見出し画像

紫がたり 令和源氏物語 第三百十三話 若菜・上(七)

 若菜・上(七)
 
朱雀院が御出家されたことを世の人々は悲しみました。
御在位も短く弘徽殿大后の影響が強すぎたばかりに存在が薄く感じられたような御世でしたが、その優しいご気性はみなに慕われていたからです。
院は仏弟子となられたことで御心が軽くなられたのでしょうか。
御病状も近頃は落ち着かれたようです。
方々から出家のお見舞いなどが届けられ、院ご自身で筆を取られてお返事もなさっておられるとのこと。
それを聞いた源氏も院をお見舞いしようと使者を出しました。
 
お見舞いに伺う日はどんよりと雲が立ち込めて、冬の冴えた空気が肌を刺すような日和でした。
源氏は傍らの紫の上に言いました。
「なんだか雪が降って来そうな空の色だね。院をお慰めしたら早々に帰ってくるとしよう」
紫の上は源氏の装束に香を焚き染めると、ふと手を止めました。
鈍色の空が上の心に不安の翳りを落とします。
「いってらっしゃいませ、あなた」
それでも紫の上はいつものように取り繕い、夫を送り出しました。
 
僧形に変わられた朱雀院の御姿に源氏は目を潤ませました。
ご病状が良くなったといわれても脇息にもたれかかるようにして座っておられるのが辛そうで胸が塞がるように悲しくなります。
「源氏よ、よく来てくれた。さぁ、近くへ」
「兄上、ご無沙汰しておりました」
院はようやく源氏と会えたことを心底嬉しく思召されましたが、どうして女三の宮のことを切り出そうかと逡巡しておられます。
「兄上がまさか先に御出家されるとは思ってもみませんでした。私こそと年来幾度となく考えておりましたが、どうにも妻や子が気になり踏ん切りがつかぬものでしたので」
「そなたは変わらぬな、昔のままに若々しい。私も心に懸かることがあるのでまだ出家は先延ばしにしたいところであったが、どうにも寿命が残り少なく思われてならないので御仏におすがりすることにしたのだよ」
そう寂しく微笑まれるご様子も力なく、せつなく源氏の胸を締め付けます。
心に懸かることとはもちろん女三の宮の処遇のことでしょう。

藤壺の宮の姪である高貴な姫宮、そう思うと源氏の心はざわざわと波立つのを抑えかねるのです。
女三の宮は年が明ければ十四歳になられます。
源氏が初めて藤壺の宮にお会いした時の年齢です。
瑞々しく輝くばかりであった藤壺の宮。
その御姿を忘れようとしても源氏の心からは一生消すことはできません。
あの御方と再び邂逅できるかもしれぬ、そう考えると源氏の目は心裡の闇に向かって足を踏み出しそうなほどに大きく揺れ動くのでした。

朱雀院は優しいご気性がらはっきりと源氏に頼むとは仰せになりません。
ただ御心にある悩みを吐露するように打ち明けます。
「何しろ娘を四人も持つ父であるというのは、出家しても変わらぬことでな。母の無い女三の宮がことさら不憫に思われてならぬのだ。後見も任せられる頼もしい夫をもたせるのが一番だと思っているのだが・・・」
院はそこで言葉を詰まらせました。
「たしかに兄君であらせられる春宮が唯一の頼もしい拠り所となりましょうが、帝位につかれた後は政事に追われてきめ細かいお世話などは難しいかもしれません。それを考えると相応しい夫を持たれるのがよいですね」
院への同情と理由づけて、次第に懐柔されるように見せ、源氏は己の理性に背を向ける。誘い水のような言葉を口の端に上らせてしまう裏腹さです。
「皇女の婿選びは難しいものだ。本当は夕霧をと考えていたのだが、太政大臣の姫と結婚したばかりであるからなぁ。夕霧が独身の時に申し込んでおくべきであったと悔やんでいるのだよ。いや、実のところ今でも申し込みたいのを躊躇っている」

尊い姫宮を息子にというならば・・・。

それは息子を守ろうという父としての心か、息子に姫宮を取られたくないという男心か、源氏はとうとう取り返しのつかない言葉を口にしてしまいました。
「夕霧は若輩ですし、まだ官吏としても未熟です。思慮分別も足りないことでしょう。僭越ながら私が姫宮をお世話申し上げましょう」
源氏はそうして院の御前に頭を垂れました。

次のお話はこちら・・・


この記事が参加している募集

古典がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?