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金山衆と大久保長安とキリシタン

 以前から、「金山衆」という存在が気になっていた。前々回、大久保長安について少し書いたけれども↓

家康時代、長安が活躍できたのは、金山衆という存在があったからではないかと思っている。そこで今回は、「金山衆」とはどういう存在だったのか まとめてみたい。


 「金山衆」は、戦国時代の甲斐や駿河に(あるいは信濃にも)存在したが、彼らは、間歩・堀場の所有者かつ稼業者で、山主(山師)であった。彼らは、金を採るだけでなく、たびたびトンネル戦法で武田氏の城攻め~永禄5年(1562)の武蔵国松山城攻め、元亀2年(1571)の深沢城攻め、元亀4年(1573)の三河国野田城攻め、天正2年(1574)の遠江国天神城攻め~に加わったりした。元亀2年(1571)以降、甲斐黒川では、こうした戦功のあった金山衆の一部に、軍役衆としての身分が初めて与えられた。彼らには荷物運送の商人という一面もあった。

 現在、金山衆のいた黒川金山湯之奥中山金山は、甲斐金山遺跡として国指定の史跡になっているが、黒川の金山衆の中には、帰農して塩山周辺で郷士的存在になったり、残留して土木工事を請け負ったり、他の鉱山に移動したりする者がいた。移動した黒川の金山衆は、荒川上流の奥秩父(股野、真野沢、小荒川、中津川)や千曲川上流の南佐久郡川上村(梓川・川端下)で金鉱を拓き、その一部は佐渡伊豆の金山にも転進した。土木工事方面では、山梨県大月市の猿橋の掛け替え工事や上ノ原村の用水工事にも、金山衆が関わっているという。また、黒川出身の永田茂右衛門は、常陸国町屋(茨城県常陸太田市)に移住し、水戸領内において鉱山開発(久慈郡、多賀郡内)、用水工事で活躍した。このように、金山衆、とりわけ黒川金山衆の一部は、黒川から、奥秩父、南佐久郡川上村、佐渡、伊豆、常陸まで広がった。

 さて、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、石見と生野の銀山、佐渡、伊豆の金山を直轄地として治め、大久保長安に、石見銀山と佐渡・伊豆の金山の経営を任せ、長安は、甲斐奉行佐渡奉行に任ぜられた。幕府が長安をこうした要職に起用したのは、長安には、武田時代に蔵前衆として、上述の黒川金山の鉱山開発などに従事した経験やその人脈があったからではないだろうか。長安亡き後も、江戸時代にもっとも重要な鉱山であった佐渡金山の奉行には甲州出身者が任命されることが多く、幕府には甲州の鉱山経営を佐渡に移そうという目的があったようだ。

 以上、おもに甲斐の金山衆の動きを中心にみてきたが、駿河の金山衆につても少し書いておきたい。駿河の金山衆は、もともと今川氏治下にあったが、その後、甲斐の金山衆と同じく武田、徳川に仕えるようになった。「金山衆」は、その技術力ゆえ、現領主が滅びるたびに、新しい時の権力に重宝されてきたと思われる。

 ところで、大久保長安の死後、長安にキリシタンとの接近の嫌疑が出たと以前書いた。長安は家康時代、上述のように鉱山関係の要職を任されていたが、鉱山には迫害されたキリシタンが逃げ込むことがあった。長安や、長安と関係があったと思われる金山衆が関わった鉱山と、キリシタンがいた鉱山は重なっているだろうか。

戦国~江戸時代の鉱山とキリシタンについての記事はこちら。↓

(標題の写真は、「古甲州金 無背極印一分金」出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/E-20173?locale=ja)

(2023年3月30日 一部変更)
(2023年4月3日 一部変更・追記)



(参考文献
①『日本鉱山史の研究』小葉田淳著、岩波書店、S44
②『戦国金山伝説を掘る 甲斐黒川金山衆の足跡』今村啓爾著、平凡社選書、1997年
③『武田軍団を支えた甲州金 湯之奥金山』谷口一夫著、新泉社、2007年
④『甲信の戦国史 武田氏と山の民の興亡』笹本正治著、ミネルヴァ書房、2016年
⑤『金山衆と中世の鉱山技術』萩原光雄著、高志書院、2022年)


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