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令和源氏物語 宇治の恋華 第三十四話

 第三十四話 会うは別れ(四)
 
先日の匂宮の初瀬参りから宇治の山荘は俄かに慌ただしくなっておりました。
匂宮ばかりでなく、八の宮の清らかな御姿を目の当りにした貴公子達も宮の姫君とあらば、と多くの文が寄せられるようになっていたのです。
八の宮はまたもや困惑されました。
しかしながら傍らに目を転じると今を盛りと咲き誇る姫君たちの可憐さにあたら山里で朽ちさせるには惜しい、という気持ちが湧きあがってくるのです。
たしかに先日お会いした貴公子達はみな真面目そうな好青年ばかりでした。
しかし薫君を知ってしまうともうどうにもそれ以外の青年など眼中に入らないのです。
寄せられた手紙の返事はすべて宮が書かれました。
失礼にならぬように田舎娘と謙っての返事に心労は増すばかり。
大君はこの春二十五歳、中君は二十三歳になられました。
婚期はとうに過ぎておりますが、この春をまた無駄に過ごさせるには惜しいばかりの美しさです。
八の宮ご自身厄年(四十九歳)を迎えて誰よりも気をつけねばならぬ年回りだというのに、明け暮れ深い溜息を漏らされ、以前にも増した心痛に悩まされているのでした。
そのせいもあり八の宮は近頃熱心に勤行されておられます。
それでも姫たちをこの世に遺して行く心が信心を惑わせます。
今の私は御仏の弟子として相応しくない、どうしたらよいものか、と心は千々に乱れる宮なのでした。
 
薫はといいますと、久しぶりの八の宮との対面に楽を共にできたことをとても嬉しく思っておりましたが、公務もありなかなか宇治へ赴くことはできないでおりました。
否、気持ちひとつで馬を駆って向える山里ではありますが、あの昨秋に訪れ弁の御許から出生の秘密を聞かされて以来あちらには足が向けられなくなっているのでした。
それは弁にみっともないところを見せたというつまらない矜持からではありません。
あのことを知ってから薫の苦悩はさらに深くなっていたのです。
母・女三の宮と亡き父・柏木大納言の不義密通、それによって誕生したこの身は何よりも罪深いという意識が濃くなりました。
薫は前にも増して熱心に念仏を唱えるようになり、心ばかりは御仏に帰依しようと勤めているのでした。
宇治へ通いつめれば宮には救われますが、姫君たちに移す心が多くなるようで、自分を御せなくなるのが恐ろしい薫君。本能ではそれほどに橋姫たちに強く惹かれているのを悟っているのです。
時間をかけてこの愛しさを忘れよう、心を固く閉じるほどに自分という存在が空しく思われて、闇に足を囚われてしまうのです。
しかし愛するという気持ちを抑制めることなどできましょうか。
匂宮が橋姫に手紙を贈っていると聞くたびに、例の八の宮の元を共に訪れた貴公子達が姫君を慕っていると聞くたびに心には痛みが走り、虚ろな風が吹き抜けてゆくのです。
何も感じない人間にはなれぬものか、と紫の翳りが薫の心を覆うのでした。
 
心に重いものを抱えていても薫は無為に過ごせるような性質ではありません。
益々熱心に公務に励むようになり、春が過ぎ、うだるような暑さを過ごしてもその姿勢が揺らぐことはありませんでした。
そうして功績が認められてその秋の司召し(つかさめし=官吏の任命)で中納言に叙せられることが決まりました。
中将となった時と同様異例のスピード出世ですが、薫の働きを知る者たちがそれを悪く思うはずもありません。
八の宮へも月に数通の手紙をしたため、いつでも心つけを忘れることはなく、変わらぬ実直な好青年であります。
八の宮は薫の昇進を喜び丁寧な手紙と山の幸をふんだんに盛り付けた桧破籠(ひわりご=桧を薄く切ったもので作った容器)を使者に持たせました。
その山菜の香りのよく、色付き始めた紅葉が獣肉に飾られている様子は薫を宇治へと誘うようで、お礼を兼ねて山里へ赴く旨を使者へ伝えました。
今頃の宇治はいつぞやのあの十六夜の宵のように霧深くあろうか、と禁じても、否禁じるほどに溢れる想いに惑う薫君なのです。
ただ宮へお礼を述べに行くだけ、と己に言い聞かせても胸が躍るようで大君の美しい姿が瞼の裏に浮かび上がってくるのです。
 
ああ、私は心ばかりは御仏に仕えようと決めたものをいまだにこの想いが捨てられぬ。
それどころか前にも増して大君が慕わしくてならない。
罪深いことよ。
 
薫はふと己が身から立ち上る芳香が強まっていること気付きました。
どうしたわけか薫の懊悩が深まるほどに香りが高まるようで、それが御仏の戒めなのか試練であるのか、やはり人とは違うように生まれついた身の上が厭わしく思われる君なのでした。
 
 
八月の末頃薫は宇治へと赴きました。
京では夏の名残があるものの、音羽山の近くに差し掛かるとうっすら秋の気配を感じる風の冷気にわびしさが込み上げてくるものです。
久しぶりの訪問に八の宮は殊更に喜色を表して薫を迎えられました。
このところ体調が思わしくなかった宮は今宵こそは胸の裡を薫君に伝えようと決意されておられます。
それはもう二度と薫君とは会えないという予感から、どうにか姫君たちを託したいという親心からなのでした。
しかし話を切り出そうとしても喉の奥が詰まり、この君とももう会えぬかと思うだけでこれまでの満ち足りた数年が思い起こされ、ただただ涙ばかりがこぼれる宮なのです。
薫はいつもと様子の違う宮に戸惑いました。
「宮さま、今宵は如何してそのようにお泣きになるのです?」
「申し訳ない、中納言殿。今宵は何故だか感傷的な気分でしてな。心弱き年寄りと思って許して下され」
「薫といつものようにお呼び下さい。御心に懸かることがあればなんなりと仰せになってくださいませ」
「薫殿、ありがとう。私はこうして君とお目にかかるのも最期のような気がして心細いのです。御身と引き合わせてくださった御仏のご縁をありがたく思いますが、会うは別れがつきものでございましょう。まだまだ修行の足りぬ身ですので別れにこそ心が残って仕方がないのでございますよ」
「そのように気弱なことは仰らないでください。どうかまた次の春も秋も共に月を愛で楽を奏でましょう」
そのように宮を励ますものの、薫は宮の御心に巣食う不安に胸を衝かれる思いでした。
 
そうだ、人は儚い。
いつまでも続く時などはないのだ。
 
父のように慕う八の宮ともいつかは別れなければならないでしょう。
世の無常を知っていたつもりが、本当のところを何も理解していなかったことに気付いた薫の目からは知らず涙がこぼれるのでした。

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