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小説「アウスリーベの調べ」第3話

 翌日の昼休み。沙耶は美術準備室へ来るよう崎村から呼び出された。教室を出る折、他の女子達に囲まれた美咲が心配そうな顔でこちらを見ていたが、「大丈夫」と笑みながら口だけ動かし言ってやると、彼女も小さく頷きながら笑い返してくれた。
 美術室は相変らず異様な程の静けさに満ちていた。かつては好ましい場所であったが、今の沙耶にとってはすっかり不安と恐怖を助長させる不気味な空間に様変わりしていた。
 足早に美術室を通り抜け、奥の準備室前に赴く。扉をノックすると、「はい」という静かな返事が聞こえた。沙耶はそっと扉を開け、「二年二組の木村です」と告げて室内を覗き込んだ。物が散乱した部屋の奥から、深刻そうな顔をぶら下げた崎村先生がのそのそと姿を現す。いつもの柔らかい雰囲気は消えていて、沙耶は少しだけ彼に恐怖を感じた。しかし、

「木村さん、来てくれてありがとう。昼休みに呼び出してすまないね」

 そう言う崎村の声は勝手知ったる穏やかさを保っていたので、沙耶はそっと胸を撫で下ろした。

「どうかされたんですか?」と彼女が訊ねると、崎村先生はしばらく物思いに耽った後、「絵が無くなったんだよ」と言った。

「絵ですか?」

「うん。先日、肖像画を受け取りに来た時、君に見せた赤い絵だよ」

 そう言って先生は物に溢れた準備室の端を指差して見せた。沙耶ははっとして、あのつい引き込まれてしまいそうになる夕暮れの絵を思い出した。かつてキャンバスが裏返しに立て掛けられていた場所には何も置かれていなかった。
 一つだけ小さな溜息を零した崎村は気まずそうに頭を掻きながら、

「校内であの絵のことを知っているのは僕と数人の教師以外、木村さんしかいないんだ。決して君を疑っている訳ではないんだけれど、何か知っていることはないかなと思って」

 と言った。沙耶は半分開いていた口を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。

「すみません。私は何も」

「そっかぁ」と零した崎村は肩を落としつつ、たっぷり蓄えられた顎髭を忙しく触り始めた。準備室の壁に設置された置時計の秒針がしくしくと足音を立てている。沙耶に背を向け、室内を歩き回る崎村は「参ったなぁ」と何度も呟きながら頻繁に溜息を零していた。

「大事な絵だったんですよね?」

 厚手のカーディガンを羽織っている大きな背中に沙耶がそう問い掛けると、崎村はゆっくり振り向いて、

「そう言えば木村さん。確か君、図書館の二階へ行ったと聞いたんだけれど本当かい?」

 と訊ねた。沙耶はずきりと胸が痛んだ。私の行為はもはや全教師に把握され、目を付けられてしまっているのではないだろうか。お気に入りの崎村にまで『変な生徒』という烙印を押されてしまうのは彼女の望むところではなかった。しかし、この教師に『嘘つき』認定されるよりはマシだという思いもあり、沙耶は意を決して「はい、行きました」と答えた。
 すると崎村は一つだけ小さく頷いて、

「実はあの絵、前にも一度無くなったことがあるんだよ」と言った。

「え、そうなんですか?」

「うん。そしてその見付かった場所というのが図書館の二階にある『古書室』だったんだ」

 沙耶はざわざわと胸騒ぎが起こるのを感じた。

「……崎村先生」

「何だい?」

「確かあの絵を描いたのは、十年以上も前にこの学校に通っていた男子生徒だって仰いましたよね?」

 崎村は身の動きを止め、じっと沙耶の瞳を窺い見た。

「うん。そう聞いているよ」

「ちなみにその男子生徒のお名前は、何という方だったのですか?」

 何処からか準備室に入り込んだ隙間風がそっと制服のスカートを揺らした。崎村は一度沙耶から視線を反らし、近くにあったスツールの元へ向かうと、どっかり腰を下ろして彼女と向き合った。

