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令和源氏物語 宇治の恋華 第七十五話

 第七十五話  うしなった愛(八)
 
大君は御許が一人で戻って来たのに戸惑いました。
これまでであれば薫君は自分の呼び出しを断ったりせずに喜んでお越しになったものですが、それが期待外れとなると急に不安になるものです。
「何故薫さまはお越しにならないのかしら?」
「中君さまと匂宮さまを逢せたことを心苦しくお考えなのではないでしょうか。ですから気は遣ってくださるな、とおっしゃたのでしょう」
薫が離れていこうとすると大君はそれをよしとしない、なんとも複雑な心の綾に翻弄される二人は想い合っているのにすれ違うことばかりです。
恋に消極的で初心な大君ではありましたが、中君が男君を迎えられたことでそれとなくいろいろとわかることもあり、自然に薫君を恋うる気持ちも高まっておりましたが、己のすげない仕打ちの数々がどれほど君を傷つけていたのか今になってようやくが理解できたのでした。
そうかといってやはりなかなか訪れない匂宮を待ちわびる中君を目の当りにすると自分はここまで耐えられそうにない、と結婚には尻込みするのです。
それでも薫君にお会いしたい気持ちは抑えかねて、矛盾した女心に惑うのです。
「三日夜の折のお礼をまだ申し上げていないのよ。薫さまのおかげで宮さまはこちらにお越しになられたのですもの。それに宮さまの御本心を伺いたいの。薫さまにとりなしてもらえないかしら?」
弁の御許はまた薫さまが振り回されなければよいが、と顔を曇らせながらあちらへと向かいました。
「薫さま、もうお休みでいらっしゃいますか?」
「いや、起きているが、どうかしたのか?」
「はい。それが、大君さまがやはりお越しいただきたいと仰せで」
「ふむ。そうだな、ちょうど良い機会だから宮さまの置かれている状況などもお話するべきかもしれぬ」
薫がやむなく座を立つと、弁は心配そうな面持ちで見上げております。
「なに心配するな、弁。大君を煩わせるようなことはすまいよ」
弁の御許が何よりも大切に思うのはこの貴公子の尊い御心。
誰よりも人の気持ちを汲んでしまうが為に傷を負う薫君なのです。
「まさかあなたの方からお呼び出しがあるとは考えもしませんでしたよ」
前回同様に障子はきっちりと掛け金を掛けられての対面で、大君が心を許して呼んだことでないことはそれとわかります。
薫は気付かれぬように深い溜息をつきました。
「中君と匂宮さまのことは前世の宿縁と考えるようになりました。三日夜には宮さまをこちらへ赴かせるのにお助けいただいたようで」
「はい、そのことでこちらにもお知らせしておいたほうがよいと思いまして」
薫は帝や中宮の意向、もしや匂宮が次の東宮に立たれるかもしれないことなどをこまごまと説明しました。
それはもちろん六の姫との縁談は伏せてのお話ですが。
「まぁ、尊い御方とは存じておりましたが、帝に上られる可能性もあるのですね」
「ええ、ですから今内裏ではその行動が制限されております。こうした宮さまのような立場であれば内裏から離れることは軽々しいとさえ言われ、愛する女人は宮仕えとして側に置くものですが、宮さまは中君さまを正式な妻としたいが為にお側にお呼びすることを躊躇っておられるのですよ」
「それはどういうことでしょうか?」
「宮仕えというと聞こえはいいですが女官の一人には違いないのです。宮さまは御自身の一の人として、自分が帝となるならばその人を中宮にもしようという御心なのではないかと思うのですよ」
「そんな、後ろ盾も無い身が中宮になどなれましょうか」
「正直難しいでしょうね。しかし宮さまの御心はそれほどに深いと私は感じております」
「なんとも途方もないお話を聞いた気分ですわ」
「では、先日の歌合せの会に起きた珍事などお話致しましょうか」
そうして薫は大君が興味を持つように宮廷での話を面白おかしく語って聞かせました。
聞き手の大君も以前のような角もとれたように、時折相槌をうったり、質問をしてくるなど打ち解けた様子です。
声を上げて笑われた時には薫は驚きました。
「あなたが声を立てて笑われるなんてはじめてですねぇ。ついでにこの障子も開けてお顔を見せて下されば文句はありませんが」
勢いでついくだけて呼びかけたのを、しまった、と思った薫ですが、大君からは思いもよらないいらえが返ってきました。
「たしかに隔てもない間柄ではございますが、近頃わたくしやつれて見苦しくなっておりますの。そんな姿をあなたに見られたくはありませんわ」
やんわりと絡めとるような女人の賢しさに薫はどきりとしました。
何かが大君の中で変わってきているとすれば、もしや心を通わせることができるかもしれないという希望が垣間見えるのです。
期待してはならないと思いつつも。
「大君さま、せめて夜明けまでこうしておしゃべりして過ごしましょう」
「はい」
素直な答えに、薫はそれ以上は望まぬ、とこの時間を大切に思うのでした。

次のお話はこちら・・・


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