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小説「美しい郷」 第一話

 鋤を使って畑を耕していると「おい、ようすけくん」と声を掛けられた。隣に住む吉平さんだ。吉平さんは今年で八十四歳になるが、足腰もしっかりしていて二十代の僕が驚くほど元気である。
「トマトはいらんか」
 納屋越しに声をかける吉平さんの手には育った苗のポットが二つ握られていた。
「あ、欲しいです」
 僕は額の汗を拭いながら吉平さんの元へ向かい、立派に育った苗を受け取った。
「今日は何を植えおる?」
「きゅうりです」
「きゅうりか。実がなると美味いもんな」
「美味いです。夏はきゅうりに限ります」
「そうやな」
 ニッと笑う吉平さんは前歯が何本か欠けている。
「手はどうですか?」
「ああ、まだ痛いけんどいくらかマシになった」
 吉平さんは先週畑で転んで左手首を痛めていた。折れずに済んだものの、まだ左手の使い勝手は悪そうで、毎日の畑仕事も右手だけを使ってやっている。
「手伝えることがあったら言ってください」
「ああ、そん時は頼むわ」
 それだけ言うと、吉平さんは再び自分の畑へと戻っていった。僕は貰ったトマトの苗をさっそく自分の耕した畑に植えた。苗と苗との間は五十センチほど。植えた後にはすぐ水を撒き、根の周りの土を締める。吉平さんからそう教えてもらった。
 ひと仕事終えて背筋を伸ばすと、初夏の太陽が山の稜線の向こうに少しずつ沈み始めていた。ここは深い山間にある限界集落。日の出は遅く、日の入りは早い。
 裏の畑から家の庭に戻ると、どこからか炭を焼く匂いがした。子供がはしゃぐ声も聞こえる。僕は農具と長靴に付いた土を水道で洗い流しながら、「バーベキューか」と微笑んだ。バーベキューをしているのは二軒隣の川島さんで、川島さん一家は八年前に他の県から移住してきた大家族だ。僕は二年前にこの集落へ移住してきて、フリーの仕事をしながら細々と暮らしている。住んでいる家は自治体が運営する空き家バンクのサイトで探して問い合わせ、役場の人、大家さんと共に内覧をして決めた。大正時代に建てられた築百年を超す古い一軒家だったが、台所や洗面所、風呂場なんかは平成前期にリノベーションされているので使い心地は良い。
 洗濯機に汚れた服を放り込み、ひとシャワー浴びて夕食の準備をした。刻んだ大根と人参、キャベツ、玉ねぎ、冷凍しておいた鶏むね肉に缶詰のカットトマトを入れて煮込んだ簡単なトマトスープが出来上がる。調味料に市販のコンソメを入れるのもいいが、最近は出汁を入れるのも悪くないことを知った。
「さて、そろそろか」
 台所の時計を見ると、午後五時半を少し過ぎようとしていた。炊飯器から炊き上がりのメロディが流れた時、がらがらと玄関が開いて「ただいまぁ」と疲れた声が聞こえた。
 広い土間に顔を覗かせて、「おかえり」と伝える。みっちゃんが仕事から帰ってきたのだ。みっちゃんは僕より二つ年上で、役場に隣接する社会福祉協議会で働く保健師さんだ。通称「社協」の地域包括支援業務で地域に住む高齢者の介護予防ケアプランを作成している、という話を彼女から聞いた。
「お腹すいたぁ」
 框に荷物と腰を下ろしたみっちゃんがそう呟き、「できてるから食べようか」と僕が言うのが毎度の習慣になっている。
 八畳の居間で小さなテーブルを二人で囲み、僕が作ったトマトスープと麦ご飯、玉ねぎのらっきょう酢漬けを食べながらタブレットで一緒に動画を観る。みっちゃんがお気に入りなのは家庭料理を屋外で作る動画をアップしているアゼルバイジャンのチャンネルだ。見慣れない中東の料理が最初から丁寧に作られていくのを見ているのも楽しいが、何といっても見どころは動画に出てくる人や動物の長閑な暮らし、そして自然の美しさだろう。僕も彼らの味のある暮らしにすっかりはまり込んでしまった。アゼルバイジャンの情勢はもちろんネットで知っていた。それでも動画の彼らの自然な暮らしはとても美しく見えた。
 夕食を食べ終わると、みっちゃんが皿を洗ってくれる。彼女曰く、仕事の愚痴を聞いてくれるお礼、ということらしい。食事の提供ではなく。
玄関まで見送って、「また明日」と別れる。みっちゃんは余ったトマトスープと麦ご飯を明日の弁当代わりにパック詰めして持って帰る。
「なんか段々、美味しくなってきてるよ」
 シンプルな料理が実は一番繊細で難しい、と普段まったく料理をしない彼女が言う。
 みっちゃんの姿が夜の闇に消えていき、僕は玄関を閉めて居間へと戻る。一人でいる時は動画を観る気になれないので、僕はひたすら本を読むか書きものをして過ごす。山間の集落は日が暮れるとすぐに冷え込み、初夏でも何枚か重ね着が必要だ。山深くに住んでいると、人間が幾らか暮らしていたとしても夜になれば僕らの出番は終わる。みしみし、ごそごそ、ばたん、どたどた。色んな物音がそこら中から聞こえてしんと静まることがない。あえて言うなら真冬のきんと冷えた夜だけが静かで、それ以外はざわざわとして落ち着かない。
 移住してきてこの二年、色々なことがあったが、それも含めて少しずつここで話をしていこうと思う。

< つづく >


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