「確か相澤優也くん、と言ったかな」

 その後、沙耶は崎村と共に美術準備室を後にしていた。まずは急ぎ足で職員室へと向かう。「図書館二階の古書室を、もう一度確かめてみませんか?」という沙耶の提案に、崎村は二つ返事で了承してくれた。現在、固く閉ざされている古書室へと続く階段扉の鍵を管理しているのは現代文教師の駒沢先生であるため、沙耶はまず彼を攻略する必要があった。
 辿り着いた職員室は、昼休みだというのに落ち着かない喧騒に満ちていた。英単語の再テストで教師のデスク前に列を成す生徒達、仕舞われたコートのネットを取り出すために体育倉庫の鍵を取りに来たバレー部員、頻繁に呼び出し音が鳴るにも関わらず誰にも相手にされていないデスク上の電話機。沙耶は職員室の西入口から顔を覗かせ、室内の様子を窺った。駒沢先生は窓際にある自分のデスクに腰掛け、険しい表情で何かの事務作業をしていた。焦燥に駆られて躊躇いもなく職員室に入ろうとしたところ、崎村がそっと沙耶を制した。

「まずは僕が駒沢先生と話してくるよ」

 そう言って彼は沙耶を廊下に取り残したまま職員室の中へと入って行った。
 しばらく廊下にあるベンチに腰掛け、手持ち無沙汰に待っていると、崎村に連れ立って駒沢先生が職員室から出て来た。眉間には深い皺が寄り、手には数本の鍵をまとめたホルダーが握られていた。銀縁の眼鏡をくいと押し上げる。

「事情は聞きました。後は我々で調べます。木村さんは教室に戻っていなさい」

 駒沢が一方的にそう言ったので、「私も行きます」と沙耶は強く返した。銀縁の眼鏡の下で眉間の皺が更に深まる。

「あの場所に生徒が立ち入ることはできません。君は高橋先生の注意と好意を無下にするつもりですか?」

 低く、冷たい口調で放たれたその言葉に沙耶は少し傷付いた。しかし、もしかしたら相澤にまた会えるかもしれない、という思いが背中を後押しし、引き下がろうとする足をぐいと食い止めた。

「私もあの絵を一度見ています。知る人が多い分、探し易いのではないでしょうか?」

 淡々と言い返す沙耶の態度に駒沢はやや驚いた顔を見せ、隣にいた崎村もまさか彼女がそれほどはっきり意見を述べる生徒とは思っていなかったらしく、感心する様な目で沙耶の顔を見ていた。しばらく黙り込んでいた駒沢であったが、ちらりと崎村に顔を向け、

「以前にも似た様なことがありました。あの部屋にはやはり何かが?」と小さく問うた。

 崎村は「うん」と言って腕組をし、顎髭を撫でながら、

「今回限り、僕から木村さんにも協力をお願いしようと思う。それでどうですか?」

 と言った。駒沢は気難しげな口元から小さい溜息を零し、

「分かりました。しかし木村さん、もう二度とあの部屋に一人で入っては駄目ですよ」

 と念を押した。沙耶は顔を綻ばせ、「はい」とはっきり返事をした。

 その後、三人で図書館の二階へと上がり、全ての窓を開け放って陽光が差し込む明るさの中、絵を捜索した。しかし、例の『赤い絵』を見付け出すことはできなかった。沙耶が期待していた相澤との再会も実現しなかった。そうこうしている内に昼休みの終わり十分前を告げるチャイムが鳴り、やむなく三人はその場を引き上げることにした。
 古書室を後にした沙耶は、再び固く施錠される扉をじっと見詰めたまま、先程駒沢が口にした言葉を頭の中で何度も反芻していた。

『以前にも似た様なことがありました。あの部屋にはやはり何かが?』

 十数年前に行方不明になった男子生徒は相澤優也で間違いないだろう。そして舞台裏の暗闇で襲って来た世にも恐ろしい化物、突然姿を消した『赤い絵』、かつて女子生徒が亡くなったという古書室。これらの事柄の間に一体どんな関係性があるのか見当もつかないが、沙耶は何度も何度も頭の中で反芻する内、ある仮定の輪郭がぼんやりと浮かび上がってくるのを感じた。相澤優也という人はやはり自分と同じ人間ではなく、何かしらの異常性を持った存在であるのかもしれない。その異常性は彼以外にも根を張り、知らず知らずの内に途轍もなく恐ろしい事態になりつつあるのかもしれない。
 沙耶はぶるりと身を震わせた。「顔色が悪いけれど大丈夫かい?」と崎村に訊ねられたが、彼女は「大丈夫です」と返して二人の教師に礼を言った後、覚束ない足取りのまま教室へと戻っていった。

