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紫がたり 令和源氏物語 第六十五話 葵(八)

 葵(八)

源氏の訪れは御息所の物思いをさらに深めただけでした。
近頃以前にもまして白日夢をみるようになり、その内容まで鮮明に覚えております。
ふっくらとしたお腹をした美しい女が床についているのを見ると、妬ましい気持ちで一杯になり、思うままに女の髪を引きずり、頬を打ち、乱暴を働いてしまうのです。
女が苦しんで泣くと気持ちもすっと晴れるようなので、何度も何度も憎い女を打ち据えました。
その野蛮な所業は普段の御息所からすると考えられないものですが、夢の中の自分は獲物を甚振る虎のように残酷で獰猛なのです。
御息所は世間の者達が噂するように、やはり葵の上を悩ませているのはこの魂(こころ)なのかと辛く、己をあさましく感じて恥じ入るばかり。そうして気を病み、とうとう起き上がることも出来なくなってしまわれました。

御息所がご重篤である、と源氏は噂で聞きましたが、葵の上の方も深刻な状態なので、左大臣邸から離れるわけにはいきません。
悩んでいると、まだ産み月には早いというのに葵の上にお産の兆候が見え始めました。
思わぬ事態に、左大臣、大宮(葵の上の母)、女房達、みなが一様に動揺しております。
とりあえず安産であるようにと僧侶たちは一段と声を高めて読経し始めました。
しかしやはり例の執念深い物の怪だけが葵の上から離れようとはしないのです。
どうしたものか、と持て余してる処に、
「源氏の大将に申しあげたいことがあるので、少し祈祷を弛めて下さい」
葵の上の口を借りて、物の怪が苦しげに訴えました。
源氏は人払いをさせて、葵の上の寝所に入りました。
苦しそうに横たわっている葵の上の姿が痛々しく、源氏を見つめるとはらはらと玉のような涙をこぼすのが哀れです。
このような恐ろしい思いをして心細いに違いない。
源氏は葵の上の手を取って、髪を優しく撫でました。
「葵、気をしっかり持つのですよ。何も心配することはありません。私がずっと側についておりますからね」
「はい、あなた」
葵の上は無理に笑んで見せて、また涙を一筋こぼしました。

すると、次の瞬間、葵の上の瞳にめろめろと青い炎が宿ったように見えました。
「あなたの御心が憎くて、わたくしの心は迷い出てきてしまったようですわ」
その声音といい、表情といい、まるで六条御息所そのものではありませんか。
源氏は自分の目を疑い、
「名を名乗られよ」
強く迫ると、にんまりと口が裂けるのではないかと思われるほどに口の端がぎゅうっと上がりました。
「おわかりになっていらっしゃるでしょう。ねぇ、あなた」
源氏は嫌悪感で一杯になり、
「なんとあさましい・・・」
心の底から厭わしく、激しく拒絶してしまいました。
その言葉ではじけたように物の怪は消え、葵の上は一気に産気づいたのです。

女房達が慌ただしくお産の準備を始め、源氏は寝所を退出しました。
誰も側に寄せなかったので御息所のことは知られまい。
しかしながら、ご重篤とは、魂が体から抜け出して葵の上を祟っていたが故であったのか、とその所業のおぞましさに背筋が冷たくなります。

それにしても、どうしてこうまではっきり見てしまったのか・・・。

源氏は夕顔が亡くなったあの折と似ていると思うにつけても厭わしく、世間の取るに足らぬ噂と捨て置いたものの、こうしたことは本当にあるものなのだ、と暗く気持ちが沈むのでした。

次のお話はこちら・・・


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