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小説「アウスリーベの調べ」第5話

 金曜日の放課後。夕日が照らす西校舎三階の渡り廊下に設置されたベンチで、隣り合って座る僕と夕莉は静かな会話に耽っていた。

「七年間、ずっと校内にいたの?」

「最初の数年はあの化物を探して学校中を彷徨っていたよ。でも最後の二年間はずっと古書室に籠って本を読んでた」

「何か面白い本でもあった?」

 うんと背伸びをしながらそう訊ねる彼女に、僕は「まぁね」とだけ答えておいた。

「自宅には帰ってみなかったの? 優也くんが失踪してご両親は心配されたんじゃない?」

 僕は小さく首を横に振った。

「帰れなかったんだ。学校の外へ出ようとすると、何故かまた敷地内に戻って来る。全部の門や柵越えを試してみたんだけれど、結果はどこも同じだった」

「……そうなの」

 夕莉は夕暮れの空を仰いで、遥か上空を行く鳥の群れを眺めていた。放課後の南校舎からは楽器の演奏するメロディーが絶えず聞こえてくる。もうすぐ開催される文化祭を前に、吹奏楽部が演奏曲の練習をしているのだろう。

「部活は、何もやっていないの?」

 そんな僕の問い掛けに、夕莉は苦笑しつつ小さく首を横に振った。

「私、集団行動が苦手なの。競い合うのも駄目。だから教室で授業を受けるのも大嫌い」

「マイペースなんだね」

「あなたほどじゃないけれど」

 僕らは互いに含み笑った。肌寒い秋風が二人の間を通り抜け、僕は夕莉が小刻みに体を震わせていることに気付いた。身に着けている厚手のものと言ったら制服の上着しか無かったので、僕はそれを脱いで夕空に視線を注いだままの彼女の肩にそっと掛けてやった。
「ありがとう」と言って夕莉は破顔する。僕はそんな彼女の顔をじっと見詰めた後、

「無理して僕に付き合う必要はないよ」と言った。

「……どうして?」

「僕はまともな存在じゃない。化物と恐ろしい取引もしてしまっている。結局、今回も駄目になって肉体を奪われることになるんじゃないかと思っているんだ」

 自分の手を夕闇の空に翳すと、寒さで血色が悪いのか青白く沈んだ色に見えた。僕はゆっくりと立ち上がり、グラウンドを見下ろせる渡り廊下の手摺にもたれた。

「いくら考えても分からないんだよ。第三の条件に合う『自分の命を捧げられるもの』ってやつが……」

 午後六時を報せる音楽が街の遠くから聞こえてきた。今日はグラウンドでサッカー部が練習をしていて、蹴られたボールの音が「どんっ」と校内で何度も反響する。

「封を切ればいいのかも」

 夕莉の静かな声が背後から聞こえた。

「……封?」

 そう言って後ろを振り返った時、ふわりと甘い香りがやって来て、酷く柔らかいものが僕の頬に触れた。胸元に置かれた小さな手が少しだけ震えながらキュッと固く閉じる。
 僕は不思議だな、と思った。体を奪われる前の自分も、体を奪われていた七年間の自分も、そして今ここにいる自分も、つい先程まで全てが別人の様に感じられていた。しかし特別に色彩豊かな芳香を放つこの一瞬は、記憶が始まる以前から一貫して自分の感受性を成すその底流に横たわり続けていた鮮やかな情動を思い出させてくれた気がした。
 やがて傍を離れた夕莉は、頬を赤く染めた顔でしばらくこちらをじっと見詰めていた。僕はすっかり言葉が喉に詰まってしまい、彼女に何も言うことが出来なかった。夕莉はくすりと小さく笑い、「もう一度、考えてみて」と言った。それから肩に羽織っていた制服の上着を押し返し、颯爽と渡り廊下を走り去って行った。

