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わたしの目線。

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大切だと思うことを、「わたし目線」で記したもの。
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#新型コロナウイルス

笑顔になれない、わたしたち。

普段、顔の半分が隠れるくらいのマスクをしています。一時ひどいマスク不足が世間を騒がせましたが、そうなる前に購入した布マスクです。 肌触りは良いですが、さすがにゴールデンウィーク辺りから装着していると暑くなってきました。けれどこの夏は、いえ、これから先も、マスクは欠かせないのですね。 少しやるせなさを感じますが、仕方のないことです。 ファッショにもマスクが取り入れられたりして、オシャレだったり可愛らしいデザインのものを見かけるようになりました。 文化というのはその時代に合

夏の日から始まった、不安のこと。

今年の夏で、娘が二十歳を迎えます。すごいことです。 言い換えるならば、私が母親になって20年ということになります。 こんないい加減な私でも、母親としての役割を20年やってきたなんて。心から驚くべきことです。 そして、その手前。彼女にとって最後の10代を、このような「withコロナ」の状態を生きることになるなんて、思いもしなかったと改めて感じます。 緊急事態宣言が解除されましたが、「コロナと共に生きる」といったスタンスで生活することには変わらないでしょう。 継続した不安

ここに、あの頃の君たちがいたら、どうしていただろうか。

外出自粛、緊急事態宣言。言い方は良くないけれど、ここまではある意味、簡単だったのかもしれない。 危険なものから逃げるために、できるだけ箱から大切なものを出さないようにしていただけなのだから。 普段だったらお日様が出ている時間は空っぽになるはずの箱に、朝も昼も夜も大切なものを入れっぱなしにする。 そうすれば、大切なものは守られる。 こここまでは、簡単だったのだ。 「そろそろ、箱から出ていいよ」と言われても、その危険なものはいつ襲ってくるかわからない。でも、箱から出たい。い

視覚情報の上手な扱い方。

おうち生活が長くなると、人は視覚情報に敏感になります。 スマホやPCに触れる時間も長くなるでしょうし、テレビを観る時間も増えるかもしれません。 zoom を利用したセッションやミーティングに初めてトライしたり、対面サービスから切り替えた方も大多数なのではないかと思います。 もちろん、外出自粛より前の生活であっても、視覚情報は得ていたはずですが、移動が極めて少なくなった現状、「動くもの」「変わるもの」「時間の経過を満たすもの」に変化が起きるのです 視覚情報の上手な扱い方

私たちの命は、多くの方の尊い命によって 守られている。

ベッドの数。人工呼吸器の数。対応できる医師や看護師の数。医療崩壊。 外出自粛の部屋の中で、インプットした情報を考察するには、このワードだけでは、何か足りないような気がしていました。 もちろん、メディアから得られる情報としては限りがあるし、医療現場を直接体験したことがないので想像の範囲になることは確かです。 それでも、何か足りないような気がしていたところ、次のようなツイートに出会いました。 外出自粛が最善ながらも、外出せざるを得ない人、それに納得できない人、反発する人、デ

伝えたい言葉と、その向こう。

若干の体調不良のため、ただでさえ回転数の少ない私の頭は、さらに周りが鈍いです。 月曜日から続いている、平熱と微熱の行ったり来たりが、今日も同様にありました。 「37.5度以上の熱+倦怠感が4日以上続く」のセットに、いちおう準じているかと思ったので、相談センターに電話してみたわけです。 現状、検査を受けるのは非常に難しい状況となっています。 もう少し様子を見て、悪化したり改善しない場合は、かかりつけ医に電話して受診していいか聞いてみてください。 一般外来を中止している病院も

もしも、あなたが、不安に思うのならば。

夕方、緊急事態宣言の速報がPCの画面に表示された。 驚いた。 驚いたというのは、今さら速報と言うまでもないと思っていたから。 とはいえ、いざこの「緊急事態宣言」という嫌な字面を目にすると、当然ながら気持ちの良いものではない。 状況は悪化の一途をたどっているようにしか思えないが、目に見えない脅威に対してできることは「人との接触をしない」というものでしかない。 ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー*ー もしも、あなたが、不安に思うのならば。 不安を消さないでほしい。 不安

つながることの意味が変わる。

2019年の私は、会ったことのない人とたくさん出会った。自分からアクションを起こしたこともきっかけではある。けれど、そこで出会った人たちから派生して、また新たな出会いが生まれたことは人生の中でもとても大きな意味を持ったと思う。 出会うということは、「つながることができた」とも言い替えられる。 2020年、春。 ここに来て、外出自粛となった。 「派生してきた流れ」が停滞してしまったことが少々残念でもある。 しかしながら、この記事を書くために開いているPCの画面を通じてでも、

どうしようもない、どうしようもない。

娘が体調を崩しました。過去形です。今は徐々に回復しています。 この状況で、体調を崩すと面倒だという記事です。 「面倒」と記しましたが、面倒臭いというか、厄介だという感じですね。 先週末くらいに、空咳のようなものをしだしました。熱はいちばん高くて38度になりましたが、36.8度〜37.8度くらいを浮遊している感じです。午前中は低めで、午後高め。これは通常よくあることだそうです。 それから、彼女は平熱が37度〜37.2度くらいです。 今は熱も高くないので、多少だるそうですが

不安と現実の距離感。

日を追うごとに、嫌な数字が報告され、嫌な数字が増えていく。 その数字が表すのは「人の数」だから、人の命が数字になるというのは不気味なものだと思う。 こうやって不安を抱くのだが、そこから逃れるかのように、言葉を選んで前向きにとらえる日々だ。 不安というのは現実から引き起こされるが、不安というものは現実ではない。あくまでも、思考の中で発生する靄(もや)のようなものだ。 不安から逃れようとするばかりに、「何だかんだ、自分は大丈夫だろう」という考えに到る。これを「正常性バイアス

不安に色をつける。彩り。

今日、街中で小さい女の子がお母さんに「ママ、マスク。」と言って一生懸命に手渡ししようとしているのを見た。 近くのカフェから出てきたお母さんは、お財布にお釣りを入れながら歩き始めるところだった。小指にこれから付けようとしているマスクがぶら下がっていた。 3歳くらいの女の子だったと思う。やはり小さなマスクをしていた。 優しいなぁ、かわいいなぁ、と思う反面、こんな小さな子でも今の世の中が抱えている問題に対して不安を感じていると思うと少し苦しくなった。 不安というのは、人間が元