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紫がたり 令和源氏物語 第百十二話 須磨(十九)

 須磨(十九)

その夜は中将の従者も交えての大宴会になりました。
久しぶりに聞く都の便りに懐かしさで滂沱の涙が縷々と溢れます。
右大臣が太政大臣に上り、弘徽殿大后ともども益々権勢を強めておられるので、親しかった人達は息を潜めてひっそりと暮らしているようです。
「まったく近頃は宮中の雰囲気も殺伐として居心地が悪いんですよ。昔は管弦の遊びなどで盛り上がったものですがね。ほら、弘徽殿大后も太政大臣もご自分が嗜まれないでしょう。歌や漢詩などもお好きではいらっしゃらないので、博士たちは家に籠って出仕もしません。まったく退屈極まりない。皮肉なもので、逆にお主上が管弦にばかり耽っておられます。大后や大臣には意見も聞き入れてもらえないので、くさくさしておられる、というのが本音かもしれませんね」
きっと兄上も辛いお立場なのであろう、とあの穏やかな帝の笑顔が脳裏に甦ります。
「最近私の父もめっきり老け込んでね。夕霧が元気に走り回っているのを見ると、却って哀れに思われるらしく、涙をこぼしているよ」
かつては左大臣として国を動かしていた義父の悄然とした様子を聞くと、このような時に側にいてあげられないことが情けなく思われます。
「まぁ、せっかくはるばるやって来たんだし、今日くらいは楽しく語り明かそうじゃないか」
中将の励ましで、場は俄かに明るさを取り戻しました。

そるはまるで昔に戻ったように楽しい宵でした。
夜通し酒を酌み交わし、詩文を吟じて惟光などは楽に合わせて舞い始めました。
源氏が心のままに奏でる琴の音は以前と変わらず、否、それ以上に深みのある響きです。
やはりこの人は色褪せることがない。
“輝く光る君”といわれた尊い方がここにおられる、そう思うと今の膿みただれたような朝廷の有様が厭わしく感じられる宰相の中将なのでした。

夜が明けて中将の従者は都へ戻る支度を始めました。
朝ぼらけの空に雁が連なって飛んでいるのを見て源氏は詠みました。

 故郷をいづれの春にか行きて見む
     うらやましきはかへる雁がね
(私はいつ都に帰れるというあてがないので、故郷へ帰る雁がうらやましいですよ)

 あかなくにかりの常世を立ち別れ
     花のみやこに道やまどはむ
(まだ語りつくしていないというのに帰らなければならない私は、悲しみのあまり道に迷ってしまいそうだよ)

中将からは数々の贈り物をもらったので、源氏は愛用している黒馬を差し上げました。
「流人からの贈り物だと不吉に思わないでください。せめて私の代わりにこの愛馬を都まで連れて行ってあげてくださいよ」
「これは傑物だ。ありがたくいただくとしよう。して、名前は何という?」
「ひねりもなにも無くて申し訳ないが、『至極(しごく)』だ」
「なるほど。この濃い紫の艶が何とも高貴ではないか、ぴったりの名だ。まるで我ら藤原一門に縁あるよう生まれついたようではないか」
「そういってもらえると嬉しいな」
中将は見事な至極の豊かな鬣(たてがみ)を撫でると、するりとその背に跨りました。
「源氏の君、必ずあなたが戻る日が来ると信じているよ」
そう目を潤ませて踵を返しました。
惜しそうに何度も何度も振り返る中将の背を、源氏は姿が見えなくなるまでその場で見送り、一行が道中無事であるようにと祈りました。
あれほど中将の訪れが嬉しかったものの、去ってしまうとそれ以前よりも都が恋しく思われ、寂しさもひとしおに感じるものなのです。
幾度も、幾度も、虚ろな風音が源氏の心に木霊するのでした。

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