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佐渡金山奉行 大久保長安の墓~山梨県甲府市 天尊躰寺


 先日、山梨を訪問した際、甲府市内に佐渡金山奉行だった大久保長安のお墓があると知って、行ってきました。そのお墓は、身延線金手駅ちかくの天尊躰寺にありました。

天尊躰寺入口

お墓は本堂の前にありましたが、もとの場所(天尊寺開山の墓所)から改葬されたものだそうです。 

本堂前にある大久保長安の卵塔のお墓


なぜ、佐渡金山奉行の大久保長安のお墓が甲府にあるかというと、長安が甲斐と縁が深い人だったからではないでしょうか。ここで少し、大久保長安の人生をざっと振り返ってみたいと思います。

 大久保長安は、猿楽師の次男として生まれましたが、父・信安が武田信玄お抱えの猿楽師になった関係で、信玄に見出され、武田二十四将の一人・土屋昌続の与力となり、大蔵姓から土屋姓になりました。蔵前衆となった長安は、黒川金山などの鉱山開発や税務に従事しました。武田氏滅亡後は、家康に仕え、大久保忠隣の与力となって、大久保姓となりました。家康の下では、武田時代の経験や人脈を生かして、佐渡金山や石見銀山などの鉱山の統括、一里塚の建設、関東代官頭として八王子や桐生などの街づくりなど、幕府の重要な部署や施策を任されました。(甲府関連でいうと、1601年に甲府代官になっています。)

 さて、前回の記事で、有馬晴信が岡本大八事件で山梨に流されたことを書きましたが、岡本大八事件の尋問は、大久保長安邸で行われたそうです。有馬晴信は、この事件で1612年、山梨に流され、家康に死を命じられて亡くなりましたが、その翌年、大久保長安も亡くなります。長安の死後、長安の不正疑惑やキリシタンとの接近が疑われたりして、息子たちが粛清され、大久保長安家は断絶しました。岡本大八事件も大久保長安事件も、真相がはっきりしない事件です。


(参考資料
①『甲信の戦国史 武田氏と山の民の興亡』笹本正治著、ミネルヴァ書房、2016年
②清水紘一著「有馬晴信」『キリシタン大名 布教・政策・信仰の実相』五野井隆史監修、宮帯出版社、2019年
③「大久保長安と八王子の町」八王子中央図書館、2015年、インターネットで閲覧可能
④「大久保長安どんな人? 八王子まちづくりと伝承地」大久保長安の会 福島忠治、平成25年、インターネットで閲覧可能
⑤「歴史物語都市 こうふ」甲府市パンフレット)


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