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紫がたり 令和源氏物語 第百六十五話 松風(二)

 松風(二)

源氏は明石に側近を二、三人遣わして親子を迎えに行かせました。
この者達は共に須磨・明石をさすらった者なので、あちらの人達とも顔見知りでちょうどよいと思われたからです。それに源氏がこのように心にかけていることを示せばこれ以上明石の上には拒む手段はないのです。
明石の上の不安を充分に推し量れる源氏の君ですが、いずれ娘は政治家源氏にとっての大切な駒となる存在なので、いつまでも田舎の浦に放置しておくわけにはいかないのです。
入道は源氏の心遣いをありがたく、幼い姫の将来も頼もしく感じましたが、この愛くるしい孫娘と今生の別れかと思うとさすがに心が弱くなり、涙もろくなって昼となく夜となく暗く沈んでいるのでした。
そんな父親の様子がいたわしく、明石の君は自分の人生には物思いがついてまわること、と悲しくなるのです。
この度の上洛で心細いのは尼君(入道の妻)も同じでした。
この人はかつて捨ててきた京に娘達と共に戻るのです。
すでに出家して互いに一緒に住むことのない夫婦でしたが、この明石に骨を埋めるつもりでいたものを思わぬ縁で自分だけ京に戻るとは、今さら夫と別れ別れになるとは思いもよらないことなのでした。
心は裂かれるばかりに乱れ、かといってこの期に及んでどうにもなるものではありません。
入道もこれぞ宿願の成就と思うのですが、いざ愛らしい孫娘との別れとなると人の世とは縁を切った身でも惑うてしまうのです。

明石の親子が旅立つその日、入道は娘に心情を吐露しました。
「思えばあなたが生まれてから人の親としてあなたを不憫に思わずにはいられませんでした。なにしろあたら田舎に埋もれさせるには惜しいほどの様子でしたから。神仏に祈りを奉げるのは常にあなたのことばかりで、いざ叶えられるというのにこのざまでは出家の甲斐もありませぬなぁ」
そのように涙をこぼされるので、明石の上も悲しく俯きました。
父がこれまでどれほど自分の行く末を案じていたかをよく知る明石の上です。
宿願は果たされましたが、もう二度とこの浦に戻ることはないでしょう。
そして、それは父との今生の別れとなるのです。
「私はもう世を捨てた身です。もしこの身が儚くなっても捨て置きください。煙になるその時まで小さい姫の幸せを祈りましょうぞ」
明石の上は父らしい、とこの言葉を遺言と胸に刻みました。

朝靄が明石の海を覆い、淡路島の影がぼんやりと浮かびあがります。
明石の上は幼い頃から繰り返し目の当たりにしたこの景色をせつなく眺めました。
恐らくもう二度と見ることはできないでしょう。
涙が縷々と溢れてきます。

父上、どうかお元気で・・・。

明石の上は心を決めて船に乗り込みました。
母親の尼君は夫を一人残してゆくことがやはり気になるようです。

尼君:かの岸に心よりにし海士舟の
      そむきし方に漕ぎかへるかな
(出家して彼岸にあるという極楽浄土に至るよう願い勤めてきたこの身が、かつて捨てた俗世の都に舞い戻ることになるとは。人の人生が小舟のように漂うのだとしたら、思いもよらぬ方へ漕ぎ出してしまった私の行く先であるよ)

明石の上:いくかへりゆきかふ秋を過ぐしつつ
           浮木に乗りてわれ歸るらむ
(何度となく秋を過ごしたこの親しんだ明石の浦から旅立つことになろうとは。この小さな小舟が頼りなく、私の行く末も頼りなく不安で都へ上ってゆくことよ)

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