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紫がたり 令和源氏物語 第三百七十六話 柏木(六)

 柏木(六)

 二条院にある紫の上には、いち早く源氏の使者から女三の宮の出家が伝えられました。
源氏は六条御息所の害意がこの上にも及んでおらぬか心配で、何事か出来していないかを確認させるために腕に覚えのある信頼できる家臣を即座に上の元に向かわせたのです。
「このような夜更けに何事ですか?」
紫の上の乳母・少納言はただならぬ使者の様子に眉を顰めました。
「紫の上さまはお変わりがありませんでしょうか?」
「一体何があるというのでしょう?」
「今しがた六条院にて女三の宮さまが落飾なされました」
「なんですって?」
少納言はまったく考えも及ばぬことに狼狽しました。
「これは内密な話なのですが、どうやら源氏の君に懸想した物の怪の仕業のようで、殿の最も大事にされておられる紫の上さまにもよからぬことがあるのではないかと心配しておられます。どうか、ご無事を確認なさってくださいませ」
「わかりました」
顔を青くしながら、少納言の乳母は上の御寝所へと急ぎました。

一体何が起こっているというのであろう?
物の怪が女三の宮を出家させたとはどういうことか?
物の怪が出家を唆すなど聞いた試しもないものを・・・。

そのようなことよりも、上が無事であることが少納言には最重要事項なのです。
「少将、少将の君!」
少納言の悲鳴のような声に、はじかれるように御寝所の襖が開くと、何事かと少将の君が飛び出してきました。
「少納言さま、どうされました?」
「姫は!姫は無事ですか?」
普段取り乱すのを嗜める乳母が息を切らしながら廊を駆るのを只事ではないと察した少将は、上の傍に寄り、静かに寝息を立てるのを確認しました。
「少納言さま、姫はご無事です」
安堵に歩を緩めた少納言は今にも膝が抜けそうです。
息を整えると自ら姫の無事を確認しました。
「少将、殿が遣わした武士をこちらに呼んでおくれ」
「はい」
事情も把握できない少将の君ですが、どうやら何か普通ではないことが起きているのを察しました。しかしどんな状況でも姫の為に動くのが忠臣というもの、否、敬愛する姫をお守するのが少将の正義なのです。
少将は、おまし場所にて気を張り詰めながら膝を立てて警戒する武人が源氏の遣いだと即座に理解しました。
「そこの御方、お姫さまはご無事でございます」
いかつい武士はほっと安堵の溜息をつきました。
下人を呼び寄せて、紫の上の無事を源氏に伝えるべく六条院へと向かわせました。
「二条院には僧侶がつめていらっしゃるはずですが、紫の上樣の御寝所の次の間にすべて集めてください。物の怪を退ける祈祷をするのです」
「かしこまりました」
事情はわからないものの、少将はこれはいよいよ普通ではない、と急ぎ僧侶たちの控える棟へ向かいました。

俄かに二条院が騒がしくなったことで、紫の上も目を覚ましました。
読経の声が近くに響き、只ならぬ雰囲気です。
紫の上は両傍らに控える少納言の乳母と少将の君に何事かと尋ねました。
「少納言、少将。これはどうしたことなの?」
乳母は紫の上の手をそっと握ると、優しく微笑みました。
「殿が姫を心配されて宿直と祈祷をと仰せになりまして」
紫の上は何か常ならぬことが起きたのだと悟りました。
「少納言、何があったの?」
少納言は紫の上には心配事もなく休んでもらいたかったのですが、聡明な姫に隠し立てなどは無駄なことなのです。
「どうやら女三の宮さまが世を捨てられたらしいですわ」
自身こそ常日頃から御仏にお仕えしたいと願っていたものを。
どうしてそのような顛末になろうというのか。
「生まれたばかりの御子はどうなるのです?」
少納言はこのような状況でも、真っ先に弱い立場の者を思い遣る我が姫を尊いと感じ入りますが、少納言にとって一番大切なのはこの清い御方なのです。
「殿もおられますし、尊い宮腹の若君ですので、心配には及びませんでしょう。使者の話では、源氏の君に想いを遺した物の怪がご正妻でいらっしゃる女三の宮さまの現世のほだしを断つべく害をなした、ということですわ。もしや上の御不調もその物の怪の仕業かもしれません」
推察通りこの上の命を危うくしていたのは六条御息所であったわけですが、まさかその御方の名までは知らぬ少納言です。
「大殿さまは宮さまの仏弟子としての諸々を整えるということで、数日はこちらには戻られぬそうです」
紫の上はあまりのことに言葉を失いました。
なんとあの可憐なばかりの宮様が御仏の弟子となるべく出家されるとは。
そして、源氏に想いを残すあまりにこの世に縛り続けられる物の怪とは、なんとも救われぬ悲しい存在ではないか、と不憫でなりません。
人は生まれ落ちて、その孤独に耐えられない生き物です。
愛するという宿命は本能。
その定めに従うならば、純粋に人を妬みも呪いもするであろうに。
「少納言、少将。わたくしとて殿を恨めしく思ったことが何度となくありました。わたくしこそ、あさましき者になりかねないのです。世を彷徨う御方のことは、けして世間の口の端に上らせてはなりませんよ」
紫の上は名も知らぬかの人の名誉を守るべく、我が身にも起こったかもしれぬことよ、と涙を流したのでした。

次のお話はこちら・・・


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