令和源氏物語 宇治の恋華 第三十七話

 第三十七話 会うは別れ(七)
 
京の日常に戻った薫は宮から姫を許されたことをまるで夢のように感じておりました。
大君を恋うるあまりに都合のよい幻を見たのではないかと己を疑っているのです。
長く想うていれば願いは通じるものだと、何年も姫に想いを懸け続けて、堪えてきたありがたい報いに自身が誇らしく、宮と実の親子となるのも遠いことではないと思うと前向きになれるのです。
そうかと言ってすぐに行動に出られるような君ではありません。
まずは直に言葉を交わすことから始めて、季節の移ろう様子を語らいながら大君という人を徐々に知っていきたい。
八の宮と北の方が心底結ばれていたように時間をかけてお互いを理解しあいながら、強い絆を結んで生涯愛し合いたいと願っているのです。
大君とならばそんな関係が築けそうだと感じる薫の目の前にはうっすらと明るい未来が拓けてゆくようでした。
宮中行事があらかた片付いたら新たな気持ちで宇治へ赴こう、薫はいつにもなく未来に希望の目を向けているのでした。
 
匂宮もどうやら順調に中君と文を交わし、近頃では浮気の虫も収まっているようなので、もしや匂宮が本気で中君を娶ろうというのであれば応援してやろうという余裕すらある薫君です。
匂宮はどうやら宇治への紅葉狩りを計画しているようで、いつものように薫を呼び出して相談を始めました。
「薫、宇治へ紅葉狩りに行くぞ、よいな。もう姫君には知らせてある」
「随分と手回しの良いことで」
薫がいつになく明るい顔を見せるのを匂宮は何かあったのかと問わずにはいられません。
「よいことがあったのか?薫」
「まぁね」
「なんだ、なんだ?」
薫は薄く笑ったまま何も話そうとはしません。
匂宮より先んじていることを一人で楽しんでいるのです。
「それよりも君、宮中行事が済んでからでなければ行くことはできないぞ」
「もちろんわかっているとも。だから最近は真面目に勤めているんだろうが。この誠意を見てもらって八の宮にも認めてもらいたいのだ」
「では君は姫を本気で娶る気なのだね?」
「うむ。京に迎えてもよいとさえ考えているのだ」
ちらりと見せた匂宮の本音に薫は宮が姫に愛情を感じ始めているのだと知りました。

そうして楽しく計画を立てて匂宮と別れた後に宇治から訃報が届いたのです。
 
 八の宮さまが亡くなられたというのか?
山の阿闍梨から届いた手紙はまるで現実のことと思われず、薫は最初の一行を読んだまま体を強張らせました。
思考はそれ以上先に進むことを拒絶し、何も考えることができません。
ただ宮が最後に見せた穏やかな微笑みが脳裏に甦るばかりです。
一瞬とも永遠ともとれるほどに時間の感覚が麻痺して、はたはたと文の表にこぼれ落ちる涙に我を取り戻したのは深更の頃でした。
月もなく暗闇にほんのりと灯が揺らめくのを薫は視界の隅に捉えました。
「惟成、惟成はあるか?」
迫る感情の渦に呑み込まれていた薫は八の宮さまを懇ろに送って差し上げることが最優先であるよ、と現実に引き戻されたのです。
「殿。お呼びでございますか」
「私はあまりのことに目が塞がってしまっていた。この上は御仏の元へ旅立たれた八の宮さまを弔うことが先決であったのに、なんとしたこと。阿闍梨と山寺へ特別なはからいを用意せよ。姫君たちはお力を落とされて、そうしたことまで気が回らないであろうからな」
「はい、差し出がましいようですが、すでにそのように手配致しました。」
「そうか、それはありがたい」
「殿、姫君たちにお悔やみの文をしたためられては如何ですか?私が使者となって発ちましょう」
「そう言ってくれるか、惟成よ。では頼むぞ」
薫は心からのお悔やみを短くしたためました。
「この返事はいらぬ。私のほんの気持ちであるからな」
「心得ておりますよ」
そうして主人を励ますように笑う健気な側近に薫は感謝の念を感じずにはいられません。
「惟成、お前がいてくれてどれほど助けられることか。私が心を許せるのはお前しかおらぬのだ。これからも私を支えておくれ」
「何を仰せです。敬愛する殿の為ならばたとえ火の中、水の中、の惟成でございますよ」
乳兄弟というものは得てして濃い情愛で結ばれるものですが、この薫と惟成は殊更に深い絆で結ばれております。
薫が幼い頃に乳母であり惟成の母である人は亡くなってしまいましたが、仲の良かった二人は寂しさを埋めるように睦まじく成長したのです。
惟成は薫の傍らでじっとその苦悩を見つめてきました。
尊い君が心に大きな傷を抱えていたことを誰よりも知っているのです。
この主人の為ならば、と気持ちを新たに馬を駆り、宇治へと向かいました。
 
御堂に籠った薫は数珠を握り締めながら八の宮の御霊が安らかでありますようにと祈りを奉げました。
実の父(柏木)とは死別し、物心つくまえに源氏も母・女三の宮も仏門に帰依した薫にとって今回の宮との別れは肉親との別れに等しいものでした。
「会うは別れというものがつきものでございましょう」
宮の御言葉が今更ながらに苦しく胸を締め付けますが、だからといって宮と巡り会えたことに微塵の後悔などはないのです。
人は儚いものでございます。
その思いは今回の別れで薫には痛いほどに感じられたことでしょう。
それゆえに時を無駄にしてはならない、という焦燥が薫の運命を大きく動かしてゆくのです。

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