 それからというもの、沙耶は事あるごとに視界に入る物陰や暗闇をじっと見詰める様になった。あの化物がまた襲いに来るかもしれない、という恐怖感は拭い去れずにいたが、同時に相澤も必ず何処からか自分のことを見ていて、接触する機会を窺っているのかもしれない、という確信にも似た想いがあった。
 彼にはきっと、私に近付いて来る目的がある筈……。

 崎村達と図書館二階の古書室で絵を探した日から四日後の夕暮れ。
 生徒が皆各々に散っていった放課後の静かな教室で、沙耶はぽつんと一人、自分の席に座って待っていた。瞳を閉じ、すぐ傍まで迫る微かな物音にも耳を澄ます。グラウンドでは野球部の金属バットが白球を打つ音が響き渡り、体育館からはバレー部の練習に勤しむテンポの良い掛け声が聞こえている。南校舎横のテニスコートでは小気味良く硬式ボールが跳ね返り、音楽室の方からはクラリネットの奏でるメロディーがやってきた。
 沙耶は今更ながらふと思った。「私が一番好きだと思う旋律は『静寂』だ」。楽器を演奏する者でありながら、静寂を好むのはいかがなものかと思う自分もかつてはいたが、静寂の中にこそ全ての音があり、全ての広がりがあると最近は思う様になってきた。吸い込まれる様に満たされて、破裂する様に吹き出される。沈黙は恐怖、しかし静寂はそれすら飲み込み咀嚼する。万物を表現し、万物を破壊するのだ。
 演奏前に息を整えるようゆっくり呼吸を続けていると、ふと自分の胸が高鳴るのに気付いた。目の前の机に誰かがそっと腰掛けるのを感じた。静かに目蓋を開けると、そこには相澤優也の姿があった。彼は大きな瞳でじっと沙耶の顔を見詰めている。

「やっぱり君は綺麗だ」

 微笑みながらそう言った。しかし沙耶はもうそんな甘い言葉に心を揺さぶられることはなかった。

「あなたは何者なの?」

 静かにそう問い掛けると、相澤はそっと夕暮れの窓辺に視線を向けた。

「何も嘘などついていないよ。僕はかつてこの高校に通っていた生徒だ」

「……でも、今は違う」

 今度こそ見失ってなるものかと沙耶は彼を見詰め続けた。相澤もゆっくりとこちらを見、二人の視線が重なる。

「奴に乱暴なことをされたみたいだね。本当にすまない」

「奴って、あの真っ黒い化物のこと?」

「そう。奴はとても恐ろしい『怪物』なんだ。ずる賢くて、欲深くて、利己的で」

 沙耶は静かに語る彼の手元にそっと視線を落とした。その手は青白く、見るからに冷たげな色合いをしていた。

「あなたとその怪物は、一体どういう関係なの?」

 沙耶の目線に気付いて自分の手を見た相澤は、どことなく寂し気に微笑んで見せた。

「後戻りできない『取引』をしてしまったんだ」

 突然、沙耶の背後でかたんと物音がした。驚いて振り返ると、後ろの席の机上に行方不明となっていたあの『赤い絵』が置かれていた。夕暮れの廊下が描かれたPサイズ10号のキャンバス。

