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キリシタンと鉱山

 16世紀半ば~17世紀半ば、日本は、鉱山の時代だったそうである。なかでもは、灰吹法の伝来により産出が増大し、こうした日本銀を目当てに、中国の商船の来航が増えたらしい。ポルトガル船の日本貿易は、この日本銀と中国の生糸その他の商品の仲介貿易であり、のちのオランダやスペインも同様だったという。日本の銀生産をリードした石見の銀山を巡っては、大内氏や尼子氏、毛利氏などが争い、1562年に毛利氏の勝利に帰したが、家康の時代には、石見を含んだ主要な鉱山は、直轄領(天領)となった。世界の産銀のうち、日本によるものが三分の一を占めた年もあったと思われ、1607年、イエズス会のパジオ準管区長に伴われて、家康や秀忠に謁見したロドリゲス通事は、家康自慢の伊豆の金山(土肥・繩地と思われる。伊豆の銀山とも書かれる。)を、パジオの代わりに見学しているが、この頃の伊豆金山でも多量の銀を産していたという。家康は、南蛮人の鉱山技術の提供による増産も期待していて、イエズス会のみならずフランシスコ会などの宣教師たちとも、のらりくらりと付き合っていたようだが、日本の鉱山に南蛮技術の導入の成果が実際にあったかといえば、あまりなさそうにみえるが、よくわからない。

 とはいえ、キリシタンが、鉱山と縁が浅くはなかったのは確かである。というのも、当時、鉱夫になるということには、新しく生まれ変わるという観念があったようで、改名も行われたりして、こうした鉱山のアジール的環境は、キリスト教迫害下のキリシタンが身を隠すのに、都合がよかったようである。開発期の鉱山側も人手を必要としていたのだろう。宣教師たちも鉱夫として、各地の鉱山にいるキリシタンたちを巡回した。当時の文書などから、キリシタンがいたことが明らかになっている鉱山は、佐渡(新潟県)、足尾(栃木県)、下嵐江(岩手県)、朴山金山(岩手県)、戸沢金山(宮城県)、延沢銀山(山形県)、白根銀山(秋田県)、仙北金山・院内銀山(秋田県)、尾太金山(青森県)、千軒金山(北海道)など。石見でもキリシタンのものの可能性がある墓が見つかっていて、今後の発見や研究の成果が待たれる。(尾太金山、虹貝金山(青森県)の辺りにもキリシタンの伝説があるようだが、こちらは、はっきりした根拠がわからない。『切支丹風土記 東日本編』には、桑折半田の半田銀山(福島県)も、キリシタン関係として出てくるけれども、これも事実かどうかは疑問である。)他の鉱山にもキリシタンはいたかもしれない。皆様の地元などで、キリシタン伝説のある鉱山や鉱山跡はありますか?

(標題の絵は、蝦夷や東北、鉱山での宣教に精力的だったイエズス会の宣教師アジェリス[1568-1623])



参考資料
①『切支丹風土記 東日本編』宝文館、S.35年
②『奥羽切支丹史』菅野義之助著、及川大渓補訂、佼成出版社、S.49年
③『日本切支丹宗門史』(上)(中)(下)レオン・パジェス著、クリセル神父校閲、吉田小五郎訳、岩波文庫、1991年
④『日本鉱山史の研究』小葉田淳著、岩波書店、S.44年
⑤『近世鉱山をささえた人びと』荻慎一郎著、山川出版社、2018年
⑥『銀鉱山王国 石見銀山』遠藤浩巳著、新泉社、2013年
⑦『通辞ロドリゲス』マイケル・クーパー著、原書房、1991年


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