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令和源氏物語 宇治の恋華 第八十五話

 第八十五話 うしなった愛(十八) 
 
水音も無い宇治の山里では雪がびゅうびゅうと吹きつけて視界を真白く塞ぎ、氷に閉ざされた川面はまるで生命を感じさせません。
まるで私の心を映したようではないか、と薫は色を失くした瞳で眼下を臨みました。
すべてが鈍色に染まる邸で、薫の装束だけは鮮やかな紅色。
まるで世界から拒絶されているようです。
 
くれなゐに落つる涙もかひなきは
    かたみの色を染めぬなりけり
(私の心は血の涙を流しているというのに、それが何の甲斐あろうか。喪服も着られぬこの身は所詮他人でしかないという事実を思い知り、打ちのめされるばかりであるよ)
 
薫は正式に大君と結婚しておりませんでしたので、心は喪に服しその死を悼んではいても、鈍色の喪服に身を包むことは許されないのです。
大君に仕えた女房たちは濃い鈍色を纏っております。
心の距離を言うならばあの女房たちよりも自分はもっと近しい存在であったものを、それが口惜しい。
自身の紅の直衣は流した血の涙で染まったものであるようだ、と虚ろな表情を浮かべる薫の頬には知らずにまた一筋の涙が流れるのです。
 
人が亡くなると七日ずつの法要を七度繰り返し、四十九日で一つの区切りを迎えます。
大君が身罷ってはや二度目の法要が立派に執り行われましたが、薫の哀しみは癒えることなど少しもありませんでした。
 
これも御仏の与えたもうた試練であるか。
私が俗世に捉われるのを戒めるものとして、いっそあの人の死に顔が苦しみに悶えて断末魔の叫びをあげるほどに恐ろしげであったならば穢土厭離をもなされたであろうに。
あれほど穏やかで清い御姿をどうして忘れることなどできようか。
戒めならばこの身が受ければよかったものを、何故にあの佳き人が儚くなってしまったのか。
 
物思いは尽きず、心は空虚になるばかり。
どうにかしてあの人の元へ今すぐにでも行けぬものか、そんな考えに取りつかれる薫は雪の中に佇みどんよりとした空を仰ぎました。
「大君よ、私の嘆きがおわかりか」
どれほどの時が経ったか、肩に背に雪が積もるまでに佇む君を見つけた弁の御許は悲鳴をあげました。
「薫さま、御体に悪うございますわ」
雪を払いのけて室内に手を引くとその手は氷のように冷たくなり、真っ赤に腫れた素足は切れて血が滲んでおりました。
炭を熾して、傷の手当てをされても薫の瞳ははぼうっと焦点を結びません。
「薫さま、しっかりなさってくださいまし。大君さまが今の御身をご覧になれば悲しまれますわ」
「私の哀しみはそれよりも深い。弁よ、どうしたことか。私は寒さも痛みも感じぬようになってしまったようだ」
「なんと」
「さもあらん。私の心は半分死んでしまったのだからな」
そうしてまた涙を流す君の姿をどれほど弁の御許が悲しく見つめたことか。
「薫さまの御心は死んでおりませぬ。その流れる涙が証でございます」
「いっそ何も感じぬようになってしまえればこれほど楽なことはないであろうに」
このように憔悴する薫君の姿を目の当りにして姫君を慕った女房たちは改めて君の愛の深さに感銘を受け、また涙を流さずにはいられないのでした。

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