「これは……」

 沙耶がそう零すと、相澤は静かな口調で、

「『Abenddämmerungアーベントディンメルング』。その絵の題名だよ」と言った。

「あなたが描いた絵」

「そう。それが僕と奴とを繋ぐ『取引』の鎖なんだ」

 二人が話す夕暮れの教室は、一切の雑音を取り除いた静寂の真ん中に浮遊していた。


―— § ——


 僕が奴と初めて関係を持ったのは、今から十三年前の秋のことだ。僕はこの高校に通う二年七組の生徒で、当時から部員の少ない美術部に所属していた。放課後は静かな美術室で絵画制作に取り組み、各種コンクールへの応募に向けていつも油絵ばかりを描いて過ごした。
 取り分け絵が上手かったわけではない。幼い頃から絵を描くのが好きで、暇さえあればクレヨンや色鉛筆を使い、好き勝手な絵を無作法に描き続けた。だから描かない人に比べ、沢山の時間を絵に費やしてきた僕は自然と『絵を描く』ということに慣れ親しみ過ぎていたのかもしれない。成長していくに従って、本格的なデッサン画や油絵の手法、デザイン研究なんかにも手を出したが、なかなかものにある絵を描くことは出来ずにいた。僕より遥かにハイレベルな絵を描く人は沢山いたし、卒業していった先輩達の中にも明らかに天才的な画力を持つ人が数人いた。今でも美術室に保管されている彼らの受賞作品を観たり、プロの画家として活動している先輩の展示会に招待されて作品を目の当たりにしたりすると、僕の心は酷く劣等感に苛まれ、ボロボロと音を立てて崩れ落ちそうになるのが常だった。

 そんな高校生活を送っていた或る日の放課後。僕は近々開催されるコンクールに向け、応募する作品の製作に取り掛かっていた。しかし、一向に納得のいく絵を描くことが出来ず、何枚も何枚もキャンパスを取り換えては新しい絵の構想を練るのに頭を抱え続けた。
 気付けば陽も落ち、薄暗い美術室には僕一人だけが取り残されていた。壁掛け時計の針は既に十九時を回っていたが、どうしても絵の走りだけは描いておきたかったので、もう少し居残りを続けようとイーゼル前のスツールから立ち上がって照明のスイッチに手を伸ばした、その時だった。

「美しい絵を描きたいか?」

 まるで、獰猛な肉食獣が唸り上げる様な声が何処からか聞こえた。戦慄した僕は固く身構えて周囲を見渡したが、何の姿もそこに見出すことは出来なかった。

「誰だ!」

 喚く様にそう訊ねると、唸り上げる様な声は高笑いを始めた。

「怯える必要はない。こっちだ、こっちを見ろ」

 僕は声のする方を突き止め、じっくりとその暗がりに目を凝らしてみた。そこには、世にも恐ろしい異様な姿をした化物が佇んでいた。ゆらゆらと揺れる闇の輪郭に、二つの青白い眼が浮かび上がっている。

「……お前は何だ?」

 息を呑んでそう訊ねると、化物はゆっくりと僕に近付いて来た。

「お前に、いい話がある」

 後退りして重い机に腰をぶつけた。

「いい話?」

「そうだ。お前に美しい絵を描ける才能をやろう」

「……どういうことだ?」

「お前が望む、美しい絵を描けるようになるのさ。だがタダでくれてやる訳にはいかない。条件がある」

 目の前にゆっくりと翳された化物の手は、簡単に僕の頭を捻り潰せそうなほど大きかった。奴の手が、静かに指を折り始める。

「一つ。今日から十三日以内に一枚の絵を描くこと」

 次の指が折れる。

「二つ。画材にはキャンバスと油絵具を用いること」

 次の指が折れる。

「三つ。絵の対象は、お前が命を捧げても構わないものであること」

 僕はごくりと生唾を飲み込んだ。

「四つ。絵の質は、誰が観ても目を離せなくなるほど美しいものであること」

 眼を青白く光らせる化物は最後の指を折った後、耳元まで裂けていそうな大きな口でにんまりと笑って見せた。
 僕は足元が震えるのを感じながら、「もし、条件を満たせなかったら?」と訊ねた。

「その時は、お前の肉体をもらう」

 化物の低い声で静かにそう言った。僕はしばらく自分の震える手を見詰めた後、ゆっくりと頭を振って見せた。

「無理だ。今の僕にその条件を満たせる様な絵は描けない。唯でさえ美しい絵を描ける才能なんて無いのだから」

 化物は高笑いした。

「当然だ。お前に美しい絵を描ける才能が無いから、俺はお前に美しい絵を描ける才能をやろうと言っているのさ」

「分からない。どういうことなんだ?」

「融資だ。一つ目の条件にある十三日の間、お前に美しい絵を描ける才能を貸そう。しかしその才能は確固たる質を保証されたものではない。他の条件やお前の器量、感受性、努力値、経験値、環境レベル、感情の変動と共に相対的に力を発するものだ。つまりはお前次第ということさ。そして全ての条件を満たした時、お前に貸した絵の才能は紛れもなくお前自身のものとなる」

