんて言ってる訳じゃなくて。その、なんていうか、誰かを好きになったりしたことはないの?」

「……基本、人があまり好きじゃないからなぁ」

「まあ、そんな気はしてたけど。でも一人ぐらいいるんじゃない? 小学生や中学生の時に仲の良かった子とか」

「……よく分からない」

 夕莉は小さく溜息を零した。

「それじゃあ、また体を奪われてしまうことになるよ?」

 僕は彼女の言葉に口先を尖らせる。

「『絵の対象になるもの』に人を選ぼうとした時もあったさ。でもすぐに却下したんだ。よく考えてみたら、人に対して自分の命を捧げることは間違っている様な気がして」

「間違っている、か」

と呟く様に言った夕莉は、涼風に葉先が揺れる近くの木立へと目をやった。

「でも、私なら……」

 僕は風に包まれた彼女の言葉を一瞬聞き逃した。「何?」と問うたが、
「ううん、何でもない」と言って夕莉は僕の背中を軽く叩いた。

「また明日もお話しよう」

 彼女はそう言って微笑み、手を振りながら教室のある校舎の方へと去って行った。昼休みの終了、その十分前を告げるチャイムが校内にしんしんと響き渡った。

 翌日の昼休み。夕莉は再び図書館へとやって来た。僕は『古書室』が生徒にとって立ち入り禁止の場所であることを知っていたので、一階へ下りて新刊の小説を捲りつつ彼女が来るのを待っていた。夕莉が姿を現し、昨日どうして二階の古書室へ彼女が踏み入ることができたのか理解した。夕莉は鍵のまとまったホルダーを手にしたまま、カウンターの椅子に腰を下ろしたのだ。

「図書委員だったのか」

 半ば呆れた様な顔で僕がそう言うと、柔らかい椅子に深く腰掛けた夕莉は得意げに笑みを浮かべ、「それでも古書室に入るのは駄目なんだけどね」と言った。小さな舌がちらりと出る。

「それで、あれから絵にする対象物は何か思い浮かんだ?」

 そう訊ねる彼女に、僕は肩を竦めて見せた。昨晩、夜を徹して第三の条件を満たすものについて考えを巡らしていたが、やはり相応しい対象を思い付くことは出来なかった。それもあってか、絵を描きたいという創作意欲もぱったりと失せてしまっていた。

「隣においでよ。お話しよう」

 夕莉はそう言って、カウンター前に立ち尽くしている僕をもう一つの空いた席へと手招きした。恐る恐るスタッフ通路を通り、彼女の隣に腰を下ろす。夕莉はにっこりと笑みを浮かべて見せたが、すぐに僕から目を反らした。昨日は一つ結びにしていた髪が、今日は綺麗に編み込まれている。それから彼女と談笑している最中に気付いたのだが、露になった小さな耳が驚くほどに赤く火照っていた。指先で摘まめばきっと火傷するほど熱かったのかもしれない。しかし僕は摘ままなかった。僕の指先だって、正確に彼女の耳を摘まめると言えないほどに緊張で打ち震えていたのだから。
 その後数日、僕らは昼休みの時間を図書館のカウンターで取り留めのない会話に費やした。五十分という短い昼休みは夕莉にとって貴重であったろうが、彼女は他の図書委員と担当シフトを交換してまで僕に会いに来てくれていた。


~つづく~

⇩次回(第5話)はこちら

⇩第1話はこちら


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