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金4:金の生産地

おはようございます。
今日はどちらかと言うと曇り、といった感じのどっちつかずの朝。ちょっと肌寒いけど、日中は夏日になるみたいだから体調管理には気をつけたい。

さて、昨日金の素材としての特徴を学んだところで、今日はこの金がどこで採掘されているか、見ていこう。

日本の金山

マルコ・ポーロの『東方見聞録』などで「黄金の国」と呼ばれていたことからもわかる様に、日本ではかつて比較的多く金が産出され、国内に日本産の金が出回っていた(正確なことを言えば、マルコ・ポーロは日本に来ておらず、人伝に聞いて日本のイメージを膨らませて書いている)。

金山の定義

経済的に金鉱山と言える物は、平均して1000 kgあたり0.5 gの金を産出する必要。典型的な鉱山では、露天掘りで1 - 5g/1000kg (1 - 5ppm)、通常の鉱山で3g/1000 kg (3 ppm) 程度である。人間の目で見て金と分かるには、鉱脈型の鉱床で少なくとも30 g/1000 kg (30 ppm) 程度の濃度が必要で、それ以下の金鉱石では鉱石内に金があることを人間の目で見分けることは出来ない。

埋蔵量の測り方

埋蔵量の定義は原始埋蔵量と可採埋蔵量の2つがある。
採掘の可不可を考えず単純にどれくらいの量があるのかを計算したものを原始埋蔵量という。人類では手が届かない場所にあるものや非常に採掘が難しい所にものも含めて量を計算したもので、原則として採掘すればするほど減っていく。
一方で技術的・経済的に採掘できるものを可採埋蔵量という。実はこの可採埋蔵量は増えることがあります。20年前は技術的にだったり採掘の採算が合わなかったりで採掘できなかったものが日々の技術革新で採掘できる様になったり、調査確認が出来ていない場所で資源が見つかったりすることで可採埋蔵量は増えていく。ちなみに可採埋蔵量は、そのデータの信頼性の高い順から、確認埋蔵量、推定埋蔵量、予想埋蔵量の3つに細分化されている。

黎明期

戦国期には甲斐国(現在の山梨県)において黒川金山や湯之奥金山で、金山衆により採掘された金鉱石を粉成、精錬し金生産を行なっていたと考えられている。また、戦国期から江戸期のはじめにかけて陸奥国でも玉山金山(現在の岩手県陸前高田)や朴木金山(岩手県)、白根金山(秋田県)が莫大な産金で栄え、奥州独自の黄金文化を支える大切な起点となった。しかしその後東北の金山は衰退、1671年に廃山になっている。

全盛期

17世紀の東北地方の金山の廃山と前後して有名になったのが、佐渡金山。佐渡金山は、1601年に山師により発見され、1989年に閉鎖されるまで約390年の歴史がある。この間、何度も衰退・閉山の危機に晒されましたが、様々な試みを通して新しい採掘方法を開発し、あきらめなかったことが、佐渡金山の長い歴史につながった。
佐渡金山は、発見直後徳永家康の命令により幕府の直轄領に置かれ、金の本格的な採掘が始まり、この時は最も簡単な方法である露天掘りにより採掘しました。その当時、佐渡金山の最盛期で産出された金は年間400kg。佐渡金山での金の採掘は江戸時代の終わりごろまで続き、その約270年間にトータル41トンの金を産出しました。これが徳川幕府の財政を支える大きな収入源になった。

佐渡金山は江戸の花形金山だったが、江戸時代の終わり頃から徐々に衰退の兆しを見せ始める。そのため、徳川に替わり新しく政権を握った明治政府は1869年に、西洋の技術、西洋式竪坑(大立竪坑)を初めて導入。新しい技術の導入により佐渡金山は産出量を増やすことができたが、政府は金本位制による貨幣制度を導入したかったため、金の増産を望み更に採掘技術を進めようと、北沢浮遊選鉱場の建設と大間港の整備でした。これにはドイツから新しい技術を導入しました。