 その日の夜。僕は夕莉のキスを忘れられないまま、古書室の窓辺からぼんやりと月を見上げていた。秋は深まりつつあり、空気の澄み切った夜空で月は酷く美しい白に輝いている。
 化物に肉体を奪われてからというもの、虚しさに任せて校内中を彷徨いながら時折夜空を見上げたりしたが、一度もそこに浮かぶ月の美しさへ心を奪われたことはなかった。久方ぶりに開いた古書室の窓から差し込む月光は、空中を漂う僅かな埃さえもきらきらと輝かせている。僕は古書室の奥に捨て置かれていた古いデスクを窓辺まで引き摺っていき、その上に大小様々な古紙を広げて短い鉛筆でさくさくとデッサンを描き始めた。次から次へと目に浮かぶ夕莉の顔、姿、出で立ち、長い髪、細かい所作。目蓋の裏に現れては消えていくそれらを、僕は全て正確に自分の記憶に留めて置ける程の器量と要領を持ち得なかったので、必死に古紙の上で鉛筆を滑らせながら描き留めていった。
 気付けば僕は夕莉のデッサンを数十枚と描き続けていた。目を奪われるほどに美しく、心を奪われるほどに愛らしい。紙上に現れる彼女と目が合った時、ふと鉛筆を持つ手の動きが止まった。
『自分の命を捧げられるもの』。もしかしたら彼女がそうなのかもしれない。しかし、その判断に僕は完全なる自信を持つことが出来なかった。自分の命を捧げても構わない対象とはつまり、自分がこの世からいなくなったとしても、そのものだけは永遠に在り続けて欲しい、という願いを具現化したものでもある。
 ぽろりと鉛筆が手から転げ落ちた。
 僕は彼女に命を捧げられるのだろうか。それは決して夕莉が自分の命を投げ打つに値しない人であるということではない。僕は彼女ともっと話をしたいと思った。もっと彼女と一緒にいたいと思った。その上で、この命を捧げる事なんて出来るのだろうか。出来たとしても、それは彼女と共に居たいという意思を打ち消すものであり、そんな意思を打ち消すことができる時点で彼女は僕にとって命を捧げられる存在ではない、というのを認めてしまうことになりはしないだろうか。矛盾する二つの意思を重ね合うことなど果たして出来るのだろうか。
 一頻り頭を抱えた後、窓からそよぎ込む夜風に僕ははっと我へ返った。化物から言い渡されている期日までにはまだ九日ある。夕莉と話したり、共に過したりする時間はまだ十分あるのだ。その間に僕の心もやがてはっきりと輪郭を成してくるのではないだろうか。
 机上に転がり落ちていた鉛筆を拾い上げ、僕は再びデッサンの続きを描き始めた。

 しかし週が明けて以降、夕莉はぱったりと僕の前に姿を現さなくなった。会いたいという思いだけが徐々に膨張を続け、同時に焦りや不安も目を覚ます。自分の内側に沸き起こる雑多な感情を無視しようとデッサンに注力したが、次第にそれは手に付かなくなっていった。
 僕はとうとう気持ちを抑え切れなくなり、鉛筆を一本折ってしまったタイミングで夕莉のいる二年七組の教室へ足を運ぶことにした。教室に辿り着くと、夕莉は後方の席で静かに授業を受けていた。気付いた彼女がこちらを見たので小さく手を翳してみたが、夕莉は何事もなかった様に再び授業を聞き始めた。僕は頭上から多量の冷や水を浴びせられた様な落胆を感じた。それはここ数日の内に膨れ上がった夕莉への想いと、自分の内側だけで巻き起こる妄想の規模が大きい程に凄まじい威力を伴うものであった。僕はがっくりと肩を落とし、誰もいない孤独な古書室へととぼとぼ引き換えして行った。
 その後、すっかり気落ちした僕は、古書室に籠ったまま鬱々とした無為な時間を過ごした。五十枚を優に超えるであろう夕莉のデッサンは辺りにばら撒かれ、僕は床の上で仰向けとなって何度も何度も深い溜息を零しながら、だらだらとした不貞寝を繰り返した。

 そうして時間だけが流れ、いつしか化物が条件で示した締め切り日の二日前の朝を迎えてしまっていた。開けっ放しにしていた古書室の窓から朝日が差し込み、その眩しさと鳥の囀りに目を覚ました僕は、胃の辺りに軽い痛みを感じると同時に腹の虫が音を上げるのを聞いた。購買部からこっそり盗んでいたパンや弁当はすっかり食べ尽くしてしまっていたため、今朝食べられるものなど一つも持ち合わせてはいなかった。
 僕は冷たく固い床に寝転んだまま、自分の掌を天井へ掲げた。