 僕らの間に沈黙が舞い降り、どれほどの時間が経過しただろう。壁掛け時計の盤上を走る秒針の音が、すっかり暗闇と化した美術室中にかちこちと響いていた。
 僕は、そっと化物に向かって手を差し出した。

「……その話、乗った」

 薄笑いを浮かべた化物は、差し出された僕の手をゆっくり掴み、「承知した」と言った。闇を纏う奴の手はまるで氷の様に冷たかった。途端にげらげらと高笑う声がそこら中に響き渡り、化物は何処かへと姿を消した。僕は奴が姿を消した後も、しばらくその場に佇んだままどくどくと痛む心臓の音を聞き続けていた。
 突然、美術室の照明が一斉に灯った。ぱちりとスイッチの音が鳴った方を見やると、美術室の後方で美術部顧問の蔵満先生が壁のスイッチに手を触れたまま驚いた顔をしてこちらを見ていた。

「相澤くん、まだいたのか」

 僕はしばらくぼんやりとしていたが、やがてはっとして先生に頷いて見せた。彼は僕が描いていた絵の所までやって来て、破り捨てる予定のキャンバスを覗き見た。

「うん。相澤くんはやっぱり絵の基礎がしっかりと出来上がっている」

 僕は「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。誰の誉め言葉も見せ掛けの虚しいものに過ぎないと思っていたが、蔵満先生に評価されるのは正直嬉しかった。先生はにっこり破顔して、「ただ、何か足りていないものがあるようだけれど」と言った。

「足りていないもの、ですか?」

「恋でもしてみるといいよ」

 顎を擦りつつ、確かに先生はそう言っていた。

 時計の針はいつの間にか午後八時を過ぎ、蔵満先生がもう帰宅すると言うので、その日は仕方なく画材道具を片付けて僕も家路へと就いた。自宅に帰り着くと、不思議と創作意欲が湧き起こり、駆り立てられるまま夜通しでデッサンに打ち込んだ。今まで何度やっても納得のいかなかったデッサン画がすらすらと滑る様に下書きの紙上に描かれていく。目に入る物や開けた窓から見える街、頭の中に描いた空想の建物や生物を描いてみたりしたが、その全てが自分の納得のいくデッサン画として描き上げられていった。
 カーテンを開け放ったままの窓外が明るくなる頃、夜を徹した僕は凡そ四、五十枚を超えるデッサンの中に埋もれていた。黒鉛で真っ黒になった手掌から、音もなく鉛筆が転がり落ちる。描ける! 僕は震え上がる様な興奮に満ちた体を必死に抑えながら、言い知れぬ喜びにいつまでも浸り続けた。

 それからというもの、僕は授業そっちのけで美術室に籠って絵を描き続けた。いくつものデッサン画を描き、それらを並べてより納得のいくものを選ぶ。さらにデッサンを加えてまた納得のいくものを選ぶ、ということを三日程繰り返した。途中、連続で授業に出席していないことを知られて職員室に呼び出されたり、担任教師から連絡を受けた両親に酷く叱責されたりもしたが、僕は殆ど意にも介さず絵画制作にのめり込んでいった。納得のいく絵が描けるという喜びと、化物との取引の期日が迫っているという焦りが混合し、ひたすら絵を描くことだけに神経を集中させていた。
 化物との取引から一週間後。僕は選出したデッサン画に色を加えようとしてあることに気が付いた。それは、現在選出しているデッサン画が、化物の提示した第三の条件に当て嵌まらない可能性がある、ということだった。

『絵の対象は、お前が命を捧げても構わないものであること』

 他にも描いたデッサン画を掘り返し、選出した物と見比べてみたが、その全ては僕の生活に馴染み深い風景や無機物を対象としたものであり、自分の命を捧げられると言える様な代物ではなかった。絵を描くことばかりに没頭してきた僕に、自分の命を捧げられる具体的な対象物が何であるか判断をするのは酷く難しい問題だった。
 命を捧げられる友人?
 そんなドラマチックな友情を育んでいる友達なんていない。
 命を捧げられる両親?
 しかし両親に命を捧げるなんて変な話だ。彼らは僕に命を与えてくれたのだ。それを投げ返すなんて間違っている。
 命を捧げられる恩師?
 思い当たるのは蔵満先生だが、彼は僕にとって超えるべきライバルでもある。僕が死んでしまっては元も子もない。
 緻密な風景画を描いたデッサンの前で、僕は再び頭を抱える事態となってしまっていた。