1896年、佐渡金山は、三菱合資会社に払い下げられ、機械化により採掘が行われるようになりました。これにより、明治後期の産出量を江戸最盛期の年間400kgまで戻すことができるようにました。佐渡金山の三菱による操業はその後93年間続きましたが、金の埋蔵量は年々減り衰退を止めることができず1989年に閉鎖を余儀なくされました。その後日本にあった他の金鉱山も徐々に衰退・閉山し、現在残っている主な金山は、鹿児島県にある菱刈金山と串木野金山だけになってしまいました。佐渡金山は、1601年に金脈が発見されてから1989年に閉鎖されるまでの約390年間で金78トンを産出し、まさに日本の有数な金鉱山だった。

衰退期

しかし、寛永年間(1624~1644年)以降には国内の金山は徐々に衰え始め、有名な佐渡金山も既に採掘をやめ、現在は観光地化している。大正・昭和初期の頃には「東洋一の金山」と言われた北海道の鴻之舞金山は採算ベースに乗る金を全て掘り尽くして1973年(昭和48年)に、国内第3位だった大分県の鯛生金山も1972年(昭和47年)に枯渇、日本の金山は軒並み閉山を余儀なくされた。

現在

そんな中、1981年菱刈鉱山で有望な金鉱床が見つかり、1985年から出鉱が始まる。産出された金鉱石は愛媛県の東予で製錬され、純度99.99パーセントの純金となる。年平均6トン前後の金の産出量は、過去の日本の金鉱山に比べても圧倒的な量だ。時代の違いがあり簡単に比較はできないが、佐渡金山は上記の通り約400年で約80トンの金を産出したのに対し、菱刈は40年で累計約260トンだ。

菱刈鉱山の特長は高品位な鉱石にある。海外では鉱石1トンに含まれる金が3グラムもあれば十分に採算が取れると言いますが、菱刈鉱山の金含有量は20グラム程度と世界でもトップクラス。菱刈鉱山の最新の確認埋蔵量は約157トン(2021年12月末現在)で、単純計算するとあと25年ほど採掘を続けることができる。
一方で、2023年から金産出量を年間6トンから4.4トンへと引き下げている。これは、金含有量の比較的低い周辺の鉱石も一緒に採掘して、貴重な地下資源を余すことなく利用することが使命だと考えているからだという。

例外編

恐山(青森県)では温泉沈殿物として金の異常濃集体が発見されており、「恐山の金鉱床」として日本の地質百選に選定された。地質調査によると、金の含有量は鉱石1トン当たり平均約400g、場所によっては6500gにも達するが、この一帯は国定公園に指定されている上、土壌には毒性を有するヒ素が高濃度に含まれていて作業者の生命にも危険がおよぶため、商業目的の金の採掘は不可能とされている。

日本の、もう一つの大きな金鉱として言われるのが都市鉱山がある。金の不変性や伝導性の良さからスマホやカメラのような家電製品や工業製品には端子などに金をはじめとした貴金属やレアメタルが使用されており、それらを鉱物資源と見立てて都市鉱山と呼ばれる。地球上に限りある資源「鉱物資源」を再利用するという試みは世界中で注目されている。
実際、2020東京オリンピックで選手に授与されたメダルすべてがこの都市鉱山から集められたリサイクル金属で製作されました。現在の日本の都市鉱山に存在する金の総量は6,800トン程度といわれており世界有数の規模を誇っており、現在世界に残っている金の埋蔵量が5万トン程度といわれていますので実に15%程度の金が都市鉱山に眠っている計算だ。この他にも銀は60,000トンで、これは世界の埋蔵量の22%、レアメタルであるイリジウムは世界の16%、錫は11%と日本の都市鉱山には全世界埋蔵量の一割を超える金属が多数存在している。


*上記の情報は以下のリンクからまとめています。

https://kinkaimasu.jp/gold/column/golden_country_zipangu/

日本の金の文化を支えてくれたのは、時代によって場所は変われど間違いなく継続的に安定した生産量があってこそだ。これだけの金脈がある偶然を最大限に生かして開花して紡がれている日本の金細工は、見た目だけでなくその歴史も繊細だったとも言えるだろう。


僕は幸せになると決めた。
今日もきっといい日になる。
一歩一歩、着実に歩もう。


皆様も、良い一日を。

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