「どうせ奴にまた体を奪われるんだろうし、空腹なんて関係ないな」

 重たい溜息が、ふうと零れる。
 とその時、かたんという音がして開いた窓から何かが転がり込んできた。驚いて体を起こすと、サイコロ大の小さな石が床に転がっているのを見付けた。徐に立ち上がり、窓辺に寄って階下を見下ろす。どうやって石がここまで飛んで来たのかすぐに分かった。

「どうしてずっと出て来ないの? 私、その部屋にはもう入れないのに」

 口を「へ」の字に結んだ夕莉が僕を見上げてそう言った。

「……だって、君はもう僕と関わりたくないんだろ?」

「どうしてそう思うの?」

 夕莉が腕組をする。

「君はあれから全く図書館に来ないし、教室でも無視したじゃないか」

 口先を尖らして僕がそう言うと、夕莉は小さく溜息を零した。

「優也くん。あなたはもう何年もそうしているから忘れているのかもしれないけど、学生には試験っていうものがあるのよ」

「試験?」

「中間考査。言ってなかったけど、この一週間はテスト期間だったの。それが昨日漸く終わったところ。放課後には様子を見に来たのに、優也くん何処にもいないし名前を呼んでも何も答えないんだもの」

 僕は「そうだったのか」と小さく呟いた。

「優也くんにもやらなきゃいけないことがあるから気にしないよう黙っていたのに、逆効果だったかしら」

「君がいきなりキスなんかするからだろ」

夕莉はお腹を抱えて笑い始めた。

「あなたって、可愛いのね」目元に滲んだ涙を拭く。

「なんで笑うんだよ」と僕が不貞腐れていると、夕莉は図書館の入口の方を指差し、

「一階に降りて来て内側から開けてよ。まだ事務室が閉まっていて鍵を取りに行けないの」

 と言った。午前七時を告げる音楽が街の向こうから聞こえてきた。
僕は彼女に小さく頷いて見せ、一階へと続く階段を駆け降りる。静かに開錠して図書館のエントランス扉を開けると、にっこり笑みを浮かべた夕莉がそこで待っていた。

「おはよう。優也くん」

 僕はその時、全身を巡る熱いものに気が付いた。きらきらと白む朝日を浴び、後ろ手を組んでこちらを見詰める夕莉は息を飲むほど美しかった。
しばらく図書館の一階で言葉を交わし、僕は夕莉が持って来てくれたサンドウィッチを食べた。その後、彼女は「朝課外があるから」と言って再び教室へと帰り、手を振って別れた僕は図書館のエントランス扉に施錠して古書室へと戻った。
 夕莉を描いた五十枚超のデッサンが床一面に散らばっている。それらをゆっくりと見渡し、ある一枚に自然と目が留まった。そっと拾い上げたその紙上には、後ろ手を組んでこちらへ微笑みを浮かべる夕莉の姿が描かれていた。次第にその背景に夕暮れの赤が滲んでいく。僕は無意識に笑みが零れるのを感じた。美しい絵の完成を予感した。

 その日の放課後。崎村先生の出張を機に美術部が活動休止していることを夕莉から聞いた僕は、橙色の陽光が差し込む美術室の一角で絵を描いていた。キャンバスにはどこまでも伸びる夕暮れの廊下が赤を彩り、映り込む教室の隅には所々小さな影が燻っている。僕はその『赤い絵』の上に、下書きなしで絵具を乗せていった。正直、下書きをしている時間さえ惜しかった。絵を描き始めた僕の目の前には、モデルを務める夕莉が静かに立っていた。

