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令和源氏物語 宇治の恋華 第百五十話


 第百五十話 浮舟(十四)
 
右近の気苦労を知らず、匂宮は浮舟を傍らに侍らせてご満悦です。
さて、この君が浮舟に恋しているのには違いがありませんが、その根底には薫へのライバル心というような子供っぽい戯れ心があるのは否めません。
薫がされるように洗面用の御手水が運ばれてくると右近一人では大変かと手を貸そうとする浮舟を差し止めて主人顔で言い放ちます。
「そのような女房のすることをあなたがやる必要はない」
「でも右近一人では大変ですわ」
「薫はあなたを召人のように扱っているというわけか。私ならそのようなことをさせぬものを」
「薫さまはそのようなことはなさいません」
浮舟は薫を良からぬ風に言う宮に抗しますが、その裏では宮が自分を大切に想ってくれているように思われて、心ときめくのです。
若く考えの浅い娘なれば、美しい殿方の優しい言葉に心が蕩かされてしまうのは詮方なきこと。薫の愛情が静かで穏やかであるようならばこの宮の情熱は太陽に焼かれるように烈しい。
長年連れ添う落ち着いた夫婦の間ならば薫のような愛し方を心地よく感じられるでしょう。しかしながら若い娘心というものは得てして宮のような大仰さに幻惑されて愛と錯覚し、鍍金とも気付かずに惹かれずにはいられないのです。
「ねぇ、そろそろあなたの素性を教えてくださいよ。身分が低いとしてももう私たちの間には隔てるものは何もない。愛情は増すばかりだよ」
そのように言われてもどうして自分は中君の妹であると言えるでしょう。
曖昧にごまかす浮舟を軽く睨む宮ですが、もはや自分の物としたからには素性よりも薫との関係のほうが気になるのです。
「薫はどんな顔をしてあなたと逢うのだい?やはり真面目に仏頂面を引っ提げているのであろうか」
「そのようなこと申し上げられませんわ」
「いや、ぜひ知りたいものだ。いったい二人の馴れ初めはどうしたわけであったのか」
「わたくしは辛うございます」
「それでは質問を変えるとしよう。あなたはこの宇治で一人でいる時はどのように過ごしているのだい?」
「それは他の方々と変わりませんでしょう。絵物語などで徒然を紛らわせておりますわ」
「そうか、それでは」
匂宮は硯を引き寄せてさらさらと筆を走らせました。
この宮は才能豊かであったあの源氏の孫、その筆から流れるように描かれた曲線は艶やかに寄り添う美しい男女の絵を表しました。
「まぁ」
「逢えぬ時にはこの絵を見て私を思い出しなさいよ。この楽しい時の思い出だ」
春の日は長いといいますが、愛を囁く男女にはどれほどの時も短く感じるものです。
霞む山の端を眺めながらうららかな陽だまりに身を委ね、宇治川の流れも穏やかにはにかむ浮舟は好もしい。
浮舟も薫ほどの貴公子はいまいと考えていたものの、宮の華やかで雅やかな振る舞いにうっとりと惹かれずにはいられないのです。
「もう陽が暮れてしまうのか。あなたといると時が短く感じるよ」
匂宮は詠みました。
 
 長き世を頼めてもなほ悲しきは
     ただ明日の知らぬ命なりけり
(行く末の先までもとあなたに誓っても惜しむらくは明日の命をもわからぬほどに世は無常であるということよ)
 
浮舟もそれに返しました。
 
 心をば嘆かざらまし命のみ
     定めなき世と思わましかば
(命だけが儚いものであるならば人の心変わりを疑うことはありませんものを)
 
「これほどあなたに夢中の私が他に心を移すと思っているのかい?」
「先のことなどわかりませんもの」
辛い境遇に慣れた浮舟にはこの喜びの時は一瞬のものであると思われて、宮はその翳りのある神秘的な横顔に益々惹かれるのでした。

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