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紫がたり 令和源氏物語 第三百七十七話 柏木(七)

 柏木(七)

紫の上は女三の宮のことを思っておりました。
物の怪につけいられたということですが、六条院には宮のご回復を祈る僧侶たちも多くあったでしょう。それほどに心弱くならねばこのような事態には至らなかったはずです。
産後の経過が思わしくないとは聞いておりましたが、生きることを諦めるほどにお辛かったのでしょうか。
誕生したばかりの御子を捨てるとは、お辛かったに違いありません。

宮のご降嫁が決まった折には、自分の存在すべてを否定されたように感じていた上ですが、実際に宮様にお会いして、おっとりとした鷹揚さに嫉妬などもどこかへ消えたようでした。
それどころか皇族の姫らしく、自身の意見は二の次で周りの望むままにいらっしゃる御姿は、その幼さも合わせて気の毒にも思われるほどでした。
あの女楽の宵、これまでとは打って変わって意欲的になられた宮様を上は姉のような心持ちで労い、励ましました。
その気持ちには嘘偽りなく、立派な北の方として成長されるに違いないと信じたのです。
ご懐妊されたと聞いた時はどれほどうれしかったことでしょう。
親になるということほど成長につながる機会はありません。
まだまだこれからという時に思わぬことになりました。
かねてより御仏にお仕えしたいと考えていた自分ならばいざ知らず、まだうら若き宮様が出家するとは、誰も予測できないものでした。
紫の上はまさか御子が源氏の子ではないという事実を知りませんでしたので、このように宮を慮り胸を痛めるのでした。


さて、当の女三の宮はというと、相変わらず寝付いたままでしたが、どうにも表情が虚ろでいらっしゃいます。
青白い御顔は美しいのですが、魂が抜けたように、前にもましてただ大きな人形が横たわっていらっしゃる様子です。
まわりの女房たちは落飾された御方に相応しいよう、宮の御寝所から華やかな調度品を運びだし、飾りのない簡素な桐の箪笥などを据えました。
宮によくお似合いであった色とりどりの装束を衣裳櫃に納めるのも悲しく、何より短くなられた御髪を眺めては涙せずにはいられませんでした。
「このような若さで世を捨てられるなんてお気の毒ですわ」
姫の身の回りを世話していた女房達が嘆くのを小侍従は複雑な気持ちで聞いておりました。宮の出家を知れば柏木は頓死してしまうのではなかろうか、という心配もあります。
「まずは宮様が御仏のご加護をもってしてお元気になられることが先決ではありませんこと?」
「そうですわね。若君のためにも回復されることが一番ですわね」
元来宮の元にお仕えする者たちはそう深く色々と考えるような性質ではないようで、どこかもう諦めております。
それでも華美な装飾などが取り払われて、六条院は暗く沈んでいるのでした。

女三の宮の突然の出家はそれは世間を驚かせました。
しかしながら宮が出産で衰弱され、その御命も危ういと噂されていたものでさもあらん、というのが一般の反応でしょう。
俗世と縁を切られた御方のことをとやかく言うのは憚られるもので、裏にとんでもない秘密が隠されていることは、これでさらに覆い隠されたようです。ただ本当の父である柏木は母に捨てられた我が子が可哀そうでなりませんでした。
源氏が自分の子でもない者を愛するとは思えません。
その将来も危ぶまれ、さらに気が塞いでゆくばかり。

せめてこの命を差し出しますので、どうか息子には御慈悲を・・・。

言葉にも出せぬ願いを胸に、その目は冥府を覗き込むように落ち窪んでおります。柏木の様子は傍から見てもすでに回復する見込みはないように思われました。
それにしても今生の別れとなると思い残すことの多いこと。
柏木はこの期に及んで女二の宮に対する贖罪に苛まれておりました。
尊い宮を「落葉」などと不遜極まりなく、自分が世を去れば惨めな寡婦として世の好奇に晒されるであろうと思うと胸が詰まり、何より経済的に困窮されれば気の毒であります。
先々のことを慮り、見舞いに来た友人たちに端から頼むと涙を流して訴えるのです。
しまいには、まだ若々しい父・致仕太政大臣にも宮を気遣っていただくよう懇願するのでした。
「父上、私はこのように短い命とも知らず、驕り、あの人にひどい仕打ちをしてしまいました。私が死んだら、どうかあの人を気にかけてやってください」
「柏木よ。そう思うのならば回復しておくれ。自らの手で宮様を幸せにしてさしあげるのだ」
もうそれはできそうにない、と柏木は弱々しく一筋の後悔の涙を流したのでした。
父と母はそんな愛息子をせつなく眺めることしかできない無力さに打ちのめされておりました。

今上は柏木の能力をこれからの国造りにと期待していたので、たいそう御心を痛められております。その御心を示せば少しでも快方に向かうのではなかろうかと権大納言へと昇進させました。
夕霧は始終柏木を見舞っていたもので、この昇進の話を耳にするや祝いを述べようと一番に飛んできたのでした。

次のお話はこちら・・・


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