「きつくなったら、我慢せずに声を掛けて」

 キャンパスに絵具を乗せつつそう言うと、「大丈夫」と夕莉が小さく返事をした。
 軽い油彩筆は完全に身を預け、僕はキャンバス上で思いのままに絵を描いていった。見る見る内に夕暮れの世界へ夕莉が姿を現し始める。時折、現実の彼女は美術室の窓外へ視線を向け、静かに微笑んでいる様に見えた。ずっとこの時を待ち侘びていた、とでも言いたげなその姿は、非の打ちどころがない程の美しさに満ちていた。
 化物が指折り示した各条件。その全ての項目がジグソーパズルのピースさながらに組み合わさっていく。やがて吸い込まれる様な静寂が訪れ、僕はそっと絵筆を置いた。

「……できた」

 夕莉が静かに隣へとやって来て、キャンバスに描かれた絵を覗き込んだ。その呼吸は一瞬止まり、喉がこくりと鳴るのが聞こえた。

「優也くん」

 そう呟いた夕莉に顔を向ける。彼女は僕の瞳を見詰めた後、そっと小さな口を開いた。

「……間違ってないよね」

 僕は頷き、「間違ってない」と答えた。
 そうしてしばらく見詰め合っていた折、僕らの背後へゆっくりと近付いてくる何者かの気配を感じた。振り返ると、青白い眼をした化物がじっとこちらを見て佇んでいた。奴は完成したキャンバス上の絵に釘付けとなっている。ぽかんと空いた口元から、獣が吐き出す様な長い溜息が漏れ落ちるのを聞いた。化物は静かにイーゼルから僕の絵を掴み上げ、しばらく間近に見入った後、大きな手をぬるりとこちらへ伸ばしてきた。

「よかろう。約束通り体を返す。そして、この絵の力は紛れもなくお前のものだ」

 僕は笑みを浮かべ、奴の凍える様な冷たい手を力強く掴んだ。
次の瞬間、カッと胸の奥が燃え上がり、全身が一時に熱を帯び始めるのを感じた。血液が抹消まで隈なく巡り、閉じていた血管壁を押し広げ、仮死状態だった肉体の全てを蘇らせる。青白く沈んでいた肌の色は緩やかに赤みを取り戻し、心なしか体が軽くなった様に感じた。

「戻った!」

 両手を天井に掲げて歓喜の声を上げた。途轍もない達成感に全身が震える。傍にいた夕莉が静かに歩み寄り、僕を優しく抱き締めてくれた。細い腕越しに彼女もまた身を震わせていることに気が付いた。

「ありがとう。夕莉」

 耳元で彼女に向かってそう告げると、夕莉は小さく首を横に振った。

「……おかえり」

 化物と僕の描いた絵は、しばらく二人で抱き合っている間にどこかへと姿を消し去っていた。
 ややあってそろりと身を離した時、「なんだか少し、大人っぽくなったね」と夕莉に言われた。僕は美術室の手洗い場に設置されている鏡を覗き込み、首を傾げた。大人っぽくなった? 勝手知ったる自分の顔が、少しだけ以前と違っている様に見えた。化物から肉体を取り戻したついでに流れていた七年という月日が戻って来たのであろうことはすぐに察しが付いたが、それ以外の違和感があった。僕の顔はこんなにも鼻筋が通り、目の形は大きかっただろうか。全体のバランスも整っていて、まるで自分ではない様に見える。亡霊の様に彷徨っていた七年の間、僕は鏡を覗いたことも覗こうと思ったこともなかった。そこにさえ自分の姿が映らないのではないかと怖かったからだ。
 しばらく鏡の前で顎を擦っていると、
「そう言えば優也くんって何歳になるの?」と夕莉に訊ねられた。