 そして、とうとう化物が第一の条件に示していた取引から十三日後にあたる日を迎えた。その日、僕は朝から美術室に籠ってキャンバスの上に油絵具を乗せ、黙々と色の仕上げに取り掛かっていた。キャンバスには夕日に染まる二年七組の教室前の景色が描かれ、赤い廊下が夕闇の彼方へどこまでも続いている。
 陽も落ち掛けた薄暗い美術室でイーゼルに乗せたキャンバスと向き合っていると、背後から射抜く様な視線を感じた。振り返り見た室内の後方、その一角で、輪郭のぼやけた闇がゆらゆらと揺れている。闇にはこちらをじっと見据える青白い眼が浮かんでいた。

「やぁ、待たせたね。描けたよ」

 僕は奴に向かってそう声を掛けた。化物は闇の中から身の丈二メートルにも及ぶ巨体を現わしながらのそのそと傍までやって来た。獣が唸り上げる様な声を出す。

「……なんだ、これは?」

 僕は一瞬、心臓を握り潰される様な恐怖に駆られたが、大仰に肩を竦めて見せ、

「約束の絵さ。条件は満たしている筈だよ」と言った。

「今日が締め切りの日で、これは間違いなくキャンバス上に描いた油絵。絵の美しさは僕が今まで描いた中で一番納得のいくクオリティに仕上がっている」

「第三の条件はどうした?」

 静かにそう訊ねられ、僕は思わず息が止まった。

「第三の条件で、『絵の対象はお前が命を捧げても構わないもの』と提示した筈だ」

 何処か遠くで、救急車のサイレンが鳴り響いていた。

「『黄昏れ』だ」僕は慌ててそう言った。

「僕は子供の頃から赤い色が好きだった。それは夕焼けや黄昏が好きだったからだ」

 化物はあたふたと説明する僕の目を黙って見ていた。

「一色に見えるが決して一色ではない。太陽が地上からゆっくりと遠くへ離れて行き、光の波長が伸びていく。それがこれ程までに多様な赤の美しさを描き出すんだ。僕はその美しさを馴染み深い教室や校舎、廊下と共にキャンパス上で共演させてみた。この共演の為なら、僕は命など……」

 ぬるりと音もなく手が伸びて来て、喋ろうとする口をあっという間に塞いだ。黒く大きな手は氷の様に冷たかった。

「言い訳はもう十分だ。お前は嘘を付いている。才能を求めるあまり、その才能に見合わない自分の惨めさから目を背けている」

 待ってくれ! 「ううっ」と唸って首を横に振ろうとしたが、化物の手は恐ろしい力で僕の口元と首を絞め付けた。

「残念だよ。約束通り、お前の肉体はもらっていく」

 僕は化物の言葉に身の毛がよだつのを感じ、思い切り奴の足を蹴飛ばして緩んだ手元から逃れた。一挙に絞められていた喉が開き、激しく咳込む。

「どうしてだ! この絵はお前にとって美しい絵ではないのか? それとも僕が『黄昏れ』を絵の対象に選んだことに納得いかないのか? 僕は『黄昏れ』を愛しているんだよ!」

「『黄昏れ』を愛す? 馬鹿馬鹿しい」

 再び目にも止まらぬ速さで伸びて来た手が、僕の首元を強く絞め付けた。

「センチメンタルな芸術家気取りは止してくれないか。これはシビアな取引。要はビジネスなんだよ。この絵に何が欠けているか分からない者に、美味しい報酬も次なる案件も与えられる筈がなかろう」

 いつしか僕の体は化物の手によって宙に浮かんでいた。息が詰まり、意識がぼんやりと薄れ始める。

「約束通り肉体はもらっていく。そして、貸し付けておいた画才も没収する」

 バリバリ! 突然、キャンバスを手で引き裂く様な音が辺りに響き渡り、僕は一瞬にして底知れない暗闇へと落ちていった。


~つづく~

⇩次回(第4話)はこちら

⇩第1話はこちら


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