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短編小説「君を探しに」

 いつしか僕は、大粒の涙を零しながら夜道を歩いていた。
 重々しい曇天には星の瞬き一つなく、夜道を点々と照らす外灯が街外れの暗がりまで続いている。僕の背中を照らす都会の明かりが今では随分と遠ざかってしまっていた。
 僕は一体、どれくらいの時間、どれくらいの距離、この暗い夜道を歩いて来たのだろうか。

 昨夜、たった一人の親友が僕の家を訪れた。彼に会うのは20歳の時以来なので久しぶりの再会がとても嬉しかったが、彼は浮かない顔で僕の目を一瞥してからというもの、俯いたまま椅子に座り込んでいた。
 しばらく時計の針の音を聞いた後、

「・・・あれから、どうしていたんだい?」

 と訊ねてみた。
 すると彼は小さく息を吸って、

「・・・大学を辞めたんだ」

 と答えた。

「それからは・・・しばらく引き篭もってた」

 翌朝、仕事がある僕は、布団に巻かれてぐったりと眠る彼を置いたまま家を後にした。酷く疲れ切っている様子だった。行く当てもなく、頼る人もなく、最後に彼は僕のことを思い出して訪ねて来てくれたのだろう。

・・・今日の仕事が終わったら、二人で夕食でも食べに行こう

 そう、思っていた。しかし僕が仕事を終えて家に帰ると彼の姿は無かった。僕は慌てて家を飛び出し、夕暮れ時を過ぎた近所を探し回った。どこかで蹲っているかもしれない。どこかで倒れているかもしれない。もしかしたらどこかで・・・。
 脳裏に浮かんだ彼の後姿が暗闇に消えていく様な気がして、僕の呼吸は次第に浅くなっていき、やがて胸が詰まった。

・・・どうして傍に居てやらなかったのだろう、どうして仕事が終わったらなんて悠長なことを考えていたのだろう

 いつしか僕は、大粒の涙を零しながら夜道を歩いていた。
 街灯も途切れた真っ暗な道を当てもなく歩いた。いったい彼は何処に行ってしまったのだろう。寒くして居ないだろうか。腹は減って居ないだろうか。
 ふと見上げてみると、先程までどんよりと夜空を覆っていた雲は晴れ、そこには無数の星が散りばめられていた。

「そう言えばあいつも、星を見るのが好きだったな」

 そんなことを呟いていた。
 歩き疲れた僕は道端に腰を下ろして涙を拭った。鼻を啜る音以外には何も聞こえない。虫の音も、風の音も、遠くから響いて来る夜の街の音も、その一切が僕の耳には聞こえなかった。
 もしかしたら、僕は普段からそうだったのかもしれない。
 大人になってしまった僕は仕事に追われて時間に急かされて、社会でよしとされる価値観や基準にばかり気を取られてしまって、それ以外のものには耳を閉じていたのかもしれない。目も閉じて、口を塞いでしまっていたのかもしれない。
 だから僕には、彼の本当に言いたいことが届かなかったのだ。僕は自分が情けなくなって何度もかぶりを振った。僕だって何度も挫折や失敗を経験して、その度に何かを知ってきた。何かを悟った様な気持ちになっていた。しかしそれは「悟り」なんていう大層な代物ではなく、単なる独りよがりな学習でしかなかったのかもしれない。知識や経験が蓄積されていくだけで、自分と向き合った事なんてほとんどなかったじゃないか・・・・。

 僕はゆっくりと立ち上がり、星の瞬く夜空に訊ねてみた。

「大学では何の勉強を?」

 すると、

『・・・天文学』

 と答える声が遠くから聞こえた。

「どうして・・・辞めてしまったんだい?」

『・・・・・・』

「講義がつまらなかった?」

『・・・そうじゃない』

 その先の言葉に詰まった声を、僕はしばらく待った。すると、

『怖くなったんだ』

 と声が言った。僕は少しだけ自分の握り拳に力が入るのを感じた。

「何が?」

『・・・将来』

 溜息を零した僕は、いつしか小さな苦笑いを浮かべていた。

「そして大学を辞めた後、仕事をする為に資格の勉強を始めた」

『でも、少しも進まなかった』

「大学を辞めて実家に帰ったけど、焦りと劣等感と後悔と不安で押しつぶされそうだった」

『毎日が辛くて、勉強に身も入らなくて、何をやっても上手くいかなくて、もう何も見えなくなった』

「悪循環だったなぁ、何もかも」

 僕がそう言うと、『ほんとにね』という声が聞こえた。

「結局、資格なしで今の職場に就職できたけど、本当は何も解決なんてしてないんだよな」

 そう呟いた時、不意に耳元を風が通り抜け、辺り一面から虫の声が聞こえ始めた。
 僕は小さく息を吸い込んで、そっと訊ねてみた。

「君は今、どこにいるんだ?」


 ぱんっ、と弾けた夜空は忽ち真っ赤な朝焼けの空になり、気付けば僕は大学の講義棟の屋上に寝転んでいた。何が起きたのか、さっぱり分からないまま慌てて上体を起こすと、僕の隣では3人の学生が鼾をかいて眠っていた。皆、見覚えのある顔ばかりだ。
 その時、ふと僕の前に大きなものが立っていることに気付いた。輝き始めた朝日に目を細めてその大きなものをよく見てみると、それは天体望遠鏡だった。
 思い出した。僕は大学の同じ研究室の連中と夜通し天体観測をしていて、疲れ切っていつの間にか眠ってしまっていたんだ。まだ起き掛けの体で立ち上がってみると、少しだけふらついた。しかし、自分でも驚くほどの解放感に胸は満たされていた。自分の掌に瞳を落とし、開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。

「・・・夢だったのかな?」

 そう呟いた時、『そこにいたのか』という声が聞こえた気がした。しかし周りを見渡しても、まだ眠っている3人の鼾ばかりが踊っていた。

 僕はもうすぐ大学3年になる。同期らは一般企業への就職活動を始め出した様だし、自分も焦りと不安を感じているのは否めない。しかし、それは僕自身にとって真実なのだろうか。

—— 学生の内にめいいっぱい遊んでおくといい。社会に出てから後悔しない様に

 そんな言葉をよく耳にする。でも僕は信じない。遊ぶために大学に入った覚えはそもそもないのだ。僕は天文学が好きだ。これからもとことん勉強して、とことん研究してみたい。

『きっと大丈夫さ』

 まだ腹の底で微かに震える感情を携えた僕の耳元で、
 そう言う確かな声が、聞こえた気がした。


< 終わり >

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