「十六から七年だから、二三かな」

 夕莉が口元を手で覆いながらくすりと笑う。

「年齢だけは大人」

 年齢だけはって何だよ、と言い返そうとした時、彼女がそっと僕の頬にキスを寄越した。

 肉体を取り戻した日の夜。どこにも行く宛の無かった僕は、結局図書館二階の古書室にしばらく潜伏して今後どうしていくのかを考えることにした。夕莉は、「自宅に戻ってみるのはどう?」と提案してくれたが、七年も姿を晦ましていた果て、一体どんな顔で両親と会えばいいのかさっぱり分からなかった僕は「やめとくよ」と首を横に振った。もしかしたらそれは唯の言い訳で、今更彼らに会うのが酷く怖かっただけなのかもしれない。帰りたい、という思いは強くあったものの、それを実行に移せる程の覚悟を持つことが出来なかった。
 住み慣れた古書室の床に転がり、開いた窓から今夜の月を見上げた。陽が落ちる前に「今日はもう帰らなきゃ」と言って去って行った夕莉の後姿がぼんやりと思い出される。
 これからどうしようか。窓外から肌寒い夜風が吹き込んで来て、僕は小さく身を縮めた。七年というもの間、亡霊の様に校内を彷徨い続けながら暑さや寒さ、空腹さえも感じずにいられたのは、今思えばとても気安いことだったのかもしれない。僕はもはや生身の肉体を持つ唯の人間。いつまでもここに引き篭もっている訳にはいかない。自ら生きていくことを選んだのだから、外の世界へ出て生きる術を探すほか無いのだろう。
 この世界に、僕の生きるスペースはまだ残されているのだろうか。

 二日後、世間は日曜日を迎えていた。昨日、食べ物と何着かの男物の衣服(兄の古着らしい)を持って遊びに来てくれた夕莉の誘いを受け、今日は隣町に住む画家のアトリエを訪れることにした。日曜日は各部活動も休みで生徒が居らず、在中している警備員も殆ど巡回しないと知っていたので、僕は容易く図書館を抜け出し校外へと外出することが出来た。
 午前十時に南校門で私服の夕莉と待ち合わせをし、その足で電車に乗って隣町へと向かった。

「約束は昼過ぎだから、少し街を歩こうよ」

 夕莉の提案に僕は頷いた。駅前のアーケード街をぶらぶらしながら、七年という月日の流れを感じた。中学生の頃に隣町へはよく遊びに来ていたし、このアーケード街もよく一人で歩き回った。特色の異なる古本屋が数店、のきを連ねているので、休みの日には全てを回って掘り出し物を発掘するのが当時の喜びになっていた。僕はシャッターの閉じられた或る古本屋の前で立ち止まり、しばらく色褪せた看板を眺めた。賑わっている他店とは異なり、そよ吹く風に錆び付いたシャッターがカタカタ物音を立てるのを聞いていると、なんとなく胸の奥から寂しさが沸き起こってくるのを感じた。
すっと夕莉の手が伸びて来て、柔らかく僕の腕に絡む。

「後悔してる?」

 僕はそう訊ねる彼女を見た。すぐ傍にある形の良い瞳が、じっとこちらを見詰めている。

「そんなに強欲じゃないよ」

 夕莉が「ふふっ」と笑った。

「良かった。誰かの後悔を救うなんて、他人にはできないことだから」

 今日は自然に流した彼女の髪から、ふわりと淡いシャンプーの香りがした。
 それから僕らは近くの公園へ寄って、夕莉が作ってきてくれた弁当を一緒に食べた。街にある店でランチをしようにも僕は現金を持たないし、端からそのことを知っていた夕莉が気を遣ってくれたに違いない。子供達が遊ぶ遊具や砂場から遠く離れた木陰のテーブルで、正方形と長方形の宝箱が開く。

「その画家さんね、凄い人らしいんだけど、普段は表に出ることが殆どなくて一日中アトリエで絵を描いているものだから、近所の人達も彼のことを良く知らないし、気難し屋な変人って思われているみたい。でも本当は、とても優しくて親しみやすい人なんだよ」

 私服姿の夕莉の瞳は、正午に迫る鮮やかな陽光の反射を受け、キラキラと美しく光り輝いていた。僕は彼女の作った甘い卵焼きを頬張りながら、もっと色々な背景の中に佇む夕莉の姿を描いてみたいと思った。何かの契約で託された仕事を成すためでもなく、何かの呪縛から解放される手段として利用するためでもなく、唯々純粋な欲求として彼女を描きたいと思った。

「だから気負うこともないし、緊張する必要もないと思う。とにかくその人の絵を優也くんに一度観てもらいたいの。きっと、私には分からないものを感じ取れるかもしれないから」

 さくりとレタスの葉を噛んだ。

「ありがとう。夕莉」


~つづく~

⇩次回(第6話)はこちら

⇩第1話